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『(500)日のサマー』ネタバレ感想――悪女?ビッチ?否!私は全力でサマーを擁護する!

※注意!『(500)日のサマー』のネタバレがあります。

 

『(500)日のサマー』の感想を検索すると、ヒロインのサマーに対する文句をちょこちょこと目にする。

いったん、それらの文句を「サマーは主人公トムを振り回した挙げ句、別の男と結婚した悪女」と要約させていただく。

そして私は、サマーを擁護させていただきたい。「サマーは悪女ではない!」と。

というわけで、これは私がサマーのことを切々と擁護するだけの記事である。最後にどんでん返しを挟み、「やっぱりサマーってクソだわ」といった結論にしないことだけ予告させていただく。

 

 

 

 

あらすじは以下の通り。

建築家を夢見つつもグリーティング・カード会社で働くトムは、社長秘書として入社してきたサマーに一目ぼれをする。運命の恋を信じるトムは果敢にアタックし、遂に一夜を共にするのだが、サマーにとってトムは運命の人ではなく、ただの「友だち」でしかなかった。そんな、トムとサマーの500日の出来事を軽快に描くビター・スウィートなラブコメディ。

 

引用元:(500)日のサマー : 作品情報 - 映画.com

 

 

この映画には意図的にバイアスがかけられている

最初に言いたい。この作品はトムの目を通して描かれている。
彼の見ている世界と妄想。例外は、冒頭で流れる幼いサマーのシーンと結婚式のシーンのみだ。
つまり、私たちがこの映画で出会うサマーとは、トムの目を通したサマーである。

 

経験したことないですか?
例えばAさんという人がいたとする。あなたはAさんに会ったことはなく、知人から聞いた話の中でしか彼(彼女)のことを知らない。
Aさんはとても酷い人だという。自分勝手だし、無神経。知人はAさんによって何度も酷い思いをさせられてきた。
何という人だろう、と私たちは思う。きっとAさんは人間失格で嫌なヤツに違いない。
だが、実際にAさんと会う機会があったとき、我々は拍子抜けする。
あれ、言うほどAさんって無神経じゃないよね?むしろ、気遣い上手の人にも思える……

上述のことを念頭に置いて、サマーについて考えてみたい。

 

 

サマーはトムを愛していた

まず、先に結論づけたい。サマーはトムと運命的な恋をしたかったのだと。
「真剣につき合う気はない」と彼女は言っているが、これは防衛機制だ。

ja.wikipedia.org


サマーは幼い頃に両親の離婚を経験し、それがトラウマとなっている。恋とか愛について、過剰な期待を寄せないようにしてきたのが、サマーの処世術だったのではないだろうか。

そんなサマーの前に現れたのが、運命的な恋について、てらいもなく熱く語るトムだ。彼女の心にトムの存在が刺さったのも当然のことだろう。

彼女はトムに近づき、軽い関係という前提はあるものの交際を始める。最初は彼女も交際を楽しんでいた。サマーは確かに、無邪気で大人になっても夢を忘れないトムを愛していた。


だが、徐々にズレを感じ始める。
トリッキーな構成の今作を時系列に整理してくれたのが以下のブログだ。nobynblog.hatenablog.com


191日目では平和にデートをしていたが、259日目では不穏な空気が漂っている。恐らくこの間にズレが生じたのだろう。
それはどんなズレなのか?

 

 

妄想のサマー、現実のサマー

ここでオープニングに戻ってみる。
ジーナ・スペクターの「Us」をバックに、左側に幼少時のトム、右側に幼少時のサマーのビデオ映像が流れる。

まだ二人が出会う前の映像だから、それぞれ独立した内容だ。
しかし、最後のシーンはリンクしていないだろうか?
右側のサマーが左側に向かってたんぽぽの綿毛を吹いて飛ばす。一瞬遅れてトムのもとにシャボン玉が飛んでくる。このシャボン玉は、サマーが飛ばした綿毛と同質のものだ。無邪気な幼いトムはシャボン玉=サマーが飛ばした綿毛をご丁寧にひとつずつ潰し、なぎ払う。
191日目から259日目、いやそれよりももっと前から、トムはサマーの発したメッセージを受け取らずに潰し、なぎ払っていたのでは?


トムは、あくまで自分の頭のなかで構築したサマーを愛している。
彼女と初めて出会ったときに流れる「サマー効果」の説明シークエンス、これはサマーの生い立ちについて語っているわけではなく、完全なトムの妄想だ。
何しろ、トムは幼い頃から映画『卒業』を拡大解釈するような人物である。ほかにも彼が思い込みの激しい人物である描写が随所でなされている。

 

 

トムよ、君はサマーの何を知っている?

トムって、サマーのことを知ろうとしたことがあったっけ?とふと思う。
サマーはトムを知ろうとした。トムが本当は建築家になりたかったことを知り、彼の目を通して建築物を見たりと、彼の夢を理解しようとしていた。
破局後にトムはサマーからパーティに招待される。そこで彼がプレゼントに持っていったのが建築の本である。
何やってるんだよ、トム!サマーは別に建築が好きではないんだよ!君のことが好きだから、君の世界を知りたかったから、あんなに熱心に話を聞いていたんだよ。想いが冷めてしまった今、建築の本なんて嬉しいわけないじゃん。と、口汚くトムを叱りたくなってしまう。

一方、トムからサマーについて尋ねているのって、過去の恋愛遍歴についてぐらいだ。君、サマーの趣味を知っているかい?サマーはどうして『卒業』を観て号泣したの?サマーの一番好きなアーティストは誰?スミスが一番好きだとは限らないよ。


トムの妄想と現実のズレが極致に達するのが、サマーのパーティに参加するシーンだ。ここで画面を二分割して妄想と現実のシーンを並行させるのは、捻りをきかせた演出をしたいという以上の意図を感じる。
妄想の中でトムはサマーとよりを戻したが、現実ではサマーは別の男と婚約中だった。トムの妄想の中のサマーと現実のサマーは、こんなにも乖離していた。交際中にトムがもっとサマーに歩み寄っていたら、ここまで乖離することがあったのだろうか?

思い込みでサマー像を構築し、目の前のサマーを見ようとしない。サマーがそのことに気づいたのが191日目から259日目の間のことなのではないかと私は思う。

 

後にサマーは語っている。デリでサマーが『ドリアン・グレイの肖像』を読んでいるときに、今の夫が「何を読んでいるの?」と話しかけてきたことが出会いのきっかけだった、と。
夫は初対面の時点から、サマーの心を知ろうとした。これがトムとの差だった。運命的な出会いについて語るサマーを、トムは理不尽だと皮肉るが、そんなことはない。ずっと運命を信じたいにもかかわらず、できなかったサマーの心を今の夫が解きほぐせただけだったのだ。

 

 

サマーにもトムにも幸あれ!

サマーは確かに自分の本心を押し殺して虚勢を張っている、少々面倒くさい女性だ。しかし、彼女なりにトムを愛していたし、一時期は彼との幸せな未来を夢見ていたように思う。
今の夫の前では意地を張らず、自然体な姿で、いつまでも幸せに暮らしてほしい。


そして、トムである。色々と言ってしまったが、私はトムが好きだ。思い込みが激しいし、少々独りよがりだが、人が良くて憎めない。
よりを戻せないと知り、彼は一時的に自暴自棄になるが、その期間に自分の夢と向き合い、サマーとの思い出を棚卸しする。内省の期間だ。
その最後で、彼はサマーに別れを告げられる直前に何があったかを思い出す。ここで何か気づくことがあったのだろう。直後のシーンでトムの再起が描かれる。
ここのシーンが本当に好きで、バックで流れるウルフマザーの「Vagabond」も好きになった。

 

完璧なものではないかもしれないが、トムは確実に成長している。頑張れ、トム!オータムとは上手く行くように応援してるぞ!

 

(500)日のサマー (字幕版)

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余談ではあるが、『(500)日のサマー』の女性版が映画版『勝手にふるえてろ』だと思っている。

私は女性だから楽しんで『(500)日のサマー』のサマーを観られたが、逆にこちらは(すごく楽しいのだが)観ていて辛い!色々と覚えがあるぞ、このシチュエーション、と思わされることが多くて、楽しみながらも身もだえする。

男性の方々が『(500)日のサマー』を観ているときは、こんな気持ちなんだろうかと我が身を省みた次第である……