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映画版『ディア・エヴァン・ハンセン』感想2回目。「自分さがし」は身が引き裂かれるほどに辛く苦しいもの。それでも、私たちは本当の自分との対峙を続けなければならない。

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※注意!『ディア・エヴァン・ハンセン』のネタバレがあります。

 

 

『ディア・エヴァン・ハンセン』2回目の観賞を終えた。前回は少し消化不良に感じたのだが、今回はただただ心が洗われる思いをした。モヤモヤしていた部分がストンと腹に落ちたのだ。

 

 

前回の記事で何度も「本当の自分」という言葉を出したが、ここで白状させていただきたい。ごめんなさい、口先だけで言っていました。本編中でエヴァンが「本当の自分」と言っていたから、私もそう言っただけなのである。情けない。

 

さて、今回改めて見たことで、改めて今作は「本当の自分になること」の物語だったのだと思えた。

 

 

 

 

ペルソナとエゴ

エヴァンたち主要登場人物には、社会的に見せる顔と、誰にも見せることのない顔がある。心理学的にいれば、前者がペルソナで後者がエゴ(自我)といったところか。

ペルソナとは、自己の外的側面。例えば、周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあるが、これがペルソナである。

 

引用元:ペルソナ (心理学) - Wikipedia

自我(エゴ)- 意識の中心であり、個人の意識的行動や認識の主体である。意識のなかの唯一の元型。 

 

引用元:元型 - Wikipedia

 

エヴァンの場合、「他人から変だと思われない自分」がペルソナであり、「社会不安障害の自分、最悪の自分」がエゴだ。エヴァンにとってエゴの部分を周りに晒すことは「太陽の光に焼かれて火傷を負うこと」だ。本当の自分を知られたら、皆に嫌われてしまうと彼は信じている。だから彼はペルソナという仮面を被り、火傷をしないよう日陰に逃げ込む。

 

ほかの登場人物についても、ペルソナ、エゴの順に挙げてみる。


ゾーイと彼女の父・ラリーは「コナーを亡くし嘆いている家族(周りから与えられたペルソナ)、コナーの死を悲しく思わない自分(自分自身が課したペルソナ)」と「コナーを亡くしたことを哀しむ自分」。

 

アラナは「悩みなんてもっていない優等生の自分、匿名の人である自分」と「弱さを抱えた自分、匿名の人が隠す秘密の部分である自分」。

 

ちなみにエヴァンの母・ハイディとゾーイの母・シンシアは彼女たち個人がペルソナとエゴに別れていると言うよりは、エヴァンの中で分裂した二つの母親像を表しているような気がする。今は考えがまだまとっていないが。


ペルソナは社会で生きる上では必要不可欠だ。家の中でのリラックスした状態のまま、仕事に行くことなんてできるわけがない。だが、あまりにもペルソナが自分の心の大部分を占めると、私たちは自分が何者だか分からなくなって、ときには生きる意味すら失ってしまう。以下ではこの状態を、河合隼雄氏に倣い「ペルソナが硬化した状態」と呼ぶ。

 

 

ペルソナに囚われたエヴァン

劇中歌ではペルソナが硬化している状態を「日陰に逃げ込む」、エゴに向き合うことを「太陽の光に手を伸ばす」と表現する。
アラナなら、前者を「匿名の人であること」、後者を「本当の自分であること」と表現している。


冒頭でエヴァンが『Waving Through a Window』を歌うシーンには、彼の抱える問題が凝縮されている。彼はセラピーの課題になっている自分への手紙で「be yourself」と書く。だが、直後に「自信を持て」等々と自分自身に注文をつける。それは理想像であって今の彼にとっての「yourself」ではない。

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エヴァンは他人を意識しすぎて、自分の口にする言葉、仕草をいちいち気にする。ペルソナが硬化しすぎて、むしろ他人から見れば奇妙な姿だ。


私自身、覚えがある。「この人、ずっと笑っているのに、いっしょにいるとなんだか居心地が悪い」という感覚。私がそう感じることもあれば、逆に相手にそう感じさせたらしき事例もある。そのときの彼らや私は、相手の目を気にしすぎて硬化したペルソナを身につけていたのかもしれない。あまりに仮面が分厚すぎて、自分自身だけでなく、相手すら見えない。目の前の人と喋っているのに、全く相手を見ていないのだ。

 

硬化しすぎたペルソナでは、人と上手くつながることなどできない。エヴァンがどれだけ窓の外から手を振っても、誰も反応を返してくれないのはある意味当然だ。

 

ただでさえ分厚い仮面をつけたエヴァンは、さらに「コナーの親友」というもうひとつの仮面をつける。この仮面について、前回の記事では「子ども時代を終え、大人へと変わる際に身にまとう姥皮」だと表現した。今回は、「もうひとつの仮面」としての側面に注目したい。

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「コナーの親友」という仮面

「コナーの親友」になることで、エヴァンは憧れだったゾーイと親しくなることができた。ラリーとシンシアという両親の代わりになる存在も見つけた。幼い頃に父が家を出ていき、母は仕事に没頭している。エヴァンは家族に対して満たされない想いを抱えていたが、マーフィ一家の一員となることで、そのさみしさを解消できた。影から見つめることしかできなかったゾーイと恋人になることもできた。

 

もうひとつの仮面をつけることで手に入れた居場所は、エヴァンにとってどれだけ心の助けになっただろう。だが、偽りの姿で手に入れた居場所は長く続かない。彼がマーフィ一家の一員としての世界にのめり込んでいるうちに、現実世界との歪みが広がっていく。


歪みが最高潮に達したとき、新たな居場所は外的な意味でも、内的な意味でも崩壊する。それがSNS炎上であり、ハイディとの決裂だ。エヴァンは「コナーの親友」という仮面を脱ぎ捨て、「本当の自分」に戻らなければならない。彼は自分の嘘を告白し、孤独の時間を過ごす。

 

 

影との対話

自己実現のためには孤独になることが必要だという。直視できない部分も含めた「本当の自分」と対峙するには、一対一で行うべきなのだろう。エヴァンは孤独に耐え、本当のコナーを知ろうとする。コナーはエヴァンにとっての影だ。

ユング心理学の概念の1つに「影(シャドウ)」というものがあります。
簡単に言うと、自分自身について認めがたい部分、その人の人生において生きてこられなかった側面を表すものとされます。

 

引用元:「影」のはなし | 学生相談所


コナーはエヴァンと同じく社会に馴染めない人間だ。そして、エヴァンと異なり、他人から変だと思われるような行動を進んで取り、最後は命を絶った。彼はエヴァンが歩んだかもしれないもうひとつの人生の象徴だ。

 

コナーの好きな本を読んだり、彼の本当の知り合いにコンタクトを取ることが、エヴァンにとってコナーの世界へ足を踏み入れることであり、彼のナレーションにある「井戸の底に潜ること」だ。思えば村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』の「僕」も井戸に潜っていた。河合隼雄と村上春樹の対談で、この部分に言及されていたことを映画を観ている最中に思い出した。

 

孤独で静かな対話を重ね、コナーの本当の姿を知ることで、エヴァンは再び生きる気力を取り戻す。影との対話を経て、少しだけでも和解につなげた。だから、最後に流れる『A Little Closer』では「遠く感じていたけれど、今日は少し近く感じるんだ」という歌詞が出てくるのだ。

 

 

母との絆がエヴァンをこちら側につなぎ止めた

影との対話は簡単なものではない。ときに、あちら側に引きずられることさえある。それでもエヴァンが影に囚われなかったのは、それだけ覚悟を決めていたということもあるだろうが、これに先立ち、ハイディとの対峙を経て和解に至ったことも大きいと思う。自分を放っている薄情な母だと思い込んでいたが、本当のハイディはずっとエヴァンを愛し、寄り添おうとしていた。「どんなあなたであっても愛している」と言ってくれる存在があってこそ、エヴァンは井戸の底に潜ることができた。

 

母の無償の愛などとは言われるが、この母子の場合はそれだけでない。自身が傷つくことを恐れず、エヴァンとハイディは深く踏み込んだ対峙をしたからこそ、強い絆を築けたのだろう。序盤のときのように表面上の対話だけを続けていれば、こうはならなかったはずだ。

 

 

さいごに

終盤、エヴァンの孤独の期間はさらっと書かれたが、恐らく気が狂いそうになったり、自己否定が極まり自暴自棄になることもあったのではないだろうか?自分の内面と向かい合うことは苦しい。

 

影の部分と向き合うことが多いであろうクリエーターの人たちは、どんな苦しい思いをしているのだろう。何かケアするシステムが確立されることを願ってやまない。彼らは私たちの心を支えてくれる作品を生み出してくれているのだから。


それはそうと、考えてしまう。なるべく平穏に影と和解して、「自分さがし」を実現できないだろうか?そんな都合のいい方法を探してしまうが、世の中そんなに甘いわけがない。


影との対話をラクに済ませられる汎用的な方法が存在していれば、ル=グウィンは『ゲド戦記』を書いていなかっただろう。『ねじまき鳥クロニクル』だって、一冊完結(ページ数も少ない)の話だったはずだ。

 

私たちがやることは、考え続けること、周りの人や先人の考えに学ぶこと、これらに尽きるのではないだろうか?人がいれば、その分だけの影との対話の履歴がある。自分に100%フィットした対話法はなくとも、何かしら糧になることがある。現に、私は今回のエヴァンの姿が、確実に糧になった。

 

たとえ砂一粒くらいの小さな糧でも、根気強く続けていくしかない。だから私は今日も、映画や本で「物語」に触れ続けるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

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