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「主人公が成長しない作品」に対する雑感。三宅隆太『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』を読みつつ。

※注意!映画版『ディア・エヴァン・ハンセン』のネタバレがあります。

 

 

 

 

映画や小説をはじめとするストーリーもののレビューに対して、ちょくちょく「主人公の成長が見られない」という指摘を見かける。かく言う私も主人公の成長が感じられないと、割とモヤモヤするタイプだ。私を含め、なぜ一部の人はこんなにも主人公の成長を望むのだろう、というのを考えてみたくなり、今回の記事を書いている。つらつらと思うことを書いていくのでまとまりに欠けるかもしれないが、どうかご容赦いただきたい。

 

 

何を以て「主人公の成長」とするかによっても、不満を感じる度合いに変化が出るのではないかと思う。当ブログで頻繁に取り上げている『ディア・エヴァン・ハンセン』にしても、エヴァンの嘘を中心にして考えると、非常にモヤモヤする。嘘をついたことによるエヴァンに対するしっぺ返しが弱いのだ。しかも、SNS炎上の被害を一番被っているのがマーフィ一家だという点もモヤモヤに拍車をかけているように感じる。私も初回観賞のときは、そこが不満だった。

だが、2回目に観賞したとき、これは「最悪の自分を見せないよう、他人から逃げていたエヴァン」の成長物語なのだと感じた瞬間、すとんと腑に落ちた。

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そういうわけで、人によっても主人公が成長したか否かの感じ方に差が生じる。ただ、誰が見ても「これは成長物語ではない」と感じるストーリーはある。

三宅隆太『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』で「窓辺系」と取り上げられる作品のことだ。

『窓辺系』作品の典型的なストーリーラインは、「人づきあいの苦手なOLが田舎に帰って自分探しをした結果、少しだけ元気になった(つもりで)東京に戻ってくる話」です。

(中略)

 いずれのパターンでも共通しているのは、主人公が極端に内向的で、思っていることを口にしたり、問題を解決するための具体的な行動をとったりすることがなく、かわりに独りで「窓辺」に立ち、物思いに耽ったり、思い悩んだりする場面がくり返し出てくるという点です。

 

 

引用元:三宅隆太著『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』、新書館

 

三宅氏は窓辺系作品が抱える問題を複数にわたって挙げているが、当記事では特に以下の点に注目したい。

  • 作者が主人公の「内面」に入り込むあまり、「実際には描かれていない心情」を描いたつもりになっている。
  • 結果、主人公が孤立し、「環境や他の登場人物たち」との間に「外的葛藤」が生じない。
  • 主人公の「内的葛藤」が相対化されないまま後半を迎えるため、明確で力強い「クライマックス」(葛藤の解消行動)が発生しない。
  • にもかかわらず、ラストシーンではいつのまにか主人公が変化・成長したかのように描かれている。

そのために、窓辺系の作品は以下のような罠に陥る。

 ところが、典型的な『窓辺系』の主人公は限界まで追い込まれません。

 だから『殻』も破れないし、書き手であるあなたの心の中にも力強い変化や成長が起きないのです。

 

私が読んでいて、窓辺系だと感じる作品のあらすじは、だいたいがこんな感じだ。

 自分に自信が持てない主人公。周りは華やかな子ばかりで、彼らと比べては落ち込む日々を送っている。ある日の放課後、主人公が窓辺で思い悩んでいると、そこに偶然、クラスのアイドル的生徒が教室に入ってくる。彼(彼女)は悩む主人公に目を留め、何があったのかと問いかけてくる。主人公は思いきってさえない自分に対する悩みを明かす。

 すると、クラスのアイドルは主人公に言う。「君はいつも朝一番に教室に入って、一生懸命勉強しているね。地元のトップ大学を目指しているんでしょう?そんな一生懸命なところ、すごいと思っていたんだ。君は君のままでいいんだよ」

 自分の頑張りを見ている人もいる。地味だからって、気にする必要はないんだ。主人公はそう思い、自分への自信を取り戻す――

何もしていないうちに主人公は権威のある人間に褒められ、めでたしめでたし、という風に終わる。昔、こういう小説を書いてニヤニヤと自己満足に浸っていたことは過去の記事に書いておいた。お恥ずかしい限りである。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

別に窓辺系作品をダメだと言うつもりはない。「今のままの君でいいんだよ」というメッセージを欲する人には、窓辺系が必要だ。

だが、同時に思う。人は窓辺系作品だけで生きていけるのだろうか。

 

確かに窓辺系作品は読む際にストレスを感じにくい。主人公が周りから責められることもないし、外的な要因により窮地に陥ることもない。逆に「主人公が成長する作品」は特に後半が辛い。大切な人との決裂があったり、敵対者に極限まで追いつめられたりもする。主人公に感情移入すればするほど、観客側はストレスを感じる。

「主人公が成長する作品」は、むしろそこに醍醐味がある。どうしようもない状態まで追いつめられ、あとは諦めるしかないような中、主人公が本編で学んだことを用いてブレイクスルーを果たす。ここに私はカタルシスを感じる。

 

窓辺系は問題が起きても、解決するのは主人公ではない。主人公が抱える問題は、周りの人間が動くか、周りの人間に無条件で認められることで、何もせずして解決する。ここに私は拍子抜けしてしまうのだ。

 

週刊少年ジャンプの作品に対し、「血統主義」だという批判を見かける。ジャンプ作品の主人公は何かしら強い存在の血を引いており、それが彼らの強さの根拠となっていることが多いというものだ(個人的に血統主義に対しては、そこまで抵抗を感じない。その血統ゆえに主人公がと敵対者の対立関係が生まれたりするわけで、血統を上手くいかしている作品も多いと思う)。

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血統主義について抵抗を感じる人は、恐らく「主人公が強いのは優秀な血筋だから。努力ではない」という部分が気になるのではないだろうか。

私が窓辺系に見いだしている問題が、これに近い。「主人公が問題を解決したのは、彼(彼女)が主人公だったから」だと感じてしまう。これでは、一時的にストーリーを楽しむことはできても、得るものがない。

 

すべての物語に人生の糧を求める必要はない。食においても同じで、三食だけで栄養は足りるのに、我々はおやつも食べたくなる。栄養は置いといて、おいしさそのものを求めたっていい。

ただ、おやつだけ食べて生きていくことができないように、窓辺系作品だけで生きていくことはできないと思う。辛い描写があってもなお「主人公が成長する作品」は生まれ続けてほしいし、廃れないでいてほしいと思うばかりだ。