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『戦場のメリークリスマス』わからないからこそ惹かれる名作についてのネタバレ感想

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※注意!『戦場のメリークリスマス』のネタバレがあります。

※追記あります(2022/04/18)

※タイトル変えました(2023/04/13)

 


気がつけば、アマプラに『戦場のメリークリスマス』が加わっていた。というか、大島渚監督作品が大量に増えていた。

大島氏の作品については『戦場のメリークリスマス』のほかは『愛のコリーダ』(この作品のDVDを購入するために、初めてAmazonのアダルトショップを利用した)ぐらいしかきちんと観ていないので、この機会に開拓してみたいものである。

 


さて、今回は『戦場のメリークリスマス』(以下『戦メリ』)についての感想だ。

 

 

 

 

 

あらすじは以下の通り。

1942年、太平洋戦争下のジャワ島。日本軍の捕虜収容所では厳格なエリート士官の所長・ヨノイ大尉、粗暴ながらもどこか憎めない古参のハラ軍曹らのもと、英軍将校ロレンスら数百人の連合軍捕虜が日々を過ごす。ある時、軍律会議に出席したヨノイは、新たに捕虜となった英軍少佐セリアズと出会う。死を覚悟してなお誇りを失わない彼の姿に、ヨノイは不思議と魅せられる。ヨノイは、セリアズを捕虜長へ取り立てようとするが……。

 

引用元:戦場のメリークリスマス | 映画 | WOWOWオンライン

 

『戦メリ』についての私感

さて『戦メリ』は難しい映画だと思う。観たら感動する。だが、何に感動しているのか自分でもよくわからない。「人が死んだから、悲しい」みたいなわかりやすい感動ではない気がする(いや、本編で主要人物の死が描かれてはいるのだが)。

起こっている出来事自体はそこまで難解ではない。なのに、それをとりまく人物の心の機微が読み取りづらい。

さらには「東洋と西洋のぶつかり合い」というテーマも、私の混乱に拍車をかけている。なにしろ私は生まれも育ちも日本で、西洋人の知り合いもいない。西洋合理主義とか一神教の論理について、薄い知識として持ってはいるが、血肉になるまで理解してはいない。さらに、作中の東洋人側の論理がわかるかと言えば、時代の違いによるわからなさがあって、それはそれで混乱させられる。

『戦メリ』って、よくわからない、だけども好き。そんな思いのもと、私自身が何に感動したのか書き出してみたいと思う。

 


今回、感想を書くにあたって『『戦場のメリークリスマス』30年目の真実』(WOWOW「ノンフィクションW」取材班、東京ニュース通信社)を副読本にした。私は2015年に出版されたものを読んだが、去年完全版が出たらしいので、今から読むなら後者をオススメしたい。以下、本文中では『30年目の真実』と表記させていただく。

 

 

また、河合隼雄の『影の現象学』も参考にした。ヴァン・デル・ポストによる原作『A Bar of Shadow』に触れている部分があり、私自身、今回改めて『戦メリ』を観る際にかなり影響を受けたためだ。

 

 

ふたつの「東洋VS西洋」

さて『戦メリ』には「東洋と西洋のぶつかり合い」という、見える部分でのテーマがある。

1942年、ジャワにある日本軍の俘虜収容所。中にいるのは、支配者側の日本軍人と俘虜である英国軍人である(ほかにも朝鮮人や中国人の軍属がいる)。日本軍人は英国軍人を力で押さえつけようとするが、英国軍人たちはそれに抵抗する。東洋VS西洋の構図だ。

主要人物においても「東洋VS西洋」の構図は存在する。まずはハラとロレンスの関係。もうひとつはヨノイとセリアズの関係である。

『30年目の真実』の大島氏へのインタビューにて興味深い箇所がある。

(前略)それともうひとつ、ロレンスというのは、一種ヨーロッパ合理主義の軍人みたいな人物なんだけども、セリエの方は、ちょっとミステリアスというか、いつも弟に対する原罪ということを考えているような、また別の神秘性を持った人間なんですね。

 で、僕のトータルな映画のイメージとしては、やはりヨノイも一種の日本の"神"であるし、ハラもまた"神"なんですが、その神には、西洋合理主義だけでは抵抗できないわけで、そこでセリエというもう一人の神というか、異神というか、異国の神が登場することによってドラマが起きる、そのぶつかり合いがとても面白い、という風に感じたんですよね。

 

 

引用元:WOWOW「ノンフィクションW」取材班『『戦場のメリークリスマス』30年目の真実』、東京ニュース通信社

これは原作について言及している部分で、セリエというのは『戦メリ』におけるセリアズのことだ。

また、別の箇所でハラを「鬼軍曹」、ヨノイを「いってみれば二・二六事件をやったのではないかといわれるような青年将校」と述べ、二人を「いわゆる日本軍人の二つの典型」と表現している。

これに従ってふた組の関係を簡略化してみると、

  • 鬼軍曹的日本の神VS西洋合理主義
  • エリート将校的日本の神VS西洋の神

ということになる。

以降、この対立構造を踏まえて考えてみたい。

 

 

なぜセリアズはヨノイにキスをしたのか

「罪」と「恥」

私の中で、最もわからないのが『戦メリ』屈指の名場面であるセリアズからヨノイへのキスシーンだ。

セリアズがなぜヨノイにキスをしたか。これが私にとっての謎なのだ。

このシーン自体は感動する。ボーイズラブ的な視点から見ても、美しく素晴らしい。だが、セリアズの意図がわからない。

ヨノイがセリアズにひとかたならぬ想いを寄せているのはわかる。だが、セリアズがヨノイをどう思っているのかがわからない。なのにキスをするのはセリアズからヨノイに対してだ。

「ヨノイ、お前を愛している。もうやめてくれ」的な意図だったらわかりやすかった。そして、もしそうだったらここまで『戦メリ』に心惹かれることもなかった。

 


セリアズは不羈の人だ。日本軍に投降した後も、彼は胸を張って日本人と対峙する。だが、そんなセリアズには罪悪感が常につきまとっている。彼はかつて、弟が学友にいじめられているのを見て見ぬふりをしたのだ。セリアズは「"裏切り"の思い出ばかりだ」と作中で吐露する。大島渚が「弟に対する原罪」と言っているのは、このためだ。セリアズは「罪」に心を支配された人である。

 


一方、ヨノイと同じ日本人であるハラは、何かというと「恥」という言葉を口にする。特に作中のロレンスとの対話でのハラの言葉が印象的だ。

「お前ほどの将校がなぜこんな恥に耐えることができるんだ。なぜ自決しない」

 

引用元:大島渚(監督、脚本)、ポール・マイヤーズバーグ(脚本)、戸田奈津子(字幕翻訳)、1983、『戦場のメリークリスマス』松竹、松竹富士、日本ヘラルド

ハラにとっての「恥」とは、死に値するほどのものだ。恐らく、同じ文化で育ったヨノイも、似たような思想を持っているだろう。

 

文化人類学者ベネディクトは、西洋を「罪の文化」、東洋を「恥の文化」と表現した。

kotobank.jp

リンク先の項目「恥の文化」の後半で、ベネディクトの説に対する反論が行われているが、ここではいったんベネディクトの説を土台にしたいと思う。

よって、

  • ロレンス、セリアズ=罪の文化の人
  • ハラ、ヨノイ=恥の文化の人

と、かなり強引にだが類型化しておく。

 

 

文化の違いによるすれ違い

さて、文化の根本が大きく違うから、お互いがお互いの行動原理を理解できないのも当然だ。

先に取り上げたとおり、ハラは俘虜になってなお自決しないロレンスたちが信じられない。セリアズは自分に何かを言いたげなのに、言葉で表現しないヨノイがわからない。日本人に一定の理解を示しているロレンスですら、日本兵が見せる狂気が理解できない。

無論、ヨノイだって西洋人の行動原理がわからないわけだ。ましてや彼はエリート将校。幼年学校や士官学校での教育を受け、純度の高い日本人的精神を獲得した。下衆の勘ぐりではあるが、ヨノイの目から見る世界とは、非常に一面的だったはずである。「恥の文化」や大和魂のみで構築されているのが、ヨノイの世界観だ。

 


そんなヨノイの世界観を揺るがしたのが、セリアズだ。軍法裁判にかけられた彼は、日本人の常識では考えられない返答をする。彼の返答の内容には、「恥の文化」の影響がない。だから、セリアズもロレンスと同じく投降を恥と思っていない。

ヨノイにとって、セリアズとの出会いは衝撃的なものだったに違いない。鉄壁だったヨノイの世界観をセリアズが揺るがしたのだ。

 

 

精神的秩序

ユング心理学では、人の心は層構造になっているとされる。ここで河合隼雄の著書から引用させていただく。

 ユングはこのような例から、人間の無意識の層は、その個人の生活と関連している個人的無意識と、他の人間とも共通に普遍性をもつ普遍的無意識とにわけて考えられるとしてのである。(中略)ここに、個人的無意識とされる層は、一度は意識されながら強度が弱くなって忘れられたか、あるいは自我がその統合性を守るために抑圧したもの、あるいは、意識に達するほどの強さをもっていないが、なんらかの方法で心に残された感覚的な痕跡の内容から成り立っている。

 

引用元:河合隼雄著『無意識の構造』、中央公論新社

 

さらに、河合氏の別の著書では以下のようにも述べられている。

無意識内に形づくられている心的内容は、その人の自我の一面を補うような傾向をもっていることが認められる。

 

引用元:河合隼雄著『コンプレックス』、岩波書店

 

ヨノイは「恥の文化」にどっぷりつかって生きてきた。だが、ヨノイの心全体で考えると、彼の潜在意識の中にはそれを補完する世界観もある。とはいえ戦時中の日本において、ロレンスやセリアズのような価値観・世界観を持って生きるのは難しい。だから、ヨノイはロレンスやセリアズ的な考えを抑圧することで、自分を保ってきた。

 

そんな中でセリアズに出会い、彼に惹かれることで、ヨノイの世界観は崩壊寸前だ。ヨノイはセリアズに「お前は悪魔か」と問いかけ、セリアズが「そう。あんたに禍いを」と答えるシーンがある。まさに、セリアズはヨノイが守り通してきた世界観にとっての禍いだったわけだ。

 

さらに、ヨノイがロレンスに対し、彼の処刑を言い渡すシーンに注目したい。

「つまり罪は必ず罰せられねばならず、それで私が処刑に? 誰でもいいのか?」

「そうだ」

「つまり私は死んで君の秩序を守るのだ」

「そのとおり。君はわかったようだ。私のために死ぬのだ」

 

引用元:大島渚(監督、脚本)、ポール・マイヤーズバーグ(脚本)、戸田奈津子(字幕翻訳)、1983、『戦場のメリークリスマス』松竹、松竹富士、日本ヘラルド

少し説明をしておきたい。これは俘虜のための病棟で、無線機ラジオが発見されたことを発端とした出来事だ。無線機を持ち込んだ罪で、セリアズとロレンスは投獄される。だが、二人とも無線機の持ち込みを認めてはいないし、彼らが犯人だという確たる根拠もない。にもかかわらずロレンスたちは処刑を言い渡されたのだ。

ここでロレンスが言及している「君の秩序」とは、俘虜収容所内における日本軍人的ルールのことを指していると思われるが、同時にヨノイの精神的な秩序についての暗喩にも思われるわけである。

 

ヨノイの世界観や精神的秩序は揺らいでいる。それらを維持するため、ヨノイはロレンスとセリアズの処刑を決めた。

「無線機を持ちこんだくらいでセリアズを処刑するつもりではあるまいな」とロレンスはヨノイに問う。ヨノイがセリアズを処刑するのは、自身の精神的秩序を守るためなのだと私は思う。

 

 

ヨノイは狂気に囚われる

鬼軍曹であるハラに比べ、ヨノイは理性的な人間だ。部下を殴打するシーンはあるものの、ロレンスから苦情が来たときに激昂せず、彼の言い分を聞いたりするような度量がある。それが、物語が進むにつれ、狂気に囚われていくようになる。

前半の時点からヨノイはセリアズに惹かれていたが、恐らく自覚はしていない。ゆえに、辛うじて彼の心は平穏だっただろう。

しかし、セリアズ本人に「あんたに禍いを」と言われ、さらに部下のヤジマからも「あの男は隊長殿の心を乱す悪魔です」と告げられる。自分がセリアズに惑わされていることに、気づかずにはいられなくなる。ヨノイを狂気に駆り立てたのは、焦りからではないだろうか。やはり、精神的秩序の揺らぎは、ヨノイにとって重く衝撃的な出来事だったのだ。

 

中盤からクライマックスにかけて、ヨノイの狂気は増していく。それが頂点に達したとき、ヨノイはもはや誰の話も聞けないような状態になっていた。俘虜の中でも特に激しく対立していた俘虜長ヒックスリを殺そうとする。そこにやって来るのがセリアズだ。セリアズはヨノイにキスをし、彼の狂気を止めるのだった。

 

 

セリアズの罪

そこで序盤の問いかけに戻りたい。なぜセリアズはヨノイにキスをしたのか。先に述べたように、私はそこまでセリアズからヨノイに対する感情に強いものを見いだせない。だから、わからないのだ。

 

さて、セリアズという人間を語る上で外せないのが、弟への罪悪感だ。幼い頃のセリアズは、弟を守る兄だった。いじめっ子に襲いかかられても、自分の身を挺して弟を庇うような兄だ。

だが、進学するに至って、関係性が変わる。セリアズは弟を恥じるようになった。弟には背中に大きなこぶがあり、生徒たちから奇異の目で見られたのだ。優等生だったセリアズは「僕の身内は完璧であってほしかった」と語る。

上級生による"歓迎会"で、弟はいじめの標的になる。セリアズはそれを見ていたにもかかわらず、助けなかった。弟はセリアズに助けを呼ぶが叶わず、彼は大きな心の傷を負う。弟を裏切ったことをきっかけに、セリアズは罪悪感に囚われるようになる。

そういえば、セリアズが日本軍に投降した理由は、彼が投降せねば潜伏先の村人が殺されるから、というものであった。セリアズにとって裏切りは「罪」だ。「罪」を犯さないため、彼は俘虜になった(そして、俘虜になることは日本人から見ると「恥」である)。

 

 

言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーション

セリアズが弟に対する罪悪感をもっていること、裏切りに対するアレルギーをもっていることは読み取れた。だが、それでもなおセリアズがヨノイをどう思っているかがいまいちわからない。というわけで、本編中のセリアズの言動を拾ってみたいと思う。

 

セリアズが俘虜収容所に入った直後のこと、朝早いにもかかわらず、謎の叫び声が響き渡るようになる。その気迫に、病棟内の俘虜たちは怯え、訝しがる。

この叫び声は剣道の稽古をするヨノイのもので、ロレンス曰く「君(セリアズ)が来てからあの通りだ」という。その後のセリアズとロレンスの会話は以下の通りだ。

セリアズ「何か言いたいなら言えばいいんだ」

ロレンス「あれが彼の表現だ」

セリアズ「彼も同じ穴のムジナだな」

 

引用元:大島渚(監督、脚本)、ポール・マイヤーズバーグ(脚本)、戸田奈津子(字幕翻訳)、1983、『戦場のメリークリスマス』松竹、松竹富士、日本ヘラルド

ヨノイが何と「同じ穴のムジナ」なのか。他の日本兵と、ということになるだろう。理性的に見えるエリート将校のヨノイだが、何かというとすぐに俘虜に暴力をふるう日本兵と同じだと言いたいのだと解釈しておく。

「何か言いたいなら言えばいい」のに、言葉にして言わない。セリアズから見たヨノイや他の日本人は、そんな存在だ。彼らの表現は暴力であったり、気迫のこもった叫び声といった非言語的コミュニケーションなのである。

 


さて、ここで冒頭に示した『影の現象学』を参照してみたい。ここで河合氏はハラとロレンスの関係について、以下のように述べている。

一般の西洋人にとって「黄色い獣」としか思われないハラに対して、ロレンスは対話を試みる。しかし、日本人のハラが主導権を握っていた捕虜収容所における「対話」は、主として身体的なことによって行われた。つまり、そのほとんどはハラのロレンスに対する殴打であり、拷問である。あるいは捕虜の中でロレンスのみが認めたハラの瞳の輝きである。これらの非言語的な行為を、ロレンスはひとつのコミュニケーションとして受け止め、その中に深い意味を読み取ることができた。

 

引用元:河合隼雄著『影の現象学』、講談社

 

またここで、東洋と西洋の食い違いが起こっている。ロレンスとは違い、セリアズは日本人の行動原理を知らない。そんなセリアズからすると、言語的コミュニケーションを用いることのないヨノイたちは理解しがたい。

実際の戦場でも、このような事例はあったらしい。『30年目の真実』の中で紹介されている当事者たちの証言だ。

「日本軍の水準からすると、連合軍の俘虜はみな規律も態度もひどい。そうした態度の悪い者をいちいち営倉に入れるのではなく、ビンタ一発で水に流して許してやるのが日本の温情だった。しかし後の裁判の結果で営倉に入れられる事は俘虜の誇りが保てるのに対し、ビンタは虐待であると戦犯となった」

 

引用元:WOWOW「ノンフィクションW」取材班『『戦場のメリークリスマス』30年目の真実』、東京ニュース通信社

東洋人と西洋人が入り交じる場ではあったが、お互いが自分の常識で物事を測っていた。相手が自分と180度異なる視点や価値観をもっていると理解していたのは、ロレンスだけだった。

 

 

逆転するセリアズとヨノイ

病棟から無線機が発見されたことで、セリアズとロレンスは営倉に入れられる。一人で寝るセリアズのもとに、ヨノイの部下が襲いかかるが、咄嗟に目を覚ましたセリアズによって逆に気絶させられる。

ヨノイの部下を気絶させた直後、セリアズは自分が寝ていた絨毯にキスをする。その後、ヨノイの部下が持っていた刀とともに絨毯も抱えて営倉から逃げ出す。ここでなぜ絨毯にキスをしたのか、そしてなぜ逃走の邪魔になるであろう絨毯を手にしたのかが不可解だ。この絨毯はヨノイが与えたものであることは、後にセリアズが言及している。

 

不可解なのだが、それでも無理に考えてみる。セリアズがようやくヨノイの非言語的コミュニケーションを受け取ることができたのかもしれない。

それまでセリアズはヨノイがわからなかった。なぜ、本来なら死刑になるはずの自分をヨノイは助けたのか。なぜ、営倉入りの囚人になぜ就寝用の絨毯を与えたのか。それらがすべてヨノイの好意(それを恋愛的なものと捉えたのか、友愛的なものと捉えたのかはわからないが)からだったということに、ようやく気づけたのではないのだろうか。正直、この結論には納得がいっていないのだが、このまま話を進めさせていただく。

 

ロレンスを助け出し、セリアズはなおも逃走を続ける。そこにやって来たのがヨノイだ。セリアズは刀を構え、ヨノイも自らの刀を抜く。だが、セリアズはすぐに刀を手放し、笑ってヨノイに向き合う。「なぜかかってこない。私を倒せば自由になれるぞ」と問うヨノイに、セリアズはただ笑いかけるだけだ。ここで言語的文化の人セリアズと非言語的文化の人ヨノイの関係に逆転が起こっているのが面白い。

 

『影の現象学』の中で河合氏は、死刑囚になったハラについて述べている。

ここで、死を恐れないハラが「なぜ?」と問いかけるのは意義が深い。ハラがまったく・・・・日本人的な人生観によって行動するならば、すべては「仕方がない」こととして受け入れるべきではなかったか。(中略)死の間際になって、「なぜ」ということを問題にしているが、それこそは西洋人が発する問いではなかっただろうか。(中略)そして、それに対するロレンスの答えは、まったく日本人的なものであった。

 

引用元:河合隼雄著『影の現象学』、講談社

ロレンスと答えとは、以下のものだ。

あなたの指揮下の捕虜収容所にいたころ、わたしの部下が絶望しそうになると、私が言ってきかせたことばがありますが、そのことばを、あなたもご自身に言いきかせてみることです。〈敗けて勝つという道もあるのだ。敗北のなかの勝利の道、これを、我々はこれから発見しようではないか〉と。

 

引用元:L・ヴァン・デル・ポスト著『影さす牢格子』(『影の獄にて』収録)、新思索社

この答えに対し、ハラは「それこそ、まさしく、日本人の考えです!」と言う。

 

西洋人的な問いかけをしたハラに対し、日本人的な答えを返したロレンス。この二人の対話について、『影の現象学』では以下のように評している。

 ここに影との対話の特性がみごとに描きだされている。影と真剣に対話するとき、われわれは影の世界へ半歩踏み込んでゆかねばならない。それは自分と関係のない悪の世界ではなく、自分もそれを持っていることを認めねばならない世界であり、それはそれなりの輝きさえ蔵している。

 

引用元:河合隼雄著『影の現象学』、講談社

対して、それまでのロレンスとハラの対話は、

両者は一歩も自分の世界から出ていないし、最後はその場の強者であるハラの相手を無視する態度によって終わっている。そこには本来の意味における対話はない。

 

引用元:河合隼雄著『影の現象学』、講談社

と評されている。

 

無論、ヨノイも同様だ。「一歩も自分の世界から出」ずにセリアズやロレンス、ヒックスリと対話してきた。そこにセリアズが半歩踏み込んできたのだ。だが、ヨノイは動揺するものの、胸襟を開くことはなかった。その後の彼が、自分の世界観や秩序を守るために狂っていったことは、先に述べたとおりだ。

 

 

ハラのクリスマスプレゼント

ヨノイは自分を守るため、ロレンスとセリアズの処刑を決定するが、それはハラによって阻止される。

逃走中にヨノイと遭遇したセリアズたちは、再び捕縛されて独房に入れられる。処刑を待つ二人は、ハラに呼び出された。ここからのシーンもまた、『戦メリ』における名シーンのひとつだ。

「ロレンスさん。ふぁーぜる・くりすます、ご存知かな?」

「知ってますよ、ハラさん。ファーザー・クリスマス。サンタクロースのことですね」

「今夜、私、ふぁーぜる・くりすます。私、ふぁーぜる・くりすます」

 

引用元:大島渚(監督、脚本)、ポール・マイヤーズバーグ(脚本)、戸田奈津子(字幕翻訳)、1983、『戦場のメリークリスマス』松竹、松竹富士、日本ヘラルド

ハラは無邪気に笑いながら「ふぁーぜる・くりすます」と繰り返し、直後にやって来たヒックスリに、ロレンスたちを連れて帰るように告げる。事実上の釈放宣告だ。安堵し、部屋から退去するロレンスに、ハラは「めりー・くりすます」と告げた。

 

原作の同じシーンについて、『影の現象学』では、以下のように言及される。

それゆえにこそ、彼のハラに対する「なんとなく好きになれる、尊敬したくなる」気持ちは言語的に伝えられることはなかったにしろ、ハラには了解されていたのだ。そして、ハラはロレンスに対して大きいクリスマス・プレゼントを贈ることになる。

 

引用元:河合隼雄著『影の現象学』、講談社

自分の秩序を守ろうと躍起になっていたヨノイの狂気を阻んだのは、ロレンスと理解を重ねたハラだったという事実が興味深いと私は思う。

 

 

セリアズとヨノイを繋ぐもの

だが、ヨノイの狂気は消えず、その暴走が頂点に達したことは先に述べた。そして、セリアズがヨノイの前に進み出て、キスをすることでヨノイの狂気を止めたことも述べた。

さて、最初の問いにようやく戻る。セリアズはなぜ、ヨノイにキスをしたのか。

 

このとき、ヒックスリはヨノイによって殺される直前であり、仲間を見捨てることが嫌いなセリアズは、これを見逃せなかった。これはもちろん、理由としてあると思う。だが、もっと他にも何かがありそうな気がする。

セリアズは過去に弟を見捨てた。なぜなら、自分の身内は完璧でいてほしかったから。自分の完全性を保ちたかったというわけだ。そして今、ヨノイは己の完全性を保とうとするあまり、狂気に駆られている。

 

ヨノイは作中で「I'm right」と述べている。だが、同意を求めた相手であるロレンスには「違う、あなたは間違っている。我々みんなが間違っている」と言われる。この後も、ヨノイは俘虜だけでなく同じ日本軍の人間からも、惑っていることを指摘される。それを受け入れられないヨノイは、最早「自分は正しい」と叫び続ける道しかないし、「正しくないヨノイ自身」を突きつけてくる人間は殺すしかない。

完全性を求め、狂ったヨノイは、かつてのセリアズ自身がたどってしまったかもしれない道だった。ただ、セリアズには内省できるだけの精神的強さがあった。

今、完全に影の世界に落ちてしまおうとするヨノイを救うため、セリアズはキスという最大級の非言語的コミュニケーションを送ったのではないだろうか。

敵から、しかも同じ男である人間からキスされるということは、日本軍人にとっては辱めにほかならない。だが、ヨノイはセリアズを罰することができず、その場に倒れる。この瞬間まで抑圧していた価値観や世界観を、このキスによって一気に受け取ってしまったのだ。自分の世界が完全に崩壊するぐらいの衝撃。ヨノイが倒れてしまうのも無理はない。

 

ラストシーンで、ロレンスはこう述べている。

「考えてみれば、セリアズはその死によって実のなる種をヨノイの中に蒔いたのです」

 

引用元:大島渚(監督、脚本)、ポール・マイヤーズバーグ(脚本)、戸田奈津子(字幕翻訳)、1983、『戦場のメリークリスマス』松竹、松竹富士、日本ヘラルド

ヨノイは気絶したが、セリアズから伝えられたものは確実に残っていた。だから、ヨノイはセリアズの髪をロレンスに託し、自分の故郷の神社に奉納してくれと頼んだのだ。

 

 

魂と魂の衝突の末、種は蒔かれた

終戦後、ハラは戦犯として投獄される。明日、処刑が行われるという日、ロレンスが彼を訪ねる。そこでハラは死の覚悟はできていると言いつつも、「私のした事は他の兵隊がした事と同じです」と納得のできない胸の内を語る。そこでロレンスは答える。

「あなたは犠牲者なのだ、かつてのあなたやヨノイのように、自分は正しいと信じていた人々の。もちろん正しい者などどこにもいない」

 

引用元:大島渚(監督、脚本)、ポール・マイヤーズバーグ(脚本)、戸田奈津子(字幕翻訳)、1983、『戦場のメリークリスマス』松竹、松竹富士、日本ヘラルド

この言葉が、『戦メリ』のすべてなのではないかと思う。

 

自分は正しいと思っている限り、他者と理解し合う事はできないし、影の世界への陥穽に嵌まり込んでしまう。

それを防ぐため、河合氏の述べる「真に建設的な」対話が必要なのだろう。『影の現象学』で死刑囚となったハラが「なぜ自分は処刑されるのか」と問い続けたことについて、こう書かれている。

これは彼のそれまでの日本的な運命観の影の部分に存在したことであり、ここに、はっきりとハラは自分の影を露呈してみせたのである。これに対してイギリス人のロレンスは、他のイギリス人たちが肯定している戦争裁判につきまとう影の存在をはっきりと語り、ハラが「それこそ、まさしく、日本人の考えです」と叫んだような考えを明らかにする。つまり、ロレンスもここに自分の影の存在を相手に対して明確に示したのである。

 二人の人間の対話が真に建設的なものとなるためには、お互いが他に対して自分の影を露呈することがなければならない。

 

引用元:河合隼雄著『影の現象学』、講談社

 

セリアズはヨノイにキスという非言語的コミュニケーションで接した。ヨノイはキスのショックにより、気絶した。作中で軍属が俘虜に対して強姦するというくだりがある。それに関してハラは「お前ら、オカマが怖いんだろう。侍はオカマなど怖くはない」と言っている。この論理通りに行けば、ヨノイはキスにも動じず、セリアズを罰するべきだ。だが、生粋の帝国軍人であるはずのヨノイは、セリアズのキスによって失神するという弱さをさらけ出した。

 

ラストシーン以外で涙腺が弛むシーンというと、私はハラの「ふぁーぜる・くりすます」と、セリアズからヨノイへのキスを挙げたいと思う。そして、この二つのシーンに目頭が熱くなるのは、ふた組の人間がお互いに半歩踏み込んだコミュニケーションを交わしたからではないのだろうか。激しい衝突の末、理解の種が蒔かれたのだ。

 

……ということに気づくために、一万字以上費やさなければならなかった自分の鈍感さが情けない。

 

 

最後に

この記事に限った話ではないが、完全に私の思い込みによる話であるし、自分自身、まだ納得のいっていないところもある。考えながら書いていったので、本文中で矛盾している箇所がある可能性もあるし、提示しておいて投げっぱなしになった題目もある。

とはいえ、これがいったん私が私に捧げたい「なぜ『戦メリ』に感動するのか」の結論である。

「正しい者などどこにもいない」というロレンスの言葉は、これからも忘れずに噛みしめていきたいと思う。

 

追記(2022/03/23)

本文にて二点、明らかな間違いがあったので、ここで訂正させていただきたい。

まず一点目、ヨノイの叫び声を聞いて、セリアズが「彼も同じ穴のムジナだな」と言ったくだり。

ここで「同じ穴のムジナ」が何を意味するのかについて、私は「理知的なヨノイも結局は他の日本兵と同じだ」とセリアズが認識したのだと書いたのだが、シナリオ本を手に入れて読んだところ、これは勘違いだった。お恥ずかしい限りである。

シナリオ本には、件のセリフが以下のように記されている。

セリアズ「じゃ彼と俺は同じ梯子の上にいるんだな」

 

引用元:大島渚『戦場のメリークリスマス シナリオ版』、思索社

 

 

確かにセリアズの声に耳を澄ませてみると「same ladder」と聞こえる。というわけで、あのセリフはセリアズとヨノイのことを指していたわけである。

 

そして二点目。本文中で私はヨノイのことを「エリート将校」と書いたが、ヴァン・デル・ポストによる原作『影の獄にて』を読んだところ、捕虜収容所を任されるのは日本軍の人間にとって不名誉なことだったらしい。さらにヨノイの同僚が二・二六事件に連座した旨をロレンスに話しているとき、「(ヨノイが)3カ月前に満洲に送られて、あの場にはいなかった」と言うくだりがある。シナリオ本では、さらに「左遷によって満洲に送られた」とヨノイが明言していた。

ヨノイが同期たちと共に死ねなかった罪悪感を抱いていただけでなく、そこに自分に対する劣等感も絡んでいたというのは、また色々と考えさせられるなと思ってしまった。

 

 

追記(2022/04/18)

2022/03/23での追記に対するさらなる追記。

セリアズのセリフ「彼も同じ穴のムジナだな」は原語だと以下のようになる。

Perhaps we're both on the same ladder.

 

引用元:大島渚(監督、脚本)、ポール・マイヤーズバーグ(脚本)、戸田奈津子(字幕翻訳)、1983、『戦場のメリークリスマス』松竹、松竹富士、日本ヘラルド

「on the same ladder」という熟語はないようなので、何じゃこりゃと思っていたのだが、ここでの梯子というのは「ヤコブの梯子(Jacob's ladder)」なのかなと思えてきた。直前にロレンスが「神に近づく気なんだよ」と言っているし。ここでのセリアズが指す「we」はセリアズとヨノイの二人だけでなく、収容所の日本人や英国人すべてを指しているような気がする。皆、神への信仰のもとに生きているという点では同じなのだ。

 

※続きはこちら

nhhntrdr.hatenablog.com

※原作者ヴァン・デル・ポストの別作品『新月の夜』を『戦メリ』と比較しつつ感想を書いてます。

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※『戦メリ』感想記事リンク集

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