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金蓮花『銀葉亭茶話』シリーズの思い出を語ってみる

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※注意!『銀葉亭茶話』シリーズ各巻のネタバレがあります。

 

中学生の頃にハマり、今でもたまに読んでしまう作品がある。コバルト文庫から刊行されていた『銀葉亭茶話』シリーズだ。

小学校高学年の頃はもっぱらコバルト文庫ピンキーの作品を購入していたので(『赤ずきんチャチャ』のノベライズとか)、中学になって本家のコバルト文庫に手を出したとき、「私は大人になった!」と感動したものである。

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ただ、中1の私に『銀葉亭茶話』シリーズの話は難しく、きちんと理解しきれなかった。歴史物の作品だったため雰囲気が硬派だったし、文語調の文章も、あの頃の私には硬すぎた。にもかかわらず、不思議な魅力を感じて何度も何度も読み返したものだ。10代後半、20代、30代と繰り返し読むうちに登場人物の心の機微が新たに見えることもあり、折々で感じ方が変わったりもした。中学生の頃から今まで、私の人生にそっと寄り添ってくれたシリーズだったように思う。

 

 

 

『銀葉亭茶話』シリーズで刊行されているのは全部で七冊(文庫未収録の長編が一本あり)。

基本的に各巻独立したエピソードとなっている(『十二国記』のスタイルを想像してもらうとわかりやすいと思う)。また、舞台となる時代も三国時代(朝鮮)から李氏朝鮮までと幅広い。

唯一、共通しているのが銀葉亭という茶店と主人の李氏が出てくること。銀葉亭は仙境にある茶店で、神仙がそこにやって来て茶を飲みながら噂話に興じる。そんな銀葉亭に各巻の主人公が訪れては、自分の過去を李氏に語るというのが主なスタイルだ。仙境の店だから、主人公たちは精霊だったり、死んだ直後の人間の魂魄だったりする。

物語世界は大きく人界と仙境にわかれており、生きている人間は基本的に仙境へ行けないし、精霊を見ることもできない。そもそも、精霊の存在を認識すらしていない。そんな人間たちに対し、精霊が人間の姿を取って干渉することもあったりして、そこから物語が進展することもある。

ざっくりとした説明になるが、『銀葉亭茶話』シリーズの世界観はこんな感じだと思っていただきたい。

 

 

『舞姫打鈴』

第一作目『舞姫打鈴(まいひめたりょん)』の主人公は処女雪の精霊・雪華公主(そらこうしゅ)。彼女はかつて人間だったが、死後、精霊になったという存在だ。彼女は自分が人間だった頃――三国時代・新羅の公主だった頃の話を語る。

雪華公主は常に欠落感に苦しめられていた。一国の公主に生まれ、容姿端麗、舞の才能に恵まれ、誰からも愛されている。にもかかわらず、彼女には不安感が付き纏ってやまない。そんな彼女が唯一、こだわりを見せたのが老年の将軍・金庚信(きんゆしん)だった。

 

はじめは雪華公主の身の回りが語られていたが、やがて話は庚信の若い頃の恋のエピソードへと映っていく。なぜ精霊となった雪華公主が誰とも打ち解けずに孤高を貫いているのか、なぜ、すべてに恵まれた人間だった頃の雪華公主が欠落感に苦しんだのか、なぜ庚信に執着したのか、庚信の恋のエピソードが雪華公主と如何に関係しているのか。そういった疑問が、雪華公主の話が進むうちに明らかになっていく。

 

後の作品もそうなのだが、とにかく文章が美しい。

 もいだ桃で一杯の籠を手に、茶店の主はふと朝の空を仰いだ。桃の梢の向こうに乳白色の空が広がっている。

 美しい空だった。

 ひとすじ、ふたすじたなびく雲は、朝焼けの名残をとどめ幽かな金色に染まっていた。『銀葉亭』自慢の桃の木を別にすれば、すべての木々は葉を落とし、幼子の指のような梢をその空に突き立てている。

 李氏がひとつため息をつくと、それは白い霧となった。寒気は肌をさすようだったが、それがとても清々しく感じられる。見上げた空に冬の訪れを知り、李氏が少し目を細めると、梢の先にちらちらと舞い落ちてくる白いものがあった。それを認め、ああやはり、と李氏は顔をほころばせた。

 

引用元:金蓮花『銀葉亭茶話 舞姫打鈴』集英社

李氏が冬の到来を感じるという、ちょっとしたシーンなのだが、冬の美しさや清らかさがこれでもかと詰まっている。そんな中、処女雪と共に茶店を訪れる美女――雪華公主という構図が、それだけでもうドラマチックだ。

 

若い頃の庚信の恋物語も儚く美しい。良家の子息として生まれ、何ひとつ不自由なく生きていた庚信が、ある日、同輩に連れて行かれた酒楼で妓生(きーせん)の天官(ちょんがん)に出会い、恋に落ちる。お互いに一目惚れというドラマチックな恋だが、何しろ身分が違いすぎる。芸妓的な身分の天官は、最初から庚信と添い遂げられるはずがないと諦めきっているが、庚信はあくまでも一途に天官を愛し続ける。だが、周りが二人の恋を許すはずもなく、やがて二人は引き裂かれてしまう。

傷心の天官は、それでも庚信を想い続ける。酒楼を辞し、出家した天官は、尼として庚信の武運長久を願い続ける。その健気さが愛おしいのだ。

 

作中で何度か舞のシーンがある。雪華公主のものと、天官のものだ。どちらも作者の流麗な筆致で脳裏に浮かぶように描かれている。天官が死の直前に舞ったシーンと、庚信が雪華公主の舞を見ながら天官を思い出し涙を流すシーンには、特に胸を打たれた。もちろん舞の描写そのものも美しいのだが、天官が、雪華公主が、そのときの舞にどれだけの想いをこめたのかが伝わってきて、胸が締めつけられるのである。

 

庚信という男性を通じて見える、雪華公主と天官という二人の舞姫の純粋な愛に心打たれる物語だ。

 

 

『蕾姫綺譚』

第二作目であり、私の最もお気に入りの作品『蕾姫綺譚』。三国時代だった『舞姫打鈴』から約700年後、高麗末期から李氏朝鮮への移り変わりの時期を舞台にしている。

 

主人公は精霊の善華(そな)。見た目は七歳ぐらいの少女だが、年齢は二百歳である。この世界の精霊の中でも異例の成長の遅さだということで、本人がそれを気にするシーンがある。なぜなら、彼女は人間の少年・王勢龍(わんせりょん)に恋をしてしまったからだ。勢龍といずれ結婚しようと約束したものの、このままでは子供のまま、彼に置いて行かれるのではないかと不安を感じる。

 

その不安は的中する。身体的な成長だけでなく精神的な成長の差が、善華と勢龍の前に立ちはだかる。

勢龍は高麗の王子だ。五人いる王子のうち、勢龍は側室の息子であり、末の王子。王位からは遠い存在のはずだった。実際、勢龍は物語の序盤、宮中ではなく都から遠く離れた山荘で暮らしている。そこで善華と出会い、牧歌的な日々を送っていたのだった。

だが、高麗王が奸臣に暗殺されたことをきっかけに、玉座を取り巻く人間たちの思惑が、激動の高麗末期という時代が、勢龍を歴史の表舞台へと駆り出していく。結果、無邪気な少年だった勢龍は、現実主義の大人へと変わってしまうのだ。

そもそも勢龍が精霊の善華を見ることができたのも、彼が世俗にまみれていない純粋な心の持ち主だからという理由があった。権謀術数渦巻く宮中での暮らしに過度に順応した結果、勢龍は善華を見ることができなくなってしまう。ある日を境に全く見えなくなるわけではない。見える日と見えない日が繰り返され、年を経るごとに見えない日の比重が高まっていく。

 

とにかく、現実に過剰に適応しようとする(せざるを得ない)勢龍の姿が痛々しい。宮中に戻った後、勢龍は後見人になった将軍・李成桂(りそんげ。李氏朝鮮の創始者)とお互いの腹を探り合う。

「私は生きぬくために、李成桂の駒のひとつになることに喜んで甘んじよう」

「私は私のためにあなたさまを利用します。それでよろしいのですね」

(中略)

「李成桂。兄君は父君の跡継ぎにふさわしい御方か?」

 李成桂はにやりと笑った。それはどんな言葉より雄弁な答えであった。

「わかった。存分に私を利用するがよかろう。だがこの駒は持ち主の寝首をかくやもしれぬ。それを心しておけ」

「御意にございます。私とて、あなたが重荷になれば簡単に切り捨てましょう。それがいまの勢龍さまのお立場」

 

引用元:金蓮花『蕾姫綺譚』、集英社

十歳の子どもが自分の親ほどの年代の人間と交わす会話だとは思えない。少し前まで精霊の善華と野山を駆けまわり、結婚を約束していた少年が、宮中の魑魅魍魎の中で生きぬこうと強制的に少年時代を終了させる。その様子が辛い。結果として善華との別離につながることも、また辛い。

もし勢龍が王族でなければ、もし平和な時代だったなら、二人のたどる結末も違ったのだろうと思う。

勢龍は権力闘争の末に命を落とし、彼の死を看取った善華はそのときに目にした紅葉の風景にトラウマを負い、秋という季節から逃げ続けるようになる。勢龍と共にいた頃は成長できないことを気に病んでいたのに、勢龍の死後は「大人になりたくない」と言い張る。非常にビターな結末だ。

ラストでも善華は相変わらず七歳の少女の姿をしているが、心そのものは老成してしまった。おどけたりすることもあるが、勢龍と出会う前と後で、彼女の心は子供から大人に変わってしまった。それでも、見た目は子供であり続けようとする。可愛らしかったあどけない善華がいなくなったことを寂しく思うと同時に、心と体にねじれの生じた後半の善華の深さも愛しく思う。

 

辛い内容の物語だが、嫌いになれないし、むしろシリーズで一番好きな話だ。善華はこの後の作品にも出てくるのだが、出番が少ないながらも精神的に成長している様子を見せてくれて、ファンとして嬉しく思ったものである。

ただ、恋で痛手を負った善華だからこそ、後に幸せな恋をしているところを見たかったなぁとも思う。自然消滅的に終わったっぽいシリーズなので、善華の幸せを見届けられなかったのは残念だ。

 

 

『蝶々姫綺譚』『錦繍打鈴』『銀珠綺譚』

 

「蝶々姫三部作」と呼びたい三作品。

『蝶々姫綺譚』の主人公は精霊の明蘭(みょんらん)。もともとは人間として生きており、夭折した婚約者に殉じるように亡くなったという経緯がある。乙女のまま亡くなった明蘭は蝶の翅を持ち、春を告げる精霊「蝶々姫」に生まれ変わった。しかし、明蘭は生まれ変わった先の仙界で、恋人をとっかえひっかえするような女性へと変貌していた。

 

純情に生きたはずの明蘭がなぜ、という謎が提示されたところで、明蘭は楓の精霊・金楓英(きんぷんよん)と出会い、恋に落ちるという展開となる。年ごとの恋人と枕を交わしていた(このシリーズでは、セックスのことを直接的に表現しないのだ!)明蘭が、なぜか楓英とは枕を交わさず、求婚を受け入れようともしない。なぜなのか。

謎が明かされぬまま、明蘭と楓英のお互いへの想いは高まる一方だ。葛藤した末に明蘭は李氏のもとを訪れ、楓英の求婚を受け入れるという決意を明かす。

 

なにゆえ、そこまで愛する楓英の求婚を受け入れるのに悩んだのか。実は、蝶々姫たちにとって乙女をやめることは、蝶々姫としての生涯の終焉につながるという真実がラストで明かされる。

明蘭は楓英と結ばれたことで、人間の頃に乙女のまま子を産むことなく亡くなったという罪が許され、また人間として生まれ変わる。そのため、仙界からは姿を消すというわけなのだ。だからこそ明蘭は楓英との結婚を戸惑っていたし、それまでは敢えて幻術を用いて徒な恋に走っていたのだった。

一瞬の成就を選ぶか、成就せずとも楓英と共に仙境で生き続けるか。究極の問いを突きつけられ、苦しみ悩んで、結論を出したときの明蘭の姿の清々しさが、何とも美しい。

だが、報われないのが結婚初夜に妻を失った楓英で、彼が明蘭の転生体を追いかけるというのが『錦繍打鈴』と『銀珠綺譚』だ。

死んでは新たな人間に生まれ変わるたび、明蘭は楓英の記憶を失う。ときに楓英は兄のような存在としか見てもらえず、ときに不審者として嫌悪される。それでも明蘭の魂を追い続ける楓英の一途さには敬服するしかない。

 

三作品とも私の好きな善華が出てきてくれるのが嬉しかった。明蘭の生き様に感化され、頑なに子どもで居続けようとした善華の心に変化が生じる。『錦繍打鈴』では思春期ぐらいの見た目に成長していたし、『銀珠綺譚』では明蘭の転生体・尹珠娜(ゆんちゅな)を導き、叱咤するという重要なポジションにも着いている。「蝶々姫三部作」は明蘭と楓英の愛の物語であると同時に、明蘭と善華の友情の物語なのだ。『蕾姫綺譚』のラストで頑なになってしまった善華が幸せへの一歩を踏み出してくれたことが、ファンとしては何よりも嬉しい。

 

余談だが、『銀珠綺譚』の珠娜は巫女で、神降ろしを行うというシーンもある。珠娜の来ている衣裳や儀式の進行も事細かに描写されていて、映像を見ているかのような気分になったりもした。後に『コクソン』を観たとき、シャーマンが儀式を行うシーンで、「あ、これ『銀珠綺譚』で見た!」と思ってしまった。

本当に余談で申し訳ない。

 

 

 

ロマンチックな恋愛もの(『蕾姫綺譚』のみ恋愛的にはかなりビターなので、ご注意を)を読みたい人や韓流時代劇が好きな人などにはオススメのシリーズだ。

ただ、欠点がひとつ。

絶版書籍なのである。もちろん、電子版もない。というわけで中古本を購入するか、図書館で借りるかしかないのだが、それだけの価値はある作品だと私は思っている。

ちなみにわたしの故郷の図書館に『蕾姫綺譚』が置かれていたが、誰かが挿絵を塗り絵代わりにしていた。勢龍に口紅を塗るんじゃねえ!『蕾姫』ファンの私がお前を末代まで呪ってやるからな~。うらめしや~。

 

 

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