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『コーダ あいのうた』ネタバレ感想①

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※注意!『コーダ あいのうた』のネタバレがあります。

 

 

 

今回、感想を書きたいのが『コーダ あいのうた』。過去にも何回か感想は書いているのだが、今回は「ヴァージン」という概念を踏まえての感想を述べたいと思う。

 

※ヴァージンとは、キム・ハドソン氏が『新しい主人公の作り方』で提唱した女性的なストーリーにおける主人公のこと。ヴァージンは当初、抑圧的な環境で暮らしており、自分の才能や美点を発揮できずにいるが、周りとの衝突や和解を経て、輝けるようになるというのが、女性的なストーリーの構造となっている。

詳しくは、こちらの記事で。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

※過去に書いた『コーダ』感想はこちら。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

主人公ルビーは歌の才能を持っているにもかかわらず、人前で歌うことができずにいるし、歌の道へ進もうとも思っていない。では、彼女を抑圧しているものは何だろうか?

まずひとつは同じ学校の生徒たちだ。彼らはルビーの話し方やロッシ家の人々が変だと笑い、魚臭いと揶揄したりもする。そのせいでルビーは周りの目を気にするようになり、自分が醜く見られているのではないかと恐れるようになった。それがルビーの心にブレーキをかける。

もうひとつはルビーの家族――ロッシ家だ。ルビー以外、耳の聞こえない彼らが漁業を滞りなくできるよう、ルビーは学業に支障が出るレベルで家族の仕事を手伝っている。

彼女をロッシ家に縛りつけているものを考えてみたい。もちろん、家族の扶養のもとにいるというのも一つの要員としてあるだろう。だが、それ以上にルビーを縛りつけているものは家族の絆ではないだろうか。

 

絆という言葉は、もともとは家畜をつなぎ止める縄――「ほだし」を意味していたという。それが転じて、ほだしという言葉は人の心や行動を縛りつけるものという意味になった。

 この漢字を見ると興味深く感じるのは、現代では、むしろ子どもが非行に走るのを防ぐための、親子のきずなと言って肯定的に用いられることが多いのに対し、平安時代では、出家の意思を妨げるものとしてほだし(必ずしも否定的とばかりは言えないが)として用いられているという事実である。

 

引用元:河合隼雄『源氏物語と日本人 紫マンダラ』、講談社

ルビーの姿を見ていると、上記の河合隼雄氏の言葉を思い出してしまう。仏教文化が現代以上に影響力が強い時代において人々にとっての自己実現とは、出家やその先にある解脱なのだろう。だが、家族への愛情が自己実現への妨げとなる。

ルビーもまた、家族を疎ましく思いつつも、同時に愛しく感じている。だからこそ、学校で家族を笑う生徒たちに怒りを示し、「家族は私が守る」と言い放つ。そんな大事な存在だからこそ、自分の夢のために見捨てることが彼女にはできない。

『サーミの血』という映画を過去に取り上げたが、自己実現を勝ち取る代わりに絆を捨てた主人公の罪悪感が描かれていると私は解釈している。すべてのケースが当てはまるわけではないと思うが、どうも自己実現と絆というものは両立が難しいようである。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

そんなルビーが家族とぶつかり合ったり、誰かから背中を押されたりして、自分自身の夢に向き合っていく。『コーダ』はルビーというヴァージンが自己実現を果たすストーリーだ。

 

 

あともう少しだけヴァージンの観点から『コーダ』を見てみたいと思う。というわけで、②に続く。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

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