※注意!『コーダ あいのうた』のネタバレがあります。
『コーダ』の感想の続きを書きたいと思う。前回はルビーについて書いたが、今回はもう一人のヴァージンについての感想だ。
『コーダ』はヴァージン型主人公ルビーの話だと前回の記事で書いた。だが、ヴァージンはルビー一人だけではないと私は思う。もう一人、重要なヴァージンがいる。ルビーの兄レオである。
ルビーという耳と口が存在することで、ロッシ家は不自由なく漁業を続けていた。完結したコミュニティであるロッシ家の中で、変わろうと足掻いているのがレオだった。ルビー抜きでの外部の人間とのやりとりを恐れる両親に反し、レオは意識的に交流を持とうとする。漁師仲間の会話に加われないという疎外感を感じながらも、彼は殻に閉じこもるのを良しとしない。
健聴者と対等に渡り合い、ルビーを搾取しない形での家業を構築したいと考える彼もまた、立派なヴァージンである。
『新しい主人公の作り方』の著者キム・ハドソン氏は女性的なストーリー(自己主張、内面の表現)の主人公像としてヴァージンというアーキタイプを提唱した。同時に氏はヴァージンの影となるアーキタイプとして「娼婦」という存在を挙げている。
ヴァージンが他者の言いなりから抜け出し、自分が輝く場所を勝ち取る存在なのだとしたら、娼婦はただひたすら流されるだけの存在だ。周りから嘲られ、搾取されていることを受け入れ、戦わずに終わっていく。
ヴァージン型ストーリーでは「枷を手放す」というビートが設けられている。それまでヴァージンは自分のいるコミュニティに庇護してもらうため、周りの言いなりになって生きてきた。その状態から抜け出すための第一歩が「枷を手放す」という行為だ。「私は私」と言い切ることで、ヴァージンはコミュニティから迫害されるかもしれない。事実、物語の前半においてヴァージンはそれを恐れ、周りに流されて生きることを生存戦略として選んできた。そんなヴァージンが、「枷を手放す」というビートで、それまでの生存戦略と180度異なる生き方を選ぶ。それを踏まえて考えると、娼婦は「枷を手放す」ことができなかったヴァージンの姿だと個人的には推測する。
さて、レオを中心に物語を見たとき、ルビーは娼婦に当たるのではないかと思う。自分と同じく夢を持っているにもかかわらず、家族のために自己を犠牲に生き続けている。そんなルビーは、ヴァージンとしてのレオの影――娼婦である。
大塚英志『キャラクターメーカー』では、影とは「「負の自己実現」に向かうキャラクター」と表されている。代表的な例として挙げられているのが『スター・ウォーズ』のダース・ベイダーだ。彼はルークと同じくジェダイとして生まれたが、ルークとは異なりダークサイドに堕ちてしまった。
そんな「負の自己実現」に向かっているキャラクターは否定されるべきかというと、『キャラクターメーカー』では否とされている。
つまり「影」を救済することで主人公は自己実現するわけです。こうして考えると、作中の「影」として描かれたキャラクターは主人公の自己実現を「援助」する最も決定的なキャラクターでもある、ということにさえなります。
引用元:大塚英志『キャラクターメーカー』、星海社
それまで忸怩たる思いを抱えながらも健聴者であるルビーに頼っていたレオだったが、ルビーが家族のために生きることを明言すると、彼は遂に行動に出る。強い口調でルビーの支援を拒絶し、彼女に音楽の道を歩むように訴えかけた。これがレオにとっての「枷を手放す」シーンだったのだろうと思う。
ここはレオにとって「影の救済」であったのと同時に、ルビーにとっても、娼婦からヴァージンに戻ることができたという意味のあるシーンなのではなかろうか。
個人的に『コーダ』はルビーの成長だけでなく、レオの成長にも心が揺さぶられる作品だったなぁと改めて思った。
※ヴァージンについての記事はこちら。
※この記事は、全文無料公開です。ここから先には文章はありません。「投げ銭をしてもいいよ」という方は、「記事を購入」のボタンから投げ銭お願いします。今後の記事作成の励みになります。