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沸騰した血が冷めたところで(アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』ネタバレ感想)

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※注意!アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』のネタバレがあります。また、ネガティブな内容の感想となっていますので、ファンの方は読まないことをおすすめします。

 

 

かなり前になるが、実写版『ジョゼと虎と魚たち』の感想を書いたことがある。

nhhntrdr.hatenablog.com

この際、アニメ版『ジョゼ虎』に対しての感想は「あまり好みの作品ではなかったなあ、とだけ」としておいた。

今だから正直に言うが、このときの私はアニメ版『ジョゼ虎』に対して激しい怒りを感じていた。はっきり言えば大嫌いな作品だったし、何だったら今まで観てきた映画の中でのワーストと認定もした。これに比べたら、腹が立たないだけエド・ウッド作品の方がマシだとすら思った。だが、それをそのまま書くと口汚い文章になるのは目に見えていたので、我慢して書いた結果があの文章だった。不満げな感情は、しっかりと漏れとるけどな。

 

さて、最近になってもう一度アニメ版を鑑賞した。あの時の血が沸騰しかねないほどの怒りは特に感じなかった。今となっては、スーパーサイヤ人になりかねないほどに怒っていた自分がおかしいぐらいだ。

せっかく落ち着いたのだから、ちょっとあの頃に感じたことも織り交ぜつつ感想を書いてみようかと思う。

 

 

 

 

あの時、私が怒りを感じたのは、アニメ版が「恒夫とジョゼを中心に世界が回っている」ように見えたからだった。多分、これは二人の敵対者となる人物がいなかったからだと思う。

一応、車椅子のジョゼに辛く当たる通行人、夢を追いたいジョゼに対して現実を見ろと諭す民生委員などは存在しているが、あくまでもその場限りのハリボテのようなキャラクターゆえに、敵対者というほどの重要度はない。

 

主要キャラの舞にしても、敵対者というには少々弱い。恒夫をめぐってジョゼとライバル関係になるものの、そこまでジョゼに対する脅威にはならないどころか(恒夫が舞に対して異性としての魅力を感じるシーンは一切ない。どれだけジョゼと喧嘩しようが、恒夫は徹頭徹尾ジョゼ一筋だ)、自暴自棄になったジョゼを奮い立たせる役割まで担ってくれる。

はっきり言って、舞は「当て馬」になるべくして生まれたようなキャラクターだ。恒夫とジョゼの関係を盛り上げるためだけに動いているのだから、舞はむしろ物語的には敵対者ではなく支援者と言うべきだろう。しかも、最後は「恒夫ジョゼカップルによって不幸になった人間はいません」と言わんばかりに、二人の良き友人になっている。

 

そんなこんなで物語中における敵対者のなさが、当時の私には異常に緩く感じたのかもしれない。どいつもこいつも恒夫とジョゼに甘い。主人公たちを甘やかしてるんじゃねえ、と思った記憶がある。

 

今回、改めて観て思ったのは、それなりに二人に試練は降りかかってきているし、アニメ版『ジョゼ虎』よりももっと酷い主人公中心主義(主人公甘やかし主義)な作品はいくらでもあるし、そこまで怒るほどではないんじゃないの、ということだ。怒るにしても、血が沸騰するレベルではないよね、とも思う。

ただ、二回目の観賞を経ても不満点はまだ残っている。良いところは沢山あるのだが、私個人としてはモヤモヤするといったところか。

 

 

二度目の観賞で気になったのが、物語の問題が恒夫とジョゼの心の持ち様に集約されすぎているように見えることだった。あくまでも私の解釈にすぎないものではあるが、アニメ版『ジョゼ虎』のキモは「夢を追いかけることの大切さ」だ。最終的な段階として、恒夫とジョゼは自分の夢を追うと同時に相手の夢を応援するような、お互いに支え合う対等なカップルとなる。だからこそ彼らの変化を描くためにも、物語開始直後のジョゼは「夢を諦めている」状態であることが必要だ。ジョゼは絵の才能に恵まれているが、プロの絵描きになることは望んでいない。そんな彼女が夢に突き進む恒夫と共にいることで、自分自身の夢を取り戻していく。

タムラ監督がインタビューにて以下のように語っている。

生い立ちによって出来てしまったジョゼの心の不自由さ。それを表現できるのであれば、ジョゼには足の障害ではない、別のなにかを課してもよかったわけです。

 

引用元:「ジョゼと虎と魚たち」タムラコータロー監督インタビュー「実写の俳優さんを起用したのは生身の人間の持つ生々しさを伝えたかったから」 | WebNewtype

実際に本編を観た後だと、その通りだと納得がいく。ジョゼにとっての下肢障害は「今まで何かに触れたくて手を伸ばしても、何ひとつ手が届かなかった。それゆえ、手を伸ばすことに疲れ果てた=夢を諦めた」状態をつくり出すための機能を果たしている。この状況を作り出せるのなら、確かに足の障害である必要はないだろう。この物語において重要なのは、ジョゼが自力で歩けないことではなく、彼女がすべてを諦めきった存在であることだ。

 

物語の後半で、今度は恒夫が夢を諦めることになる。そのとき、恒夫はジョゼが抱えていた「欲しいものに手を伸ばしても届かない苦しみ」を身を以て知ってしまう。だから、彼も手を伸ばすことを恐れ、夢から目をそむけようとする。そんな恒夫を激励するのがジョゼだ。彼女は封印していた夢に再度向き合い、恒夫のために紙芝居を制作する。

自分と同じ苦しみを背負った恒夫を、彼と交流して強くなったジョゼが支える。それによって恒夫もジョゼも更に強くなり、お互いに対等な関係となる。話の流れとして、とても美しいと思う。

 

 

なのにモヤモヤしてしまうのは、先に述べた通り、問題があまりにも二人の心の持ち様にフォーカスされすぎている点にある気がする。重要なのは恒夫が、ジョゼが、夢を追うかどうか。周囲は諭すなり、叱咤激励するなり、それなりの働きかけを行うが、一番重要なのは二人の心のあり方だ。つまるところ、恒夫とジョゼを取りまく世界は、二人に対してたいした影響力を持っていない。二人にとっての敵対者とは特定の人間ではなく、彼ら自身の迷いや弱気だ。ゆえに、恒夫とジョゼが己の迷いを振り切って、まっすぐ夢に向かった時点でオールオッケー。物語はすなわちハッピーエンドとなる。この点が、どうも受け付けないのだ。

 

人間が生きる上で、社会や環境、所属するコミュニティからの影響を受けずにいることなどできやしないだろう。物理法則が、積み上げられた慣習が、複雑に絡み合った人間関係が、才能や身体的な限界が、何かと制限をつけてくる。現実の世界では「迷いが晴れる=ハッピーエンド」とは限らない。

私自身の問題なのに、私を中心とした半径1メートル以内の世界で完結できなくて苦しめられたことが何度あったか。「それでも諦めない」と思ったら解決するほど、世界は特定の誰かを中心に回ってくれやしない。誰もが自分自身の人生において主役であると同時に、大きな世界の中では脇役の一人に過ぎない。そんな脇役である主人公が(物凄く矛盾した言葉だな)、外的要因に翻弄されながら生きる物語が私は好きだ。外部に抗う主人公でも、周りに流される主人公でも構わない。あくまでも大きな世界のほんの一部でしかない主人公の物語を私は欲している。

 

実写版『ジョゼ虎』は、その点が描かれていたから、私は心揺さぶられた。この感動を抱えた勢いでアニメ版を観てしまったのも良くなかったとは思う。「私が好きになった『ジョゼ虎』をことごとくオミットしたな!」と感じてしまったのだ。

今になって考えてみると、監督が描きたかった問題がジョゼの心の不自由さである限り、私が求めているものとは根本から違うのだから仕方がない。これはフレンチレストランに入ったくせに「どうして生姜焼き定食が無いの!?」と文句をつけるようなもので、的外れなのである。

 

 

とはいえ、その「ジョゼの心の不自由さ」の解決過程にも正直不満はあるわけで。再度、監督の言葉を引用させていただく。

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