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セリアズの物語として『戦場のメリークリスマス』を見てみたい

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※注意!『戦場のメリークリスマス』『影の獄にて』『絞死刑』のネタバレがあります。

 

 

個人的には『戦メリ』は群像劇だと思うし、セリアズ、ロレンス、ヨノイ、ハラのそれぞれが主人公なのだと考えている。ただ、その中でもセリアズを軸にして物語を見てみたいとふと思ったので、今回はそれについての話をしたいと思う。毎回しつこいようだが、あくまでも私の妄想であり、無責任な思い込みを書いているものなので、あまり真剣には受け取らないでもらえると幸いだ。

 

 

※前回の『戦メリ』感想はこちら。

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セリアズの物語として考える『戦メリ』

セリアズの罪

物語中で明かされるのは遅いが、セリアズはそもそも罪を背負った状態で登場する。罪とは言わずもがな、かつて弟を裏切ったことだ。この罪を映画監督・三宅隆太さんの言葉を借りて言い表すなら、「未精算の過去」ということになる。

 過去というものは大きく2種類に分けられます。

「清算済みの過去」と「未精算の過去」です。

「清算済みの過去」は現在にプラスの影響しか与えませんが、「未精算の過去」は違います。

 意識的であれ、無意識的であれ、人間の心を必ず蝕みます。その結果、「未精算の過去」はある心理状況を作り上げていきます。

「心のブレーキ」をかけさせて、簡単には破れない頑丈な『殻』を構築し、そのひとの心を覆ってしまうのです。

 

引用元:三宅隆太『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』、新書館

 

これに従えば、セリアズは未精算の過去によって「心のブレーキ」がかかるようになり、「簡単には破れない頑丈な『殻』を構築」し、自分の「心を覆って」いる状態にあるということになる。

実際、原作の「種子と蒔く者」(『影の獄にて』に収録)でのセリエ(セリアズ)は二つの裏切りを起こした結果、<無>に囚われるようになる。この辺は過去に記事で言及したことがあるので、詳しくはそちらを読んでいただきたい。また、これ以降に書く文章もこの記事(以下、「原作感想記事」と表記)を前提にしていることをあらかじめお断りしておきたい。

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『戦メリ』においてもセリアズは同じく心に無を抱えていたことをロレンスに語っている。戦争が勃発するや、無から逃げるようにセリアズは参戦しているのも、原作通りだ。原作感想記事にて私はそれを「セリエの自傷行為」だと表現したのだが、『戦メリ』セリアズも同様に、自分を痛めつけるために戦っていたのではないかと私は想像している。

となると、作中におけるセリアズの日本兵や将校に対する反抗的な態度も、一種の自傷行為なのかもしれない。彼が心の底から死にたがっているわけではないことは、軍律会議の判決が延期されたとき、緊張が解けたようにくずおれている姿から何となく感じ取れる。それでもなお、彼は日本兵に媚びようとしない。例え殴られる――場合によっては殺されるリスクが高まろうとも、敢えて反抗的に振る舞う。まるで、弟に対する贖罪であるかのように。

これらの自傷行為的反抗はヨノイへのキスと比較すると、「支配者である日本側への反抗」と「犯行の後、相手側から報復を受ける」という点では共通しているが、後者が相手の心を動かしたのに対し、前者はただの殴られ損で終わるだけの虚しい行為とも言える。

 

そんなセリアズが殻を破ったシーンといえば、ヨノイに対してキスをしたシーンだろう。だが、ここでセリアズは何の殻を破ったのだろうか?ヨノイへのキスによって、何の境地に至ったのだろうか?

 

 

ヨノイという「影」

さて、セリアズの物語として『戦メリ』を考えた場合、ヨノイは「影」の存在だろう(「影」とは何ぞやについては上の原作感想記事に書いているので割愛する)。さて、大塚英志さんが著書『キャラクターメーカー』で以下のように述べている。

 ぼくは本書で多くの先人に従って物語とは何らかの通過儀礼的な枠組の反映であり、作中で主人公は自己実現や成熟へのモチベーションに支えられる、という前提で論議を進めてきました。

 この、主人公は何らかの自己実現に向かう、という考えに立った時、レクター博士やダース・ベイダーというなかなかに魅力的なハリウッド映画の「悪」を象徴とするキャラクターのあり方を理解することが可能になります。つまりこれらの「悪」のキャラクターは主人公の望む方向、進むべき方向と正反対の方向や価値観に向かって、いわば負の自己実現をしていくキャラクターだといえます。(中略)だからこそ彼らは主人公を「負」の方向に誘う負の「賢者」でもあるわけです。

(中略)

 こういった「負の自己実現」に向かうキャラクターは、しばしばハリウッドでは「影」というユング派の「元型」概念をもって説明されます。

 

引用元:大塚英志『キャラクターメーカー』、星海社

 

「影」について、さらに精神分析家の河合隼雄さんは、「元型としての影」「影のイメージ」を区別すべきだと述べ、さらに「影のイメージ」も「それも個人的色彩の強いもの、普遍性の高いものなどを区別して述べねばならない」としている。

普遍的な影は人類に共通に受け入れがたいものとして拒否されている心的内容であるので、それは「悪」そのものに近接してゆくが、個人的な影は、ある個人にとって受け入れがたいことであっても、必ずしも「悪」とはかぎらないのである。

 

引用元:河合隼雄『影の現象学』、講談社

 

普遍的な影と個人的な影。これを大塚英志さんに倣って『スター・ウォーズ ep4~6』で例えてみると、普遍的な影は銀河皇帝(パルパティーン)であり、個人的な影はダース・ベイダーだろう。各々の末路を見てみるに、銀河皇帝はライトサイドに戻ってきたダース・ベイダーによって倒され――つまり徹底的に否定され、ダース・ベイダーはルーク・スカイウォーカーと和解を果たしている。

 

大塚英志さんはさらに『キャラクターメーカー』にて「二人兄弟」という民話を紹介した上で、以下のように述べている。

 この昔話の興味深いところは「影」とは単に自身の負の側面として全否定されるものではない、ということが読み取れる点です。つまり「影」を救済することで主人公は自己実現するわけです。こうして考えると、作中の「影」として書かれたキャラクターは主人公の自己実現を「援助」する最も決定的なキャラクターでもある、ということにさえなります。

 

引用元:大塚英志『キャラクターメーカー』、星海社

 

セリアズはかつて外部の世界に迎合する形で、弟を裏切った。原作風に言えば、「生の意識」に従順ではなかった。そんな彼が生の意識に従順になるまでの話が『戦メリ』のセリアズ側の物語なのではなかろうか。そして、ヨノイが「負の自己実現」に向かっている存在だと考えると、彼は物語が進めば進むほど生の意識から遠ざかっているといえるわけである。

 

大塚英志さんの「物語とは何らかの通過儀礼的な枠組の反映であり、」という言葉を踏まえて考えるなら、『戦メリ』は裏切りという罪を背負ったセリアズが生の意識に従順になるための通過儀礼の物語だったのだと私は言ってみたい。そのための最終的な試練がヨノイとの対峙であり、セリアズは見事、(負の自己実現へと突き進んでいた)ヨノイという「影」の救済に成功したのだ。その結果、セリアズは俘虜たちの讃美歌に導かれるかのように幻想の中で弟との再会を果たした。

 

 

たましいの表現

歌と言えば、公式サイトでの坂本美雨さんのコメントが印象深い。

セリアズが弟を傷つけたことで、弟の歌が失われ、彼は罪悪感を抱いて生きていく。
けれども、人生の最後には、彼は俘虜たちの讃美歌で送られる。
歌で傷つき、歌で救われたんだ、と気づき、胸を打たれました。

 

引用元:映画『戦場のメリークリスマス 4K修復版』&『愛のコリーダ 修復版』公式サイト | 大島渚監督2作連続公開!

弟から歌を奪ってしまったセリアズにとって、歌というものはある種特別なものだっただろうことは想像に難くない。

ところで、セリアズは作中で音痴な人間と表現されている。病棟の仲間たちと歌っているときに音程を外して笑われているし、原作でもセリエが音痴であることは明言されている。

しかしわたしにしてみれば、これは奇妙かつ厄介なハンディだった。歌に加わろうとすると、それが滅茶苦茶になるという事実は、内心、ひどくわたしを悲しませた。

 

引用元:L・ヴァン・デル・ポスト著、由良 君美・富山 太佳夫訳『影の獄にて』、新思索社

さらに、セリエは弟の歌を聴いたときに、以下のような感情を抱く。

 そこにたたずんでその歌声を聞いていると、正体不明のなにかから――確かに抜き差しならぬ大切ななにかから――閉め出されているという気持ちが、ますますつのってきた。

 

引用元:L・ヴァン・デル・ポスト著、由良 君美・富山 太佳夫訳『影の獄にて』、新思索社

 

原語版はこちら。

 

原作感想記事にて、私はセリエを「自分のたましいと切れた存在」だと言わせていただいた。歌を含め、芸術は魂を表現するものだという言葉を目にしたが、どこだったか。それはともかく、セリエが美しい容貌に生まれ、勉強や運動にも優れているにも関わらず、歌が上手く歌えないというのは、何やら象徴的に感じてしまう。

滑稽さに拍車をかけたのは、世界に見事に溶け込んだわたしも、こと歌にかけてはまるで相性が悪いのに、ことごとに世界と鋭角的に対立する性質の弟の方が、歌を通してだけは完全にひとつになったということである。

 

引用元:L・ヴァン・デル・ポスト著、由良 君美・富山 太佳夫訳『影の獄にて』、新思索社

この場合、セリエ及びセリアズが溶け込んでいる世界というのは、人間たちによるコミュニティといった狭義での世界であり、弟がひとつになった世界というのは人間も自然も全てを含めた広義での世界であるような気がする。「たましいと切れた存在」であるセリエ(セリアズ)は前者の世界には溶け込めても、「たましいと切れ」ているゆえに後者の世界とはつながれない。

 

だが、『戦メリ』という物語の中で、セリアズは「たましいと切れた存在」から「生の意識」に従順な存在へと変貌と遂げていく。

狂気に陥ったヨノイが俘虜全員を広場に呼び出したシーンにて、セリアズがロレンスと交わす会話がこれまた興味深い。

- Listen, John.

- What?

- I wish I could sing.

ここでセリアズに聞こえているものは、原作と同じく弟の歌ということで良いだろう。異常な空気に満ちた場を感じ取り、セリアズは「歌を歌えたら」と言う。このときのヨノイ及び日本兵たちは、まさに国家という自分ならざるものに動かされている「たましいと切れた存在」である。そんな彼らに、セリアズは弟の歌を届けたいと思ったのだろうか。しかし、セリアズには歌を歌うという手段は使えない。

 

こんなことを書いたのも、セリアズのキスは弟の歌と同質のものだと思えてならないからだ。歌を歌えないセリアズにとって、彼の「生」を表現する方法がキスだった。しかも、物語中を通じて反発し合いながらも理解を積み重ねていったヨノイ相手だからこそ通じる「生」の表現だった。そんな風に思えるのである。

 

 

セリアズとヨノイの間で交わされたものは何か?

だとしたら、セリアズはヨノイと何の理解を積み重ねたというのだろうか。以前に書いた記事(以下、「裏切り記事」と表記)を踏まえつつ、考えてみる。

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裏切り記事で私は、最初からヨノイはセリアズを「敵の将校」という属性ではなく、「ジャック・セリアズ個人」として接してきたという旨を書いた。軍律会議において審判長のフジムラ中佐をはじめ、日本人側はセリアズに対して偏見を以て対峙している。セリアズの反論は「嘘だ」と断定し、彼の行ったことに対しては「日本人ならそんなことはしない」と否定する。そんな中、唯一ヨノイだけがセリアズの文化に踏み込み、彼個人を見ようとした。

 

個人的な意見になるが、ハラが病棟に忍び込んできた夜、セリアズがロレンスに「ヨノイはなぜ僕を助けた」と訊くシーンが好きだ。軍律会議にてヨノイがセリアズに惹かれるシーンで流れるBGMの曲名は「Germination(発芽)」という(この他、セリアズとヨノイに関するシーンで流れる曲の名前は「The Seed And The Sower」「Sowing The Seed」「The Seed」と、種子に関係する題名となっている)。セリアズによってヨノイの中で何かが「発芽」したわけだが、上記のセリフを聞くと、セリアズの中にも何かが発芽したように思えるのだ。

 

翌朝、ヨノイたちが剣術の稽古の中で奇声のような叫びを上げ、俘虜たちがそれに動揺するシーン。かつて私はセリアズの言った「彼も同じ穴のムジナだな(Perhaps we're both on the same ladder.)」が何を意味しているのかわからない、と色々考えたりもした。

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今改めて件のシーンを見てみると、ここはロレンスが日本人を単純な敵としてではなく理解可能な相手だと見ているように、セリアズも日本人(そしてヨノイ)を「自分たち西洋人とまったく異なる原理で動いてはいるが、その根本は自分たちと変わりのない存在」として捉えたシーンであるように感じる。

 

この辺りまでにセリアズはヨノイを自分と紙一重の存在――「負の自己実現」へと向かう存在だと認識したとしよう。となると、セリアズがヨノイに投げかけた「そう あんたに禍いを」というセリフは、ヨノイという影を負の自己実現から揺さぶり戻そうとしているように思えてくる。

 

こういった積み重ねがあったからこそ、セリアズは脱獄の際に絨毯をその場に置いていかずに、わざわざ持って行ったのではなかろうか。あんな邪魔にしかならないものを、ロレンスを抱きかかえながら持ち歩くのは、捕まるリスクを高める行為でしかない。それでもなお絨毯を持って行こうとしたセリアズの心境を、どう捉えるべきだろうか。そしてもうひとつ。脱獄中にヨノイに出くわしたセリアズだが、絨毯を持って逃走しようとしていたところをヨノイに見られて何を思ったのだろうか。

 

 

ハラの「めりー・くりすます」

以上のようにセリアズのヨノイとのつながりを追ってみたわけだが、最後のキスに至るまでには、もうひとつ足りないような気がする。ヨノイという影と理解を積み重ねていったセリアズが、キスをするという「殻を破る」行動に出るまでにあとひとつ必要なピース。それが、ハラのロレンスに対する「めりー・くりすます」なのではないかと思う。

先に弟の歌とセリアズのキスは同質のものだと書いたが、さらにハラの「めりー・くりすます」もそれらとイコールで結ばれるのではなかろうか。「めりー・くりすます」もまた、ハラによる「生の意識」に従順になったゆえの行動なのだと私は考えている。一度は理解可能かと思えたヨノイたち日本人が何らかのきっかけで狂気に駆られ始めている。獄中でロレンスが語っていた日本人に対する心情は、セリアズが抱いていたものと近いのではないかと思う。やはり日本人は、そしてヨノイは、理解不能な相手でしかないのだろうかと考えていた矢先に、ハラのあの言葉に出会ったのだとしたら。

直前まで「自分には裏切りの思い出ばかり」と自嘲気味に言っていたセリアズ。そんな彼の背中を押したのが、ハラの「めりー・くりすます」のシーンなのかもしれない。

 

 

ヒーローが行き着いた先

これらのものが積み上がった上で成し遂げられたのが、あのキスなのだろう。

以前、物語には「男性的なストーリー=ヒーローの旅」と「女性的なストーリー=ヴァージンの自己実現」の2種類に分かれるという説を紹介した。この後、それぞれの物語を構成するビートなどを取り上げるが、詳しくは以下の記事を参照していただきたい。

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この記事の中で取り上げた『新しい主人公の作り方』の著者キム・ハドソン氏は以下のように主張している。

ストーリーの中でヴァージンは価値観をシフトさせ、自身が目指すゴールに到達します。ヒーローは世界を救うための行動スキルの獲得に集中します。ヴァージンは自己実現、ヒーローは自己犠牲を象徴します。これら二つは私たちが試練を乗り越えようとする時の原動力。人間には、自己と調和する喜びを得ようとする力(ヴァージン)と、恐れを乗り越えて試練に立ち向かい、勇ましく勝利しようとする力(ヒーロー)があるわけです。

 

引用元:キム・ハドソン著、シカ・マッケンジー訳『新しい主人公の作り方 アーキタイプとシンボルで生み出す脚本術』、フィルムアート社

 

「種子と蒔く者」のセリエは自分の美しさゆえに、外部の世界から期待という名の重圧を押しつけられ、「たましいと切れた存在」になってしまった。恐らく『戦メリ』セリアズにも大きな違いはなかろう。そういう意味ではセリアズは「ヴァージン」的主人公である。と同時に、最後は自分の身を犠牲にしてヨノイや仲間たちを救う「ヒーロー」にもなる。

さて、「ヒーローの旅」型の物語では、ヒーローは日常の世界から旅立ち、非日常の世界で冒険をし、成長を遂げた後に日常の世界へと戻るというパターンをとる。成長を遂げるために必要なのが、7番目のビート「最も危険な場所への接近」だ。大塚英志さんの著書『ストーリーメーカー』では「「日常」と最も離れた場所」と表現され、「この遠さは物理的にであっても象徴的であってもかまいません」「大抵はそこに「敵対者」がいます」とされている。

 

セリアズにとって「敵対者」がいる「「日常」と最も離れた場所」とは、広場のシーンにおけるヨノイの目の前だろう。物語を通じて変革を続けてきたセリアズが最終的に至った場所が、あの場所なのである。

ヨノイがヒックスリを斬ろうと日本刀を抜いた直後、セリアズはゆっくりとヨノイのもとへと歩み寄る。その様子をカメラが横へ横へと動き、追いかける。この場面に私は今までセリアズとヨノイが詰め切れなかった距離を見たような気がしたし、だからこそ、このシーンでようやくセリアズが最後の壁を取っ払って、ヨノイとの距離を詰めたようにも感じてしまう。

 

今まで積み上げてきたものの頂点としてキスは為され、結果としてヨノイという影は救済される。ヨノイを救済することで、セリアズという主人公は自己実現を果たす。それを象徴的に表すのが、幻想の中での弟との再会なのではないかと思ったりする。

 

 

余談

『絞死刑』との類似点

クライテリオン版ブルーレイに付属している冊子に、Chuck Stephens氏の『戦メリ』評が載っているのだが、そこで言及されている内容が面白かった。その中でも特にハッとさせられたのが、セリアズの弟がイニシエイションを受けている場所と『絞死刑』における刑場の類似点だ。どちらも上層階-下層階に分かれている多層的建造物だという指摘がされていた。

 

『絞死刑』ではRという青年が最終的に国家によって死に至らしめられる。ここで言う国家とは、実体がなく、そのくせして構成員に人殺しを行わせる理不尽な存在である。

これを踏まえた上で考えると、『戦メリ』にてセリアズの弟をいじめている生徒たちは、『絞死刑』における刑務官たちに近いのかもしれない。ロレンスが投獄された際に日本兵たちのことを「個人では何もできず集団になって発狂した」と表現しているが、イニシエイション時の生徒たちの状態もこれに非常に近い。

言わば、実体のない存在に突き動かされ、弱者をいたぶっているという状況だ。ロレンスが「私は個々の日本人を憎みたくない」と言っているように、実体のないものに突き動かされている人間たちも、個々で見れば相互理解可能な存在なのである。『絞死刑』の刑務官たちだって、業務を離れたところでは死刑に反対という思いを持つ。それでもRが絞縄に吊るされる瞬間、彼らは上層階からただ見ているだけである。同じくセリアズも上層階から動くことなく、生け贄になった弟の叫びを聞くだけだ。本来、セリアズはいじめっ子から体を張って弟を守るような兄なのにも関わらず、である。

 

逆に言えば、そんな存在が実体のないものによって突き動かされることによって、人殺しなどの悪に手を染めてしまう。そういった恐ろしさが『絞死刑』と共通している場面なのかもしれないと思った。

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クライテリオン版『戦メリ』。字幕は英語のみなので、セリフを一通り覚えてしまった人向け。映像が綺麗、特典映像が充実している点はオススメ。

 

 

『儀式』との類似点

紀伊國屋書店版DVD『戦メリ』の付属冊子では、『儀式』の主人公・満洲男を間に挟むことで、セリアズとヨノイは等号で繋がると論じている評があって、それも面白い。個人的に『儀式』に関しては満洲男と輝道の対比について、そのうち無責任な妄想めいた感想記事を書けたらなぁとは思う。輝道のキャスティングについては三島由紀夫に依頼しようという案もあったそうだが、その案が出た矢先に三島自決のニュースが飛び込んできたというエピソードは中々に印象的だ。三島と言えば、ヴァン・デル・ポスト卿がヨノイとのつながりを見いだした人物である。それについては以下の記事で触れている。

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※続きはこちら

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※原作者ヴァン・デル・ポストの別作品『新月の夜』を『戦メリ』と比較しつつ感想を書いてます。

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※『戦メリ』感想記事リンク集

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