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江平洋巳『恋ひうた~和泉式部異聞~』感想。女の業を背負って生きる和泉式部の姿が切なくも清々しい作品

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※注意!『恋ひうた~和泉式部異聞~』のネタバレがあります。

 

 

 

高校生の頃、どうしようもなく古文が苦手で、苦手意識を払拭できないまま大学入試に挑んだ結果、センター試験の国語でひっどい点数(自己採点しながら血の気が下がっていく思いがした)を取ったなぁという思い出がある。

そんな古文アレルギー人間だったが、中学校のときに覚えさせられた百人一首の中のとある一句は忘れられずにいた。和泉式部による「あらざらむこのよのほかのおもひでにいまひとたびのあふこともがな」だ。何といっても出だしが「私はもう死ぬでしょう」である。キョーレツすぎる。中学生の私はキョーレツすぎる出だしというだけで和泉式部の句を気に入り、この句だけは誰にも渡さないよう必死でペシンペシンと取ったものだった。

成人した後、立ち寄った本屋のコミックコーナーで平積みされていた『恋ひうた~和泉式部異聞~』に反応したのは、そういった思い出があったせいかもしれない。運良く1巻の発売直後に買えた後、和泉式部の恋にドキドキしながら続刊を待ったものだ。

何しろ、彼女の恋の相手・弾正宮だんじょうのみや為尊親王ためたかしんのうがカッコ良すぎた。女好きのチャラチャラしたバカ皇子に見せかけて、実は和泉式部を大切にしてくれるという、あるあるではあるけれどやっぱり萌えてしまうこのギャップ!もちろん、少女漫画だから容姿が端麗なのは言うまでもない。

その上、普段は自信満々の態度を取っていながら、たまに孤独さを匂わせてくる。自身の脆弱性を隠して殊更に強く振る舞おうとする殿方ってのは、女性向けの作品によく出てくる。やはり、女性の好みに訴えかけてくるのだろう。少なくとも私はこのタイプに弱い。

こりゃ、和泉式部も惚れるわ。私も惚れたわ。そんなわけで全3巻の刊行中、私も和泉式部と共に為尊親王に恋い焦がれていたのだった。

はい、前置き長くてすみません。

 

 

ネタバレ感想

今作は30代の和泉式部が、藤原道長の娘であり中宮の彰子のもとに出仕するところから始まる。この頃の和泉は二人の宮(弾正宮為尊親王、帥宮敦道親王)と道ならぬ恋をした「浮かれ女」という、スキャンダラスな存在として周りから見られていた。女房たちは和泉を汚らしい存在として扱う中、彰子は彼女の恋物語を聞かせて欲しいとねだる。主人の願いに応え、和泉は最初の恋――つまり為尊親王との恋を語る、というのがおおまかなあらすじだ。

 

女子として抑圧されている許子

以前、キム・ハドソン氏が提唱した「ヴァージン」という概念を紹介した。ざっくりいってしまえば、ヴァージンは女性的なストーリーの主人公のことである。ヴァージンは物語開始直後は抑圧された環境の中におり、あるがままの自分をなれずにいる。そんなヴァージンが自分らしく輝けるきっかけをつかみ、周囲の人たちとの軋轢に苦しみつつも、最後は自分が輝ける世界を勝ち取るという構造になっている。

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さて、和泉式部(幼名は御許丸おもとまる、長じた後は許子もとこ)だが、彼女もヴァージン的な主人公と言えるだろう。少女時代に漢籍を学んでいた御許丸だったが、それを母親・介内侍に止められる。

女は片目をつぶって世界を見るくらいでちょうどよいのです

その後も介内侍は御許丸に対し、女子に学問は不要であり、物事に対して疑問を感じることを禁じてくる。納得のいかない御許丸は介内侍の目を忍び漢籍を貪っていたが、やがて彼女の真意を知ることになる。

時の中宮・昌子内親王が介内侍の前で、自分を愛そうとしなかった夫・冷泉帝への恨み、そして彼の浮気相手への憎しみを吐露するところを偶然居合わせた御許丸が盗み見る。娘に見られていることに気づかぬまま、介内侍は昌子を抱きしめて言うのが以下の言葉だ。

目を閉じるのです昌子様

何も見ず何も考えず心の中の浄土だけを見つめて生きるのです

そうすれば苦しみも悲しみもない

心穏やかに生きてゆけます

女にできるのはそれだけなのだから……

これが御許丸を抑圧するものだ。この時代の女性には、聡い生き方は求められていない。受動的な生き方を強いられる女性には、知らない方が良いこと、気付かないほうが良い感情が多すぎる。しかし、御許丸は「私はすべてを見たい」「私は知ることを恐れない!」と抗おうとする。

 

二人の男(為尊親王、橘道貞)

長じて許子と呼ばれるようになった頃、彼女は歌才のある美少女として、公達からの人気を集めるようになる。そんな状況の中で彼女は親から橘道貞たちばなのみちさだとの結婚を言い渡されるのだった。

その上、同じ日の夜に為尊親王からの訪いを受け、御簾の中に入られてしまう。実に強引な口説き方。しかも後々、この訪いは為尊親王が兄・花山法皇と「為尊親王が許子を口説き落とせるかどうか」という賭けによるものだと知らされるのだから、まだ乙女の許子にとっては二重にショックな出来事である。だが、下衆だと思っていた為尊親王がふと見せる優しさに、許子はどうしようもなく惹かれていく。とはいえ、彼は手の届かない身分の人間だし、自分には婚約者がいるわけで。身を裂かれるような思いで彼女は橘道貞に嫁ぐ。飽くまでも為尊親王との恋は思い出にすぎないとして、許子は道貞と穏やかな家庭を築くのだった。

 

許子と道貞の結婚生活は実に幸福そうに描写されている。素朴で実直な人柄の道貞に大切にされ、これ以上何も望むことはないと言わんばかりの許子。せっかく歌の才能があるのに、許子を家に縛りつけているようで申し訳ないと道貞が言えば、許子は「私宮廷なんて興味ないわ。今のままで十分幸せ」と夫に囁く。

こんなことを言えば許子には心外だと言われると思うが、このときの許子は「片目をつぶって世界を見」ている状況にあると言えるのではなかろうか。かつての昌子内親王が苦しんだ心の闇、それを知ることを恐れないと誓った御許丸。今の許子は苦しみを知らない反面、道貞との狭い世界に完結しようとしている。

 

しかし、後に「恋多き歌人・和泉式部」となる身だ。時の中宮・定子のもとで活躍している清少納言の話を聞けば、その才能に魅せられ、彼女に文を送らずにはいられない。清少納言もまた、許子の歌才をすぐに見抜き、返信の文を送ってくる。当代随一の才媛に妻が評価されて道貞も喜ぶが、同時に芸術の才に溢れた許子とそうではない道貞との間に壁が生じ始めていくのだった。その上、宮中の政権争いまでもが許子・道貞夫妻に襲いかかってくる。

 

崩壊する幸せな生活

当時の宮中では時の関白の急死をきっかけに、政権奪取のための争いが起こっていた。主役のひとりは先々代の関白・藤原道隆の息子・藤原伊周、あとひとりは道隆の弟・藤原道長である。両者とも自分が有利になるよう支援者を募るわけだが、そこに巻き込まれるのが皇族である為尊親王だ。二人とも「味方をしてくれれば、あなたを帝にする」と申し出るのだが、それこそが自由に生きたい為尊親王にとっては抑圧の言葉でしかないのである。この当時の帝に大した実権がないことは、我々も歴史の授業で嫌というほど習っている。藤原氏の傀儡となれと要請された為尊親王もまた、許子と同じ周りから抑圧された人間――ヴァージンだったのだ。彼は口先ばかりで内心を見せようとしない周りの人間たちによって、人を信じられぬようになっていた。そんな彼にとって、親王相手でも媚びようとしない許子の姿は眩しかったのだろう。

 

同じ痛みを背負った二人は一度縁が切れたものの、また奇妙な運命に巡り合わせによって近づいていくことになる。だが、それは許子の今の幸せを手放すことでもあるわけで。

騒がしくなる宮中とは裏腹に、許子は道貞との子を出産する。あくまでも許子の世界は平穏で幸せなままだ。そんな彼女に年老いた昌子内親王は忠告する。

今の幸せを手放してはだめよ

何があっても目をつぶるの

しかし、許子と為尊親王の間で結ばれた絆が、道貞の心を冷え込ませていく。結果、許子と道貞は史実の通り、離婚に至ってしまうのだった。

 

傷心の許子のもとを訪れるのが為尊親王だ。かつては親の期待に応えるため、為尊親王を振り切った許子だったが、今はそのような枷もない。ようやく許子は初恋の人・為尊親王と結ばれる。だが、間もなく為尊親王が流行病で亡くなったことで、その幸せも終わりを告げるのだった。

 

「恋多き歌人・和泉式部」が生まれるまで

残された許子は苦しむ。誰も信じられずに生きてきた為尊親王の心に自分は寄り添えたのだろうか。道貞との破局の経験がトラウマになり、彼女自身も愛し愛されるという実感が得られずにいたのだ。

そんな彼女がどう苦しみを切り抜けたかについては、本編を読んでいただきたい。

いずれにせよ、苦しい恋の思い出を背負って生きてきた許子――和泉式部は、とある出来事をきっかけに一皮むけることになる。その結果、爆誕するのが「恋多き歌人・和泉式部」である。自らの苦い恋ですら、美しい芸術へと昇華する。受動的な生き方しかできない女子としての苦悩。彼女はそれすら歌や文学の素材としてしまう。自らの怨念に苦しむ昌子の姿を見てもなお、「知ることを恐れない!」と空に向かって宣言した幼い少女は、日本文学史に残る情熱的な歌人へと変貌したのである。

 

私は日本史に詳しくないので間違っているかもしれないが、許子が道貞との結婚の前に為尊親王と出逢い恋に落ちていた等、独自のアレンジがなされているのが『恋ひうた』だ。為尊親王との恋の積み重ねや、彼との初恋が美しかったゆえに道貞の心を傷つけたエピソードといった独自のアレンジによって、和泉式部にとって「恋」とは何なのかを問いかけるような物語になっているように感じる。彼女にとって苦しみの源泉でもある恋。片目をつぶっていれば見ずに済む苦しみ。だからこそ、恋こそが彼女の歌にとって必要なものであると気づくシーンは爽快だ。

ただいろいろ吹っ切れて今の自分に足りないものに気付いたんです

男よ!

これからも大いに恋して嘆いて自分を可哀相がろうと思うわ!

苦しみだって糧にする、そのしたたかさが見ていて清々しい。『恋ひうた』を読んだ後で『和泉式部日記』を読んだのだが、日記と言いつつ自分のことは「女」と第三者的に表記し、女のいない場面(つまるところ和泉式部が見ていないはずの場面)もドラマティックに描く手腕を見て、『恋ひうた』和泉式部のしたたかさを思い出して微笑ましい気持ちになった。

 

 

余談

しつこいようだが、為尊親王が素敵すぎる。初めて許子のもとに忍んでいったときは無理やり御簾の中に入り、強引に接吻するという下衆っぷりを見せておきながら、次に会ったときには飾り気のない優しさを見せてくれるというこのギャップ。

そもそも彼は周囲の人間の傀儡になることを嫌い、ことさらにチャラついたバカ皇子として振る舞おうとしている人物である。一回目の出逢いでは、彼の演じているキャラを前面に押し出したわけだが、二回目の逢瀬では遠慮を知らない許子に「人の心を弄ぶ下品な人」「あほう」と(親王にも関わらず)罵られ、仮面が剥がれたんだろうな、などと思う。

 

個人的には婚礼の儀直前の許子を訪ねるシーンが好きだ。直前に藤原伊周、藤原道長からそれぞれの陣営への勧誘を受け、鬱屈した心境になっているという状況で、彼は許子のもとを訪れる。とはいえ、許子の前で内心を明かすわけでもなく、殊更に明るく伊周・道長とのことを語る。それでも時折、鬱屈した心が表に出るのだが、許子に突っ込まれるとすぐにおちゃらけてみせる。ここが何というか、母性本能をくすぐるというか…。為尊親王、逆にあざといです。

しかも、冗談めかして許子に「一緒に逃げようか」と誘いかけるのだ。重ねて言うが、許子は婚礼の儀を控え、道貞の来訪を待っている状況である。「こんな時に冗談は…」と許子が牽制すれば、先程までおちゃらけていたにもかかわらず「本気だと言ったら?」と囁く。冗談と本気の態度の使い分けが上手すぎて、許子ならずともグラグラきてしまいます、為尊親王。

 

とはいえ、許子の結婚相手・橘道貞も実直で誠実な人物として描かれており、こちらもまた捨てがたい。為尊親王と身を切るような別れの直後に道貞との対面となった許子なので、袖が涙で濡れているわけである。それを察知して、道貞は「無理強いはしない」と言ってくれるのだ。逆にそれが引き金となって許子は泣きながら道貞に八つ当たりをするのだが、それでも彼は許子を優しく抱きしめたまま手を出さないという紳士ぶり!

当時の婚礼の儀は三日間あり、毎晩夫と過ごすわけだが、許子の意思を察して道貞は彼女に触れようとしない。そんな草食男子の権化のようだった道貞が三夜目に変貌する。許子への思いゆえに衝立の中へと入っていき、彼女へ愛を告げるシーンはなかなかに情熱的である。こちらも朴念仁に見えつつやるときゃやる系男子として、為尊親王とはまた違った魅力があるように思う。

 

ということで、良い男にときめきたい方々にも『恋ひうた』オススメです!

 

 

 

 

 

『恋ひうた』で名前だけ出てくる敦道親王。和泉式部と恋に落ちたもう一人の親王について知りたいときは、『和泉式部日記』を読むべし!

 

 

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