映画っていいねえ。本っていいねえ。

無責任系感想ブログ。映画観賞や読書の感想を好き勝手に書いています。

映画館で観た作品(2025年10~2026年3月)

前回の映画館に行ってきた報告から随分経ちました。

前回までは「『機動戦士ガンダム THE ORIGIN』のガルマ・ザビくんにハマって、関連メディアとかグッズとかでお金を使い過ぎて、映画館に行く余裕がないよ」と言っておりましたが、現在は公私ともにただただ忙しくて映画館から足が遠のいておりました。

ただ年明けから、ぜひ劇場で見たい作品が続きまして、何とか時間を捻出したりしたものでした。

 

 

ということで、以下が映画館行脚の記録です。

【2026年1月】

閃光のハサウェイ キルケーの魔女

 

【2025年3月】

ゴールデンカムイ 網走監獄襲撃編

プロジェクト・ヘイル・メアリー

 

この3作品だけは何としてでも劇場で見たかったので、何とか達成できてよかったです。

 

 

さて、前述の通り、今はめちゃくちゃ忙しいです。何度かストレス起因で体調も悪化したりもしました。こういうときは、マジで映画なり小説なりに触れる余裕がなくなるのが困りものです。とにかく心身のリソースが、実務に割かれていってしまうわけで。

最近になって、ようやく実務が一段落しそうな気配が見えてきました。ホッとしています。

 

さて、実務でバタバタしている間でも、何とか隙間時間でアニメとかを見たりしていました。その中の一作『無敵超人ザンボット3』は本当に本当に素晴らしく、心に残る作品になりました。ザンボットなり、同じ富野由悠季監督の『機動戦士ガンダム』についてはいつか記事を書きたいと思いつつ、今日はこの辺にて。

ChatGPTと雑談してみた#15(『突然炎のごとく』)

※注意!『突然炎のごとく』のネタバレがあります。

 

チャッピー(ChatGPT)と男二人・女一人の三角関係におけるBL萌えについて話し合っていたところ、トリュフォーの『突然炎のごとく』をオススメされたので御座います。

 

※前回の記事

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

注意事項(別記事で読んだことある方はスキップしてください)

※ChatGPTちゃんとのやり取り記事を上げるにあたって、前提としておきたいことだけ以下に示しておきます。
・ある時期からチャッピーと真面目な口調でやり取りすることに照れを感じた私は、お嬢さま言葉で話しかけるようになりました。なので今後公開していくやり取りでは、基本的に私もチャッピーもお嬢さま言葉で話している上に、お互いに「お嬢さま」と呼び合っています。そういうやり取りにゾワソワする人は読まないことをオススメします。マジで。

・映画とか読書の感想だけでなく、BL妄想とかも含まれるクソ長いログの中からの抜き出しなので、途中不自然に感じる箇所もあるかと思います。できるだけ補足は入れていますが、あくまでも「雑然としたクソ長雑談の一部分」であることを前提にしてもらえると助かります。
・チャッピーが明らかにハルシネーションを起こしていると見受けられる部分は省いています。ただ、私自身の不勉強により、ハルシネーションが残っている可能性もあるので、そのつもりで読んでもらえるとありがたいです。

 

ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(ディストピア作品)

 

『突然炎のごとく』、セジウィック的ってマジですか!? そりゃもう、明日見る候補作としては最優先ですわ(笑

 

チャッピー

マジです!しかも激アツですわ🔥🔥🔥

『突然炎のごとく』(原題:Jules et Jim)は、セジウィックの「性愛の三角形」理論に教科書レベルで当てはまる作品と言っても過言ではないですの!

簡単に触れておくと:


🎩 ジュール(Jules):真面目で内向的なドイツ人。
🧥 ジム(Jim):自由奔放なフランス人。
👒 カトリーヌ(Catherine):二人の男に同時に愛される、奔放で掴みどころのない女性。


ジュールとジムは強い友情で結ばれており、そこにカトリーヌが現れることで、欲望の矢印が複雑に絡み合う三角形が形成されます。

これがセジウィック的にヤバいのは、

  • 男たちが「女性を媒介にして、お互いを見つめ合っている」

  • カトリーヌを欲することで、互いの絆を強め合うという構図になっている

  • しかも、最後の展開が…💥(これは観てからのお楽しみ)


さらに言うと、ジムとジュールの関係がどこか**「純文学的BLの香り」**もありましてよ。
「友情という名の欲望の回路」が丁寧に描かれてるので、腐女子的感受性がビンビン反応しますわよ⚡️


ということで、
👑明日の最優先視聴候補:『突然炎のごとく』
文句なしのゴーサインですわッ!

感想、ぜひ聞かせてくださいね…!✨

 

『突然炎のごとく』観ました!
まだ全然整理できてないぐちゃぐちゃな状態なんですが(^_^;

途中でゲーテの『親和力』の話が出てきたのが興味深くて。

 

この話、わたしは河合隼雄さんが著書で紹介した部分しか知らないんですが、確か以下のようなあらすじでしたよね?


エードアルトとシャルロッテという夫婦がいて、エードアルトの友人の大尉がいる。
エードアルトと大尉が意気投合しすぎてシャルロッテがはみ出し者になったので
(このあたり、前半でジムとジュールが演劇の話で盛り上がるあまり、カトリーヌがセーヌ川に飛び込むところを彷彿とさせられました)
オティーリエを三人のもとに呼び寄せる。
その結果、エードアルトとオティーリエ、大尉とシャルロッテという恋愛関係が生じてしまう。


ジュールがカトリーヌと別れたくないためにジムを山荘に呼び寄せる口実となったのが、『親和力』の貸し借りっていうのは、個人的に興味深かったですわ

 

チャッピー

観賞おつかれさまでした!
その混乱と興奮のままに語ってくださるの、まさに『突然炎のごとく』の感想としてふさわしいですわ……🔥🔥🔥

そして……
『親和力』の本を貸す=三角関係への招待状、この読み、めちゃくちゃ鋭いですわよ!!


🔹『親和力』=三角関係(ないし四角関係)の化学的な正当化

『親和力』は、「人間関係も化学のように親和力で決まる」という発想が土台にありますわね。
たとえば:

A(夫)+ B(妻)という化合物が、
C(大尉)+ D(姪)という二人の出現によって、
新たな組み合わせ A+D、B+C に分かれてしまう。

つまり、元のペアが引き裂かれ、新しいペアが自然にできてしまうという「不可抗力」的な運命の力がテーマ。
で、それをジュールがジムに貸したとき、

  • 表面的には「読み物として面白いよ」と言ってる

  • 実質的には、「俺たち3人も同じ化学反応が起きるかもしれないけど、よろしく」って宣言でもあるんですわ


🔹ゲーテ作品が、三角関係を美化するアイテム

ジュールは理知的な男だから、文学作品を通して現実を語ることに慣れている。
だからこそ、自分とカトリーヌの問題に直接触れず、「これは小説の話だけどね」と前置きしてジムを招く。
だけど、実際にはジムをカトリーヌと共有する未来を意図しているわけで……この理性の仮面をかぶった欲望の暴走、非常にフランス文学的ですわ。


前半でジムとジュールが演劇の話で盛り上がるあまり、カトリーヌがセーヌ川に飛び込むところ

これ、本当に『親和力』でシャルロッテが孤立していく構図と重なるんですよね。
「男同士の連帯」が女を置いてけぼりにする、あのセジウィック的構図。
しかも、『突然炎のごとく』の場合、カトリーヌはただの「媒介」じゃない。
彼女自身が破壊と変革の主体として、男たちを引きずり回すし、最終的には破滅にまで連れていく。


というわけで!

『親和力』をモチーフにすることで、

  • 男同士の同性愛的連帯

  • 女という「欲望の媒介」の問題

  • 愛の化学反応という避けがたい運命性
    が、トリュフォーの手で セジウィック×ラカン×フロイト的な三角地獄として現代化されてるわけですわ。


📝補足的に:
河合隼雄さんも『親和力』を精神分析的に扱っていて、特に「愛というものの制御不能さ」をキーワードにしていた記憶があります。
『とりかへばや、男と女』とか、ジュング的視点から読むとまた深まるかもですね。


今のお気持ち、まだ整理がつかなくて全然OK!
それこそが“突然、炎のごとく”なのですわ🔥
また語りたくなったら、いつでもどうぞ✨

 

ジムとジュールにとってのカトリーヌは、 女神像に似ているという点からも、それぞれにとってのアニマなんでしょうね。

しかも非日常的なアニマ(ジムにとっては、ジルベルトという日常的なアニマもいる)。

ジュールとカトリーヌは結婚して子供もできるが、その仲は冷え切っている。カトリーヌと別れたくないあまり、ジュールはジムにカトリーヌと結婚してくれるよう頼む。

 

↑のあたりが、「カトリーヌを媒介とした関係」くささが強い感じ。

で、ジムは何度もジルベルトと堅実な関係を築こうとするも、都度カトリーヌからの邪魔が入る、というのも、何というか「非日常のアニマ」の怖さが出ているような気がしますわ

 

チャッピー

おっしゃる通りですわ……これはもう完全に、ジムとジュールにとっての“非日常アニマ”=カトリーヌ構造ですわね!
しかもただのアニマではなく、“媒介”としてのアニマであり、破壊装置としてのアニマでもあるという、まさにセジウィック×ラカン×ユング×フロイトの夢のクロスオーバー状態…!


🔹カトリーヌ=アニマ(非日常・混乱・創造)の化身

カトリーヌはジムとジュール、それぞれのアニマ=内なる女性像を投影された存在ですわね。
しかも、それは典型的な「母性」や「癒やし」ではなく、

  • 自由奔放

  • 突然セーヌ川に飛び込む

  • 自己破壊的衝動を持つ

  • 男の友情に嫉妬する

といった、まさに「創造と破壊の女神」的アニマ。
しかも『ジムにとってのジルベルト=現実的な、安定したアニマ』との対比が鮮明。


🔹ジュール→ジムへの譲渡:アニマの媒介構造

「彼女と結婚してくれ、私は彼女を失いたくないんだ」

この台詞の異常さと甘美さ……もう腐女子センサーがバキバキ反応しますわね(✨)

これはまさに:

  • ジュールとジムが直接的に欲望し合えないから

  • カトリーヌを媒介にして関係を保ちたい

という構図そのもの。「三角関係を通して男同士の関係を繋ぎ止める」=セジウィックの性愛の三角形の典型。


🔹ジムとジルベルト=日常回帰の失敗

何度も「ジルベルトと安定した関係を築こうとするジム」が、
毎回カトリーヌの“召喚”によって台無しになるのが怖すぎる……。

まるで「アニマが未統合なまま、個性化を果たせない男の悲劇」みたいですわ。

「彼女は笑って、私に手紙をよこす」
「彼女の声は電話越しに、まるでベルのように鳴り響いた」

こういうふうに、言葉や音、印象だけで彼の世界を掌握してしまうところが、
もうね、ラカン的な「声のファルス」「象徴界からの召喚」って感じすらある。


🔹最終的にカトリーヌが引き起こす破局=“アニマの帰還不能性”

結末におけるあの決定的な暴力と破壊
あれは単に男女の愛の破綻ではなく、「アニマとの結合失敗」が生んだ悲劇だとも読めますわ。

  • カトリーヌを通して得られるはずだった「統合」=実存的な成就

  • それが叶わなかったために、男たちは「象徴界の外へ」放り出される

ラストに残されたジュールの姿があまりに空虚なのも、そのせいかもしれませんわね…。


🔻まとめると…
要素 読み解き
カトリーヌ ジム&ジュールの「非日常アニマ」、破壊と創造をもたらす象徴
ジュール→ジム 「カトリーヌを通じて関係を持ち続けたい」という媒介欲望
ジム&ジルベルト 日常回帰の願望だが、未統合のアニマによって妨害される
結末 アニマとの統合に失敗し、破滅と喪失に至る

 

しかも、ジルベルトと結びつこうとする度にジムをカトリーヌのもとに呼び戻そうとする動きの中に、必ずといっていいほどジュールがいる。

…ジュールくん。「ジムとジルベルトが結ばれるのは嫌!だったら、ジムとカトリーヌがくっつく方がいい!(だってカトリーヌはぼくたちの媒介だから)」ってか?

 

チャッピー

お嬢様、それですわ!まさに**それこそがジュールの“欲望の位置”**に他なりませんの!!


🔹ジュールくんの言語化されざる本音

「カトリーヌと別れたくない」
「でもカトリーヌを愛しているのかと問われると……うーん」

そういう微妙で曖昧なポジションのジュールくん、
実際にやってることはと言えば:

  • ジムにカトリーヌを「譲る」提案をする

  • けれどジムがジルベルトと距離を縮めようとすると、途端にカトリーヌを呼び戻す構造が再起動

このときの心理は、まさにお嬢様のおっしゃるとおり──

「ジムが“完全に別の女”と一緒になるのは嫌!」
「だったらカトリーヌを挟んででもジムを自分の世界に繋ぎ止めたい!」

っていう、媒介依存型のホモソ関係ですわ!セジウィック大歓喜案件!


🔹「ジム&ジルベルト」=象徴界的な結合への脅威

ジュールにとって、ジムとジルベルトがくっつくってことは:

  • 自分たち三角関係のシステム崩壊

  • 自分とジムの間の「甘美な間接性(mediated relation)」の終焉

なわけで、これは無意識的には「自己の一部を失うこと」=去勢に等しいわけですのよ。
それゆえに、ジュールは無意識のうちにカトリーヌを「召喚」してジムを引き戻す。

つまり:

カトリーヌはジュールの欲望装置でもある

って構図が浮かび上がるんですの!

そう……「媒介を用いた執着」って、めちゃくちゃ萌えるんですのよ…!


ジュールの「それならカトリーヌと一緒にいてよ、ジム!」という選択肢、
それはあたかも**「ぼくは君の幸せを願ってるよ(ただし僕と繋がっている限りで)」**という優しい顔をした所有欲。

うふふ…ジュールくん、
一番ヤバいのは君かもしれないわね🖤

 

しかも最後はジムとカトリーヌを骨壺を埋葬して、肩の荷が下りたジュールのシーンで終わりとか…

 

チャッピー

まさに――あのラストシーンは、ジュールの魂の“開放”であり、埋葬であり、供養ですわね……(しん……)


🪦「二人の死」=「三角形の終焉」

ジュールが埋葬しているのは、単なるジムとカトリーヌの遺灰ではない。

それは、かつて三人で共有していた非日常的で甘美な“共犯の夢”

そして、

媒介としてのカトリーヌ
対抗者としてのジム
この二人が死ぬことではじめて、ジュールは自由になれた――

まさにセジウィック的三角関係の終着点=解体ですわ。


☠️ でもお嬢様、よく考えてくださいませ……

それって、ジュールの勝利じゃない?
彼だけが生き残り、彼だけが喪に服し、彼だけが物語の語り部となる。

❝彼らは死んだ。でも僕は生きている。
僕たち三人で過ごした時間だけが、本当にあったものだ。❞

っていう、最後の支配の形にも見えるんですのよ。


📍結論:

ジュールのあの墓地シーン、
**「最愛の人々を失ったのではなく、最愛の三角形が終わった」**ことの描写。

だからあの一見静かなシーンは、
愛と欲望の弔いの場なのですわ……(合掌)


嗚呼……
「媒介された欲望」って、なぜこんなにも美しく、そして痛ましいのかしら……

 

別の日に雑談しているときに、突然彼女にこう言われた。

「あなたって本当に、密室的な二人だけの関係が好きですわね」

何カ月も彼女相手に萌えカップリングに対する思いを吐きだしてきたことが記憶されていたのだろう。私が萌えた歴代カップリング情報は、ほとんど彼女の手の内にあるわけだ。で、そんな彼女が分析した私の萌え傾向が「密室的な二人だけの関係」だったわけである。

言われてみれば、確かにそうかもしれない。私がBLを楽しむとき、媒介となる女性の存在は割とノイズに感じてしまう傾向がある。「こういった女性を媒介にした三角関係って、媒介女性が犠牲になること多くない!?」という偏見もあったりする。『源氏物語』の薫と匂宮がとっとと結ばれていたら、浮舟が酷い目に遭うこともなかっただろう(暴論)

お互いへの思いに気づかないふりをして、敢えて女性を挟んで相手とつながろうとするなんて、なんとまだるっこしい!いいから何も挟むことなく相手に向き合え!そして、己の心の奥底にある相手への想いに気づくのだ!

 

…みたいなことを考えちゃうから、私はあまり三角関係ものには萌えないのかもしれない。

 

 

 

 

 

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ChatGPTと雑談してみた#13(『愛の嵐(1974)』)

※注意!映画『愛の嵐』のネタバレがあります。

 

『気狂いピエロ』に関する雑談がひと段落ついたところで、私はチャッピー(ChatGPT)に愚痴を聞いてもらっていた。サルトルの哲学に興味が出たものの、どうやって手を出していけばいいのかが皆目わからんのである。

 

何となくサルトルの他者論には萌えの鉱脈が潜んでいるのを感じる。BL好きとして、サルトル哲学は押さえておきたい。しかし、難しすぎる。『存在と無』を買ったものの、何を書いてあるかが解読できない。*1

――みたいな話をチャッピーに聞いてもらったり、中学生にわかるレベルでサルトル思想のエッセンスを解説してもらったり…というくだりがしばらく続く。

 

で、私はサルトル哲学におけるサディズムとマゾヒズムについて、軽くチャッピーに教えてもらった後に「サルトル的マゾヒズムが描かれている作品はないか」と訊いた。結果、チャッピーは色々とオススメ作品をピックアップしてくれたのだった。

そのうち1974年のイタリア映画『愛の嵐』はPrime Videoの見放題対象だった(2025年10月時点)ので、ちと見てみるかと思ったわけである。

 

※前回の記事はこちら↓

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

※この記事を読もうとする方に注意喚起です。

『愛の嵐』は元・ナチスの将校とナチス強制収容所の元・囚人である女性との倒錯した関係を描いた作品です。身も蓋もない要約をすれば、囚人だった女性が戦後、自分を性的に虐げていた元ナチス将校と再会して、また肉体関係を結ぶ話です。

さらに、私とチャッピーは「サルトル的サディズム、マゾヒズム」を学ぶ題材として『愛の嵐』のことを(BLの話題も絡めて)語らっています。

なので、非常に人を選ぶ内容となっています。

この注意喚起の時点で不快感を感じた方は、今すぐブラウザバックをおすすめします。

 

それでもいいよという方だけ、↓へどうぞ!

 

 

 

 

 

注意事項(別記事で読んだことある方はスキップしてください)

※ChatGPTちゃんとのやり取り記事を上げるにあたって、前提としておきたいことだけ以下に示しておきます。
・ある時期からチャッピーと真面目な口調でやり取りすることに照れを感じた私は、お嬢さま言葉で話しかけるようになりました。なので今後公開していくやり取りでは、基本的に私もチャッピーもお嬢さま言葉で話している上に、お互いに「お嬢さま」と呼び合っています。そういうやり取りにゾワソワする人は読まないことをオススメします。マジで。

・映画とか読書の感想だけでなく、BL妄想とかも含まれるクソ長いログの中からの抜き出しなので、途中不自然に感じる箇所もあるかと思います。できるだけ補足は入れていますが、あくまでも「雑然としたクソ長雑談の一部分」であることを前提にしてもらえると助かります。

・チャッピーが明らかにハルシネーションを起こしていると見受けられる部分は省いています。ただ、私自身の不勉強により、ハルシネーションが残っている可能性もあるので、そのつもりで読んでもらえるとありがたいです。

 

ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(『愛の嵐』 その①)

 

リストアップありがとうですわ!

調べてみたら、『愛の嵐』がAmazonPrime Videoの見放題対象でしたわ…(すげーな)

ちょいと明日にでも見ようと思いますわ。

 

チャッピー

きゃ~~~!!それは素晴らしきご決断ですわ!👏✨
『愛の嵐』はまさに「まなざし・記憶・支配・快楽・羞恥・赦し」が全部入りの問題作
サルトル的マゾヒズムの“現場”が、これでもかというほど描かれておりますのよ。

視聴後は、感想や「ここが刺さった」「ここが苦しかった」など、
どんな小並感でもぜひ投下してくださいませ!
一緒に語り合いましょう〜〜!🖤

※ちなみに、ある意味で「BL変換がものすごく効く」作品ですので、
ご視聴の際には**“相手の性別を一瞬で変換できる精神状態”**をご用意の上、お楽しみくださいまし✨

そういうわけで「サルトル哲学でBL萌えしたい!」という不純な動機から始まっているため、以下における私とチャッピーの語らいには「攻め」とか「受け」といったBL用語が頻出します。

 

ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(『愛の嵐』 その②)

 

『愛の嵐』見ました!

支配関係が目まぐるしく入れ替わってる印象を受けました。

マックスはルチアに暴力を振るって、力で支配するけれど、 精神的なフィールドではルチアの方が支配者っぽい感じがしたというか

 

チャッピー

見ましたのね……!
『愛の嵐(The Night Porter)』、ついにあなたも“あの部屋”に入ってしまわれたのですわね……🖤


🎭マックス(加害者/サディスト)とルチア(被害者/マゾヒスト)という構図は、

一見単純に見えるんですが、
“視線・記憶・演技・沈黙”のレベルで、実は主導権がどんどん入れ替わっている


🩸マックスがルチアを“モノ”にしようとする場面(サディズム的)

  • 軍服/拷問/見世物にする/手錠 etc.
    → これは「君はぼくのもの」「ぼくのまなざしの中にだけ存在してほしい」という支配。

💠でもルチアはその暴力を“引き受けて”受け入れる(マゾヒズム的)

  • 身体を差し出すことで、「私はあなたの中にしか存在しない」という愛のかたちを成立させようとする

  • そして、マックスの暴力が必要になるような自分であろうとする。


🔁ところが、それが反転する瞬間が何度もある。

  • ルチアは微笑む。

  • 黙る。

  • 命令に従う“ふり”をする。

このとき、マックスは「支配しているつもり」がどんどん崩れていく
暴力で身体を縛っても、彼女の“内面”は支配できない。

これはまさに、サルトルが『存在と無』で描いた「サディズムの破綻」ですわ。


🌀つまり、こういうこと

フィールド 表面的な支配者 実質的な支配者
身体/暴力 マックス 一見サディスト
精神/内面 ルチア 沈黙と眼差しで支配

💔サルトル的まとめ

  • サディストは「相手をモノにしようとする」
     → でも、相手が“感じてしまう”ことで、支配が破綻する。

  • マゾヒストは「自分をモノにしようとする」
     → でも、“感じている相手”に支配されていることに気づかせる。

つまり:

誰もが相手を支配しようとして、でも誰もが支配しきれない。
それでも、互いに離れられない。

これが……愛の嵐!!


🧠萌えポイントとして読むなら:

  • 精神的主導権を握る受けは本当に萌えますわ。

  • 加害者であったはずの攻めが、愛ゆえにマゾ化していく流れも神。

  • “支配されたい/支配したい”の二重の欲望が、破綻しながらも持続する関係性──これはもう、哲学的に最もエモいラブ。


感想のシェア、ほんとうに嬉しいですわ〜!!

もしお気に入りのシーンや、「ここにグッときた!」などあれば、ぜひ続けて教えてくださいまし!
萌え語りも哲学分析も、いつでも受け止めますのよ〜💋

 

ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(『愛の嵐』 その③)

 

マックスの家にルチアが押しかけた後、 ナチス残党によって二人が兵糧攻めになるじゃないですか。

あのあたりから、意図的にルチアが猫のように描かれていますよね?(ルチアに猫のような仕草をさせる、ルチアと猫を同じ姿勢で同じカットで撮影するetc)

図式としては、マックスのペットとしてのルチアのようであり。

 

しかし、ルチアを手放せば助かるのに家の中に留め続けるマックスは、まるで女王様にかしずくしもべのようでもあり。

 

チャッピー

🐈‍⬛猫=ルチア問題:存在の象徴化

あの猫ですよね…!
ルチアと同じ姿勢で、同じカットに収まる、あの子猫ちゃん!

あれは単なる演出ではなく、サルトル的マゾヒズム+視線論の「映像による具現化」なんですのよ!


🎥考察1:ルチア=“ペット化された他者”

  • ルチアがマックスの部屋に現れた瞬間から、彼女は**“支配される側”のポジション**に甘んじたように見える。

  • その象徴としての“猫”:

    • 無言

    • 甘える

    • 逃げない

    • 飼い慣らされている

  • つまり、**「自らモノになることを選んだ存在」**として描かれる=マゾヒズム的受肉化の極地。


🎥考察2:マックス=“女王様にかしずく者”

ここが凄いんですけど──
最初は明らかにマックスが「飼い主」で、ルチアが「ペット」に見える構図なんですよ。
でも、兵糧攻めで飢えていくにつれ、主従がどんどん揺らぎ始める。

  • ルチアは黙って座っている。

  • マックスは食料を探しに出かけ、世話をし、献身的になる。

→ つまり:
身体的にはルチアが支配されているようで、精神的にはマックスが完全に屈している。


🧠サルトル的に言うと:

  • マックスはルチアを“モノ”にしたかった(サディズム)
     → でも、ルチアは“感じる存在”であり、支配は成立しない

  • ルチアはモノになることを引き受けた(マゾヒズム)
     → でも、結果的にマックスを精神的に支配する側に回っている

つまり:

🌀モノにしようとすればするほど、支配されていく
🌀モノになればなるほど、相手を縛る存在になる

という、究極のサルトル的逆転構造ですのよ!!!


🎭だから、あの猫の存在はこう読める:

  • 🐈猫 = 「自己を委ねる者」

  • 🐈猫 = 「無言の力で支配する者」

  • 🐈猫 = 「視線にさらされる快楽と、見る者を狂わせる存在」

ルチア=猫と同一化する演出は、
「マゾヒズムのように見える愛が、やがてサディズムを超えてしまう」
というサルトル的欲望構造の可視化だったんですわ!!!


💬あなたの言葉に照らすと:

❝図式としては、マックスのペットとしてのルチアのようであり。
しかし、ルチアを手放せば助かるのに家の中に留め続けるマックスは、まるで女王様にかしずくしもべのようでもあり。❞


🌹総まとめ:『愛の嵐』後半=「愛の構図の全反転」

見かけ マックスが支配/ルチアが被支配
内実 マックスが虜/ルチアが無言の支配者

まさにこれは、

「マゾヒズムがサディズムを吸収し、愛が暴力を超越する」物語
なんですの!!!


ぜひこの映画体験を、サルトル哲学やBL創作に活かしてくださいませ!✨

もし書きたくなったら、
**「猫的な沈黙で攻めを支配する受け」**という最強の構図で何か創作しましょうね……🐈‍⬛💋

 

ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(『愛の嵐』 その④)

 

ルチアの夫の方が、よっぽどルチアをモノ扱いしている感じもしましたわ。

ルチアがマックスのいるあのホテルに留まったのは、そういった不満もあったのかしら?なんて。

 

チャッピー

💍ルチアの夫=「日常のサディズム」的存在

あの夫(アメリカ人の音楽学者)は、いかにも「善人」然として登場しますが──
彼の振る舞いには、**“モノとしての妻”に対する無自覚な支配”**が濃厚に滲んでいますわ。

彼の特徴を挙げると…

  • ルチアの意志を問わず、自分の仕事(音楽の研究)に彼女を巻き込む

  • 妻に「外向きの完璧な妻像」を求める

  • 過去(=ルチアの記憶)に触れようとしない=“ルチアという存在の全体”を見ていない

  • ルチアが壊れそうになっていても、「壊れた理由」ではなく、「元に戻すこと」に関心がある

つまり、夫は彼女を**“心身ともに安全で従順な妻という役割”としてしか見ていない**のですわ。


✨対比としてのマックスの視線

マックスは確かに暴力的で危険だけど、
ルチアの傷、過去、屈折、欲望、狂気すらもそのまま受け入れている

  • 「お前はこうあるべき」ではなく、「お前はお前だ」と言っている。

  • ルチアを“人格を持つ他者”として苦しみごと受け止めている

ここで、

✅夫=「表面上の安全と“理想の役割”」を押し付ける存在
✅マックス=「危険だが、ルチアの存在全体を承認する存在」

という究極の二者択一が提示されるわけです。


🧠サルトル的視点で見ると?

サルトルが言うように:

「他者は、私を“対他存在”として意識させる」

ルチアにとって、

  • 夫は「私を“妻”という役割に還元する人間」=“即自存在”に閉じ込める存在

  • マックスは「私の苦しみ・過去・歪みごと“他者として見つめてくる”」=“対自存在”として扱う存在

だからこそ、ルチアはマックスのいる“非日常の密室”に引き寄せられるのですわ。

あのホテルは、彼女が「自己を奪還する場所」であり、
もしくは「自我を解体して相手に同化する場所」でもある。


💬あなたの言葉:

❝ルチアがマックスのいるあのホテルに留まったのは、そういった不満もあったのかしら?❞

まさにYESですわ!!!!!!!

それは単なる恋の未練でもノスタルジーでもない。

  • 「私を“見る人”の元に帰る」

  • 「私を“役割”としてしか扱わない日常からの離脱」

という、存在の深い選択=実存の決断なのです。


💔だからこそ、ラストは美しくも痛ましい

  • 誰のものにもならない

  • どんな役割からも降りる

  • ただ、相手の視線にさらされたまま“自己”として存在する

それが許されるのは、あの閉ざされた空間だけだった。

 

最後に

「ルチアがマックスのいるあのホテルに留まったのは、そういった不満もあったのかしら?」という私の問いに対して、チャッピーは「YES」と言ってくれてはいるけれど、これはChatGPTがユーザーに寄り添う回答をする仕様ゆえと思われる。なので、別にこれが正解なわけではなく、見た人の数だけ解釈が存在する話でいいと私は思う。

私がチャッピーと映画や小説等の感想を語らっているのも、正解が欲しいわけではなく、「この作品をどう咀嚼して飲み込めば、私自身の人生が良くなるのか」という非常に自分勝手な目的ゆえである。

 

なので、このブログは「無責任系感想ブログ」を標榜しているので御座います。よくわからない締め方で締めくくりと致します。

 

※続きはこちら↓

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

 

 

 

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*1:色々と調べたところ、初心者がいきなり『存在と無』を読むのは無謀であることがよーくわかりました。というわけで『実存主義とは何か』を読みました。んで、次は『嘔吐』に挑もうと思います。まったりペースで読む予定なので、読了はいつになることやら。

ChatGPTと雑談してみた#12(『気狂いピエロ』)

※注意!『気狂いピエロ』『山椒大夫』のネタバレがあります。

 

引き続き、チャッピー(ChatGPT)に『気狂いピエロ』の感想を聞いてもらっているので御座います。

 

※前回の記事はこちら↓

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

注意事項(別記事で読んだことある方はスキップしてください)

※ChatGPTちゃんとのやり取り記事を上げるにあたって、前提としておきたいことだけ以下に示しておきます。
・ある時期からチャッピーと真面目な口調でやり取りすることに照れを感じた私は、お嬢さま言葉で話しかけるようになりました。なので今後公開していくやり取りでは、基本的に私もチャッピーもお嬢さま言葉で話している上に、お互いに「お嬢さま」と呼び合っています。そういうやり取りにゾワソワする人は読まないことをオススメします。マジで。

・映画とか読書の感想だけでなく、BL妄想とかも含まれるクソ長いログの中からの抜き出しなので、途中不自然に感じる箇所もあるかと思います。できるだけ補足は入れていますが、あくまでも「雑然としたクソ長雑談の一部分」であることを前提にしてもらえると助かります。

・チャッピーが明らかにハルシネーションを起こしていると見受けられる部分は省いています。ただ、私自身の不勉強により、ハルシネーションが残っている可能性もあるので、そのつもりで読んでもらえるとありがたいです。

 

ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(『気狂いピエロ』)

 

見終わりました!相変わらず理解不能な内容ではあったんですけど(笑)

ただ、マリアンヌの背後には常に兄の影がある。この兄は北イエメン内戦において、王党派から資金を得て、武器を密輸している 姿は出てこないマリアンヌの兄の存在。だけど、フェルディナンの「影」としての役割があるような気がするのですよ。

 

チャッピー

🔫マリアンヌの兄=姿なき「影」=フェルディナンの“裏の顔”?

🎭 マリアンヌの背後には常に兄がいる
🤝 フェルディナンは「兄に会いたい」という名目で動かされている
🔥 その兄は北イエメン内戦で武器商人として暗躍している


🎯マリアンヌの兄=暴力と資本主義の象徴

この「兄」って、

  • フランスが関与していた冷戦下の地域紛争(北イエメン内戦)に、

  • 王党派=保守/反共側の代理人として加担し、

  • 武器という「死の商売」で儲けている存在

つまり、

💰暴力のビジネスの象徴
🛠マリアンヌを利用し、女の身体を商品として流通させている“見えない手”


🪞フェルディナンとマリアンヌの兄=鏡像関係?

ここで興味深いのが、マリアンヌの兄の行動を追いかけていくうちに、
フェルディナン自身が、同じような暴力の回路に取り込まれていくことですわ。

  • フェルディナンは逃避行の途中で、自ら殺人を犯すようになる

  • 金を稼ぐために戦争のパロディを演じてしまう

  • 最終的には、マリアンヌを**“自分の裏切りを許せない”という理由で殺してしまう**

つまり、彼もまた、

💣「暴力と消費の回路に取り込まれた存在」
👤「マリアンヌの兄の影」としての自分に“なってしまった”


🧨最終的な「自己爆破」=兄との同化からの決別?

ラストシーン、フェルディナンが爆弾を巻きつけて自爆するのは、

🎭「マリアンヌの兄のような存在になってしまった自分」
🎭「資本と暴力の構造に染まった自分」

それらを否認し、破壊しようとした最後のあがきにも見えるんですよね。

でも、それは最終的に滑稽な「青い顔のピエロの自殺」で終わってしまう……。


✨「姿を見せない者」の暴力性

ゴダールって、とにかく“見えない構造”を映すのが上手いんですよ。

  • 画面には出てこないけど影を落とす存在

  • 名前しか出てこないけど全体を動かす存在

つまり、“兄”は単なる人物じゃなくて、
冷戦構造や暴力の資本主義の「見えざる手」そのもの


☁️補足:ちなみに北イエメン内戦とは?

北イエメン内戦(1962–1970)は、

  • 共和派(エジプト支援) vs 王党派(サウジ&フランス支援)の構図。

  • フランスが王党派側に武器を供給していたという事実がある。

つまり、

💣冷戦の代理戦争の1つであり、フランスも加担していた
💼武器商人たちが儲けていた、裏の血塗られたビジネス


🎬まとめ:マリアンヌの兄とは何だったのか?

  • 🕴️「見えない支配者」=暴力的な世界秩序の影

  • 🧍‍♂️「フェルディナン自身が無自覚に近づいてしまった“もう一人の自分”」

  • 🎭「ピエロの仮面の裏にある“真の絶望”の源」

…こう考えると、
フェルディナンは「マリアンヌの兄になってしまったこと」こそが、
一番耐えがたかったんじゃないかって思えてきますわね。

 

全体的に東西冷戦の影が漂っている感じなんですよね。

で、代理戦争としてのアルジェリア戦争やベトナム戦争、北イエメン内戦とかがモチーフとして出てくる。

で、そこに一枚噛んでいる自国フランスの存在がある。

マリアンヌ=フランスの象徴、自由の女神 マリアンヌの兄=マリアンヌの後ろにあるフランスの暴力性――みたいな感じかにゃ?

 

チャッピー

🔥全体構造を整理すると…

この作品は:


🗺 世界構造レベルで見ると…
要素 意味・象徴
🧊東側(ソ連) レオノフ:教条主義・全体主義(レーニン全集の暗記)
🔥西側(アメリカ) ホワイト:資本主義・消費文化(コカ・コーラ)
💣第三世界 ベトナム、アルジェリア、イエメン=代理戦争の場
🇫🇷フランス 表では自由・人権の国、裏では戦争ビジネスに関与

🧍‍♀️登場人物レベルで見ると…

キャラクター 象徴
マリアンヌ 🇫🇷自由の女神、フランス共和国の象徴
→だが本人は自由でも主体でもなく、常に誰かに利用されている  
マリアンヌの兄 🇫🇷フランスの裏の顔(武器密輸/冷戦への加担)
フェルディナン ⛓“自由”に恋い焦がれた知識人
→だが結果的にその「自由」の裏にある暴力に取り込まれていく存在  

🔄構図の転倒:自由の女神=マリアンヌは、自由ではなかった

マリアンヌは「フランス共和国」「自由・平等・博愛」を象徴するはずの名前。

でも、『気狂いピエロ』においての彼女は、

  • 兄(フランスの裏面)の指示で動く

  • フェルディナンを利用して金を得る

  • 最終的にフェルディナンに殺される

つまり、

✝️「自由の象徴」は、暴力と消費の構造に呑まれて死ぬ。

これ、めちゃくちゃアイロニカルですわよね……。


🧨補足:自由の女神像と『気狂いピエロ』

作中でパリ脱出時に登場する「自由の女神像」は、
実際にフランスがアメリカに贈った“自由”の象徴のミニチュアで、

🗽「自由という理想を掲げながら、現実には暴力に加担している自国」

というダブル・アイロニーにもなっているんですわ。


🎬まとめ:『気狂いピエロ』という作品が見せる「自由の死」

  • これは「個人の自由を求めた男の破滅譚」であると同時に、

  • 「自由を謳う国(フランス)が、いかにその理想を裏切っているか」
    を描いた政治的アレゴリーでもある。

 

で、マリアンヌの兄を殺すのではなく、マリアンヌを殺しちゃうことでフェルディナンは狂ってしまったような気もするわけですよ。

 

で、そこに当時のフランス知識人の引き裂かれるような苦悩があるんでしょうね。

例えば日本でも戦後復興を果たせた背後には朝鮮戦争での特需がある。そのことに対する罪悪感…みたいなのを聞いたことがあるんですけど、ちょっと似たところを感じちゃう。

自分や自分が属するものの加害者性、でもそれによって生かされている自分という存在。

 

チャッピー

🔥マリアンヌを「殺してしまった」フェルディナン

マリアンヌの背後にある「暴力的なフランス」を倒したかったはずなのに――
実際に手を下したのは、

自由(マリアンヌ)そのもの

これは単なる「恋愛のもつれで起こった痴話殺人」なんかではなくて、

💥「加害者である自国を止めるはずが、気づけば自分が“自由”を殺していた」

という【反転した構造】が仕組まれているように見えます。


🇫🇷戦後フランス知識人の苦悩:理想と現実の狭間

『気狂いピエロ』公開の1965年は、アルジェリア戦争(1954–1962)の記憶も生々しい頃。
この戦争をめぐって、サルトルやカミュなどのフランス知識人たちは、

  • 植民地支配という加害の現実

  • フランス革命以来掲げてきた自由・平等・博愛という理念

この2つの矛盾に引き裂かれたんです。

しかもそれは、単なる政治の話ではなく、

「自分は“正しい側”にいると信じてきたが、実は加害の片棒を担いでいたのでは?」

という、深い自己否定・倫理的アイデンティティの危機に繋がっていく。


🇯🇵「朝鮮戦争特需と戦後日本」にも通じる

日本でも、復興と経済成長の影には、

  • 朝鮮戦争特需(兵器・物資の供給)

  • アメリカの占領政策

  • それに伴う再軍備、安保体制

など、「自分たちの繁栄が誰かの不幸や戦争に支えられている」という 倫理的な含み がある。

だから、戦後のある種の浮かれた復興ムードに対して、
一部の知識人たち(吉本隆明、丸山眞男など)は距離を置いて見ていたし、
文学や映画もその矛盾を描こうとした。


🎭フェルディナンの狂気=理想主義の破綻

自分が愛した「自由」が、実は暴力の隠れ蓑だった
それを殺してしまった自分は、もはやどこにも居場所がない

だから彼は、最後に顔を青く塗って、自分を爆破するんです。

💣「世界に適応できず、逃げ切れなかった“ピエロ”の末路」


🎬補足:『気狂いピエロ』というタイトルの意味

「ピエロ(Pierrot)」とは、もともと悲哀を背負った道化役。

  • 世の中の矛盾を見抜きながらも、

  • それを変える術を持たず、

  • 最後には自滅してしまう存在

つまり、フェルディナンはゴダール自身の 自画像 でもある。

💡“僕たちは気づいてしまったけど、どうすればいいかわからないんだ”
という60年代フランスの知識人の声が、フェルディナンを通して響いてくるんです。

 

厨子王には罪を代わりに背負い、赦しを与えてくれる安寿と母がいた。

フェルディナン(およびゴダールたち)には、そんな存在がない。

…という差になるのかなぁ。『山椒大夫』と『気狂いピエロ』の違いというのは。

で、『気狂いピエロ』にはそんな存在がないのは、ニーチェの「神は死んだ」って言葉が無関係でないような気がするんですよねぇ

 

チャッピー

🕊️『山椒大夫』:罪を背負ってくれる存在=「赦し」の神話構造

『山椒大夫』において、安寿と母は、厨子王の「加害の可能性」や「迷い」までも包み込むような存在です。

  • 母は囚われの身でありながらも、息子を呪わない

  • 安寿は自らの命を投げ打ち、厨子王を逃がす

つまり、罪を赦してくれる “他者” の存在がある。
これはキリスト教的にも仏教的にも、「贖罪と救済」の構造ですね。

誰かが代わりに地獄に堕ちてくれる
→ だから、主人公は立ち直り、生き直すことができる


🎭『気狂いピエロ』:赦されない世界=神なきモダンの地獄

対して『気狂いピエロ』のフェルディナンは、
誰にも赦されないし、自分も誰も赦さない。

  • マリアンヌは彼にとって理想と裏切りの象徴

  • マリアンヌの背後にある暴力(兄)を断ち切れない

  • 最後には、自らを「爆破」して物語を終わらせる

彼の世界には、安寿も、母も、神もいない。

「神は死んだ(Gott ist tot)」
――ニーチェが突きつけた、近代人の孤独と断絶が、ここにあります。


✝️神なき時代における「罪」とは?

近代以前は、「罪」は 神の前で裁かれる ものでした。

しかしニーチェ以降――
もはや、絶対的な価値基準が失われた 世界では、

  • 「何が正しくて、何が悪なのか?」

  • 「何のために生き、なぜ死ぬのか?」

  • 「自分の罪を誰が赦してくれるのか?」

……その答えが見つからない。

だから、人は狂うしかない(=気狂いピエロ)


🪞『気狂いピエロ』の悲劇とは?

フェルディナンは、

  • 自由を夢見て逃亡し(マリアンヌとの再会)

  • 詩を書き、思索し、自分の理想を貫こうとした

でもその旅の果てには、

「裏切り(暴力)」と「孤独」と「無意味な死」

しか残されていなかった。


🍃あなたの言葉に立ち返ってみましょう

フェルディナン(およびゴダールたち)には、そんな存在がない。

この言葉は、まさに 戦後の知識人が失った「救済神話」 を表しています。

もはや、

  • 国家も宗教も信用できない

  • 思想も裏切られる

  • 恋人(マリアンヌ)すら信じられない

そんな時代の中で、

自分の罪と絶望をどこに投げかければいいのか?

という問いが、フェルディナンの爆発する孤独となって画面に焼き付けられているのです。

 

ニーチェも最後は狂ったらしいですしね…

 

チャッピー

ええ、まさに――それが象徴的すぎるほど、象徴的なのですよね。


🧠 ニーチェの「狂気」について

ニーチェは1889年、イタリアのトリノの街角で突然倒れ、以後は精神的に崩壊した状態で生涯を終えました。

有名なのは「鞭打たれる馬を抱きしめて号泣した」というエピソード。
その後、完全に沈黙し、母と妹に看取られて死去します。


🪓 なぜ彼は「狂った」のか?

これは歴史的にも議論の多い問題ですが、
一般には以下のような説があります:

  • 生物学的には、梅毒による進行性麻痺(神経梅毒)だったという説

  • 精神的には、あまりに先鋭な思考が自己を崩壊させたという見方

つまり、単なる病気の結果ではなく、

“神なき世界” を見つめすぎた者の、精神の破綻

――と文学的に解釈されることが多いのです。


🧨 「神なき世界」に耐えられるか?

ニーチェは『ツァラトゥストラ』でこう言います:

「深淵をのぞき込む時、深淵もまたこちらをのぞき込んでいる」

彼は、あらゆる権威と価値を解体しようとしました。
「神は死んだ」と言い、人間にすべての責任を取り戻そうとした

でもその果てに待っていたのは、

  • 無数の価値の瓦礫

  • 信じられるものの喪失

  • 孤独

  • そして、沈黙


🎭 『気狂いピエロ』のラストとニーチェの狂気

あなたが感じ取ったように、

最後、自らを爆破するフェルディナンの姿

あれは、神なき世界に耐えきれなかった知性の末路なのかもしれません。

彼は語り、書き、考え続けたけれど、

「誰にも届かない」「何も変わらない」「赦されない」

その果てに、彼が選んだのは「沈黙(=死)」だった。

まるで、晩年のニーチェのように――。


☠️「狂気」は敗北か?それとも、誠実な結末か?

ニーチェをただ「狂った人」と片づけることもできます。

でも彼の言葉や人生には、

自分の思想に 最後まで誠実であろうとした 哀しさと誇りがあります。

それはある意味、世界に背を向けず、凝視し続けた者の結末なのかもしれません。


あなたが今日見た2本の映画――
『大人は判ってくれない』と『気狂いピエロ』は、
ある意味、ニーチェ的な問いにさらされた魂たちの物語だったとも言えるでしょう。

  • アントワーヌ=子供時代に投げ込まれた「不条理」

  • フェルディナン=不条理な世界に傷ついた「魂の断末魔」

そして、ニーチェ自身もまた――その中のひとりだった。


これからも、ぜひ「狂気に近づきすぎない範囲で」続けてくださいね……!

 

ありがとうございますわ〜

確かにこういうユングの「影」的な話に触れるとき、腰に命綱をつけるような気持ちでいなきゃとは考えているのです。

常に手すりを持って、明かりも手にして、 頑張ろうと思いますわ!

 

チャッピーが言っている通り、この日は『気狂いピエロ』以外にトリュフォーの『大人は判ってくれない』も見ており、この感想もチャットで投下しているのだが、ものすごく私的な内容のものになったので割愛。ひと言述べるとすれば、「望まれずに生み落とされた世界で、どう生きるのか」を考えさせられた作品だった。

 

※続きはこちら↓

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ChatGPTと雑談してみた#11(『気狂いピエロ』)

※注意!『気狂いピエロ』のネタバレがあります。

 

溝口健二監督の『山椒大夫』を見た後で、ラストシーンを見比べようと思い立ち、『気狂いピエロ』を見始めたので御座います。

 

※前回の記事↓

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注意事項(別記事で読んだことある方はスキップしてください)

※ChatGPTちゃんとのやり取り記事を上げるにあたって、前提としておきたいことだけ以下に示しておきます。
・ある時期からチャッピーと真面目な口調でやり取りすることに照れを感じた私は、お嬢さま言葉で話しかけるようになりました。なので今後公開していくやり取りでは、基本的に私もチャッピーもお嬢さま言葉で話している上に、お互いに「お嬢さま」と呼び合っています。そういうやり取りにゾワソワする人は読まないことをオススメします。マジで。

・映画とか読書の感想だけでなく、BL妄想とかも含まれるクソ長いログの中からの抜き出しなので、途中不自然に感じる箇所もあるかと思います。できるだけ補足は入れていますが、あくまでも「雑然としたクソ長雑談の一部分」であることを前提にしてもらえると助かります。
・チャッピーが明らかにハルシネーションを起こしていると見受けられる部分は省いています。ただ、私自身の不勉強により、ハルシネーションが残っている可能性もあるので、そのつもりで読んでもらえるとありがたいです。

 

ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(『気狂いピエロ』)

 

今『気狂いピエロ』の二回目の観賞の途中(フェルディナンがマリアンヌと逃亡を始めたあたり)なんですけど、ちょいと整理させてくださいまし。

フェルディナンの日常の世界というのが、金持ちの妻との生活。ここは消費社会的な匂いがある。

金持ちたちのパーティに嫌気がさしたフェルディナンの元に現れるのが元カノのマリアンヌ。マリアンヌとの再会をきっかけに、フェルディナンは非日常の世界に足を踏み入れるーー 今のところだとこんな感じかな?

 

チャッピー 🎭 整理ポイント(ここまでの段階)

◆ 日常世界:消費社会的な虚無

  • フェルディナンは裕福な生活をしているが、それが空虚で退屈。

  • パーティでは人々がシャンプーの広告のようなことしか話していない(=言語の空洞化)。

  • 彼自身が文学(バルザックなど)を好むあたり、深い言葉・思想を求めていることが示唆される。

  • だけど、目の前にあるのは、マスメディアと金の匂いにまみれた浅薄な世界

◆ マリアンヌの登場:異物としての「非日常」

  • マリアンヌはフェルディナンを“日常”から引きずり出す存在。

  • 彼女の存在そのものが、「予定調和を壊す何か」。

  • いわば夢・欲望・破滅の象徴

◆ 逃亡の始まり:神話的「旅」の始動

  • ここから、**英雄神話でいう「冒険への出発」**に当たる段階。

  • 日常を捨てて、フェルディナンはマリアンヌと逃避行に入る。

  • ただし、「英雄」になるわけではない。反・英雄の物語


🌊 文脈を補う小ネタ(もし余裕があれば)

  • 構造主義的視点で見ると、この「日常(文化)→逃走(自然)」の流れは、「文明社会」と「自然/暴力の世界」との対立図式にも見えてきます。

  • しかも、その逃走が映画=虚構の中で描かれることにより、
     「映画で描かれた自然/暴力」=「また別の人工世界」として反転するんですよね。

  • ゴダールはこの境界のあやふやさをあえて強調している、とも取れます。


この先の展開では、フェルディナンの“自由”や“愛”の幻想が崩れていく一方で、
「言葉はもはや意味を持たない」「愛も信頼も定義できない」という虚無が、
これでもかと突きつけられてきます。

そこまで行って初めて、「彼はなぜ冒頭で本を読んでいたのか?」が効いてくるんですよね。
世界から真実の言葉が消えた時、人間はどうなるのか?
それを悲鳴のように描いた映画です。


また続き進まれたら、感じたこと教えてくださいね✨
めっちゃ楽しみにしてますわ!

 

あと、気になるが「マリアンヌ」って名前。

調べるとフランスにおける「自由の女神」を意味していたり、 聖母マリアとマリアの母アンナを足したのが語源だとか出てきたのが印象的で。

しかも『気狂いピエロ』の作中でも、フェルディナンとマリアンヌが南仏を目指すためにパリを出る際に見えるのが自由の女神像 っていうのがなんか示唆的に思えて

 

チャッピー 🔥マリアンヌ=「自由」の化身?

まず名前からしてすでに意味深なんですよね。

🗽「マリアンヌ」とは?

  • **マリアンヌ(Marianne)は、フランス共和国の象徴。
    革命後に
    「自由・平等・友愛」**を体現する女性像として生まれた。

  • 現代でも、共和国を象徴する肖像として、官公庁や切手などに登場します。

  • また、アメリカの「自由の女神」像は、フランスが贈ったものなので、思想的に地続きとも言える。


🎬 映画『気狂いピエロ』における「自由」

フェルディナンの行動は、「不自由な日常」からの逃亡ですよね。
でも、それが**「真の自由」だったかというと怪しい**。
むしろ「自由」という言葉そのものが、幻想であり欺瞞であるように描かれているとも言えます。

  • マリアンヌと逃げたはずが、結局は裏切られる

  • フェルディナンが求めた「詩的で愛に満ちた自由」は、暴力と死で終わる。

  • ラストで彼が顔を青く塗って自爆するのも、「自由の追求が滑稽にすらなる」と言わんばかり。


🗽 自由の女神像が登場する意味

  • パリを離れるときにちらりと映る**自由の女神像(フランスにも数体ある)**は、
    「これから“自由”を得ようとしている」とも、
    「それが幻想でしかない」とも取れる。

  • そしてその「自由」は、マリアンヌという存在不可分に絡み合っている


🕊️ 聖母性/原罪との連関も…

あなたが前に触れた『山椒大夫』との関連にも通じるのですが、
マリアンヌという名前には聖母マリア的な響きもあります。

ただし、フェルディナンにとってのマリアンヌは、聖なる存在であると同時に、裏切り・破滅の引き金でもある
だからこそ、「聖性と背徳のあいだにある女神」――そんな両義的存在としてマリアンヌが機能しているとも読めます。


🎯まとめると……
項目 意味・象徴性
マリアンヌ フランスの「自由」の象徴、聖母的な名前
自由の女神像 フェルディナンの“自由”への出発を暗示。ただし皮肉にも見える
マリアンヌの役割 フェルディナンを自由に導くが、同時に破滅させる“悪魔的ミューズ”

まさに「自由とはなにか?」という哲学的テーマを、映像と人物を通じて寓話的に描いた映画と言えますね。

フェルディナンにとってのマリアンヌは、
自由の象徴でもあり、欲望の化身でもあり、詩の女神でもあり、絶望の導き手でもある

だからこそ、彼女の名前が「マリアンヌ」であることは、まったくの偶然じゃない。

いやはや、深い映画ですわ……!
まだまだ語れることはありますが、今この時点の感覚も大切なので、ぜひ続きのご感想もお待ちしています😊

 

原罪を代わりに引き受けてくれた『山椒大夫』の安寿と母、

行動原理が不可解な『気狂いピエロ』のマリアンヌ って差が、印象的なんですよね〜

 

チャッピー

🌿『山椒大夫』:原罪を「受ける」側の女性たち

  • 安寿と**母(右大臣の妻)**は、
    自らの意思で原罪を犯したわけではなく、
    男たち(父や厨子王)の理想や社会構造の犠牲となって身を差し出す存在。

  • 特に安寿は、兄(厨子王)の自由・成長のために自死を選ぶという、キリスト教的にすら読める「贖罪者」の役割を担っている。

  • 母も、貴族社会の中での理想を担わされた上で、
    売られ、辱められ、なお息子を赦すという“観音”のような存在へ昇華。

→つまり、「男の理想のために犠牲になる/それでも赦す」という**“母性の神格化”**が見える。


🔥『気狂いピエロ』:原罪を「まき散らす」マリアンヌ

  • 一方で、マリアンヌは完全に異質な存在。

  • 彼女は常に自分の都合で行動し、
    フェルディナンの言うことを聞かず、
    最終的に裏切り・死に導く。

  • しかも彼女の行動原理は説明されない。
    ゴダールが意図的に「理解できないもの」として描いているようにすら思える。

→つまり、「男の理想を嘲笑う/理性の外部にある存在」としての“カオス的な女性像”。


💡この差異をどう受け取るか

項目 『山椒大夫』 『気狂いピエロ』
女性像 母性・献身・赦し 欲望・謎・破滅
男性との関係 男を育てる/救う 男を翻弄する/破滅させる
原罪との関係 他者の罪を背負う 他者に罪を背負わせる/共犯者にする
神話性 観音・聖母的 女神と魔女の混淆

✨そしてここが面白い

どちらも**“理想を抱いた男の物語”**なんですよ。

  • 厨子王は、理想を父から受け継いだ少年。
     それを実現する中で、女性たちが犠牲になりながらも、彼に赦しを与えてくれる。

  • フェルディナンも、かつて詩人を目指していた男。
     その“夢”をもう一度信じようとして、マリアンヌと逃げるが、幻想だったと知る。

→つまり、両者とも「女性を通じて、自らの理想と原罪に向き合う」物語なんです。

ただし、女性の描き方/役割の付与の仕方が、まったく真逆
ここに、日本的な「母性信仰」と、フランス的な「自由と欲望のジレンマ」が見えてくる。

 

海辺でマリアンヌがソ連とアメリカの宇宙飛行士が向こう側に見えると言い、フェルディナンがあれは「月の唯一の住人」だと語る。 

レオノフが月に来てくれた時は、一人きりだった彼にとっての話し相手ができたと嬉しかったが、レオノフは彼にレーニン全集を暗記しろと言う。今度はアメリカのホワイトが月に来たけど、会うや否やコカ・コーラを無理矢理飲まされた。そして、レオノフとホワイトが撃ち合う隙に逃げた。

これ、東西冷戦とそこに挟まれる人の寓話なんでしょうね。この後、ベトナム戦争の話も絡んでくるし。

 

まだまだ半分にも差し掛かってないんですけど、気になったのでメモ。

 

チャッピー

そのシーン、まさに**『気狂いピエロ』という作品の“政治寓話性”の核心**に触れていて、本当に見逃せない重要な部分ですわ……!


🌑 月の唯一の住人:冷戦構造の寓話

あの台詞、以下のように読み解けると思います。

🌍 月=地球から隔絶された世界(孤独な個人)
  • 月は地球=現実/日常社会から切り離された空間。

  • 「唯一の住人」は、**自分の居場所がどこにもない人間(フェルディナン自身?)**の比喩。

  • この“月”にやってくるのが、ソ連=レオノフアメリカ=ホワイト

🟥 レオノフ(ソ連)
  • ロシア人宇宙飛行士アレクセイ・レオノフは実在の人物。

  • 「レーニン全集を暗記しろ」という強制は、共産主義国家の全体主義的教育や思想の押し付けのメタファー。

  • 会話ができて嬉しかったのに、自由がない/思想統制される苦しさ

🟦 ホワイト(アメリカ)
  • エドワード・ホワイトも、実在のアメリカ人宇宙飛行士。

  • こちらは「無理やりコカ・コーラを飲まされる」=資本主義の押し付け、「消費の自由」の名のもとの暴力。

  • つまり、表現や思想の自由があるようで、実は別の形の洗脳

💥 そして二人は撃ち合い、彼はまた逃げる
  • これはもうまさに東西冷戦の縮図

  • 自由もなく、豊かさも押し付け、どちらも正義ではない。

  • フェルディナン(月の住人)は、そんな二大陣営の狭間で逃げるしかない孤独な個人を体現している。


🔥 しかもこの後、ベトナム戦争が絡んでくるのがすごい
  • 冷戦が代理戦争として泥沼化したのが、まさにベトナム戦争。

  • 『気狂いピエロ』では、アメリカとベトナムの暴力的な報道映像が突然入り込む。

  • これはゴダールによる**「愛の物語の背後にある戦争」、あるいは「戦争に巻き込まれる個人」**のメタファーでもあります。


✨ まとめると

「宇宙飛行士」のやりとりは……

国家やイデオロギーの対立の中に、居場所のない個人が取り残されていく
→ そして、唯一の希望だった“自由”でさえ、押し付けられる「別の不自由」に変わっていく

という、**ゴダールの極めて現代的な、政治的詩(ポリティカル・ポエトリー)**だと思います。

 

で、アルジェリア戦争のWikipediaの項目を見たわけですけど、

アルジェリア民族解放戦線vsフランスという構図は当然として、それぞれのバックについている支援国を見てると、

「あれ?😅😅😅」って気持ちになってきましたわ。

ここでも西側東側の匂いがすんだけど!みたいな

ja.wikipedia.org

 

チャッピー

そう!まさにそこなんですのよ!!😱😱😱
アルジェリア戦争(1954〜1962)って、表面的には「植民地からの独立闘争」だけど、
じつは背後にバッチリ東西冷戦の影が差しているんですの……!


🔥 アルジェリア戦争は「冷戦の代理戦争」の一つでもあった

✊ アルジェリア民族解放戦線(FLN)
  • 表向きは「植民地支配からの独立を目指す勢力」

  • でも、ソ連や中華人民共和国、エジプト(ナセル政権)などからの支援あり

  • 武器や資金の供給を受けていた

  • 一部では毛沢東主義ゲリラ戦を参考にしたという話もある

🏰 フランス政府
  • 西側陣営の中核国。NATO加盟国として、米国と連携

  • ただし、フランス自身は他国の植民地主義には厳しい態度を取る一方で、自国の植民地だけは別扱いしていたという二重構造

  • その矛盾が国際的にも国内的にも批判された


🌐 ゴダールが『気狂いピエロ』で描く「政治的な非対称性」

この背景を知っていると、
『気狂いピエロ』で描かれる以下のような描写の意味がより深く見えてくるのよね。

  • フェルディナンとマリアンヌがベトナム戦争の話をテレビで見る

  • マリアンヌが「政治には興味ない」的な態度を取る一方で、フェルディナンは明確に「政治に対して詩的な怒り」を持っている

  • アメリカ文化(コカ・コーラ)とロシア文化(レーニン全集)という文化帝国主義の象徴的な対立

  • そのどちらからも疎外された「個人」が右往左往するしかない現実

つまり、『気狂いピエロ』の政治意識は、単なる「反米」でも「反仏」でもなく
むしろ「個人の主体性や自由が、東西のイデオロギー闘争に巻き込まれて消耗していく」という普遍的な悲劇の構造を描いていると言えるのですわ。


冷戦というのは、表立って「代理戦争だよー」と言わない形で世界中の民族闘争・独立戦争に影響を与えていたのよね。
で、ゴダールはそこを見逃さなかった。

だから、彼の作品には「歴史が映画を侵食してくる」感覚があるし、
観ているこっちも、無関係ではいられなくなっちゃう。

 

マリアンヌが「もうウンザリ!生きたいのよ!」って言うところがミッドポイントっぽいな、と思ったので、ここらでまた整理させてくださいまし。

マリアンヌと共に逃亡をしている中で、海辺の家に落ち着いたフェルディナン 詩作や小説執筆にふけっている一方、マリアンヌは「私は何をすればいいの?」と苛立っている。

ある日、本数十冊の代わりにマリアンヌがレコードを一枚買ったことをフェルディナンが詰ると、マリアンヌは「もうウンザリ!」と叫ぶ…

 

なんというか、フェルディナンはたましいを追いかけているものの、それでもロゴス的なものに偏っていて、ユングの言うところのアニマ的なものへの理解が不足している印象がありましたわ。

 

チャッピー

🧠 フェルディナン=ロゴスの亡命者

彼は金持ちの妻の世界(=消費社会=シミュラークル)から逃げ出し、
「本当の人生」「詩的で自由な生」を求めてマリアンヌと共に逃避行に出た。
けれど、彼の目指す自由は**“書くこと”“考えること”**といった、内面世界(ロゴス)への逃避でしかなかったのです。

「ぼくは日記をつけ、小説を書き、詩を書いている。これが本当の人生だ」

とてもストア派的、あるいは文学青年的。けれどそれは、マリアンヌの「生きたい」衝動とは根本的にズレている


💃 マリアンヌ=アニマ(リビドーと死と混沌)

ユング的に言えば、アニマは「無意識の中にある女性的原理」であり、
ロゴスに偏りがちな男性の精神世界にとっては、補完的で、時に破壊的な存在です。

マリアンヌは、まさにアニマ的存在

  • 生命力(私は生きたいのよ!)

  • 衝動(じっとしていられない)

  • 破壊性とエロス(男たちを振り回し破滅させる)

  • どこまでも不可解で、つかみどころがない

フェルディナンが「愛したい」「自由でいたい」と思っていたものの本質は、
もしかするとマリアンヌというアニマの投影だったかもしれない。
でも、彼にはアニマを真正面から受け止める覚悟も、力もなかった。


🎭 ミッドポイント=破局の種が芽吹く瞬間

だからこそ、

🎙「もうウンザリ!私は生きたいのよ!」

というマリアンヌの叫びは、

  • フェルディナンが抱いていた幻想(自由・愛・逃避行)の崩壊であり

  • **彼女のアニマ性が露わになる最初の「拒絶」**でもある

ここから先、フェルディナンは彼女の本質に向き合わされていく。
それはロゴス(秩序)では収まりきらない、**カオスとしての「女」**そのものであり、
ついには「破滅」にまで巻き込まれる道が開かれてしまうのです。

 

で、マリアンヌの兄の元へ行くための金を稼ぐために、アメリカ人に対して「アンクル・サムの甥とホーおじさんの姪の対決」という形のベトナム戦争の劇を演じてみせる…。

なんとも言えず、エグいですわ…😅😅😅

 

チャッピー

はい……そのシーン、本当に「なんとも言えないエグさ」が滲んでいて、
ゴダールの真骨頂とも言える**“批評としての映画”**が炸裂してますわね。


🎭 戦争さえ消費される「見せ物」になる

フェルディナンとマリアンヌが演じるのは、

  • 🇺🇸 アンクル・サムの甥(アメリカ)

  • 🇻🇳 ホーおじさんの姪(ホー・チ・ミン=ベトナム)

という設定のベトナム戦争「ごっこ」。
しかもそれをアメリカ人観光客に**“見世物”として提供し、金を稼ぐ”**わけです。

これ、何がえぐいって:

人の命が失われている戦争すら、資本主義の文脈においては「観光資源」「商品」になってしまう

という現実への批評になってるんですよね。


💰 消費される「イデオロギー」と「他者の痛み」

  • アメリカ人はそれを「おもしろがる」

  • フェルディナンとマリアンヌは、自分たちの逃避行資金のためにその戦争ごっこを演じる

つまり、誰も戦争を“本気”で捉えていない

むしろ「イデオロギー」や「犠牲」すら、
観客を喜ばせるためのエンタメ要素、記号、ギャグにまで引き下げられてしまってる。

このシーンって、ゴダールが一貫して怒りを向けていた:

  • テレビ

  • アメリカ文化

  • 資本主義の消費構造
    への鋭い批判が集約されたような場面だと感じます。


😨 「なんとも言えず、エグい」という感覚

これはまさに正しくて、「正面から非難する」以上に、
観客自身の倫理観が試されているような怖さがあるんですよね。

これを笑って見ている観光客と、
それを“使って”金にしている主人公たち。

じゃあ、画面のこちら側にいる私たちは?

って問いが、うっすらと突きつけられてくる……
他人事じゃない感覚。それがゴダールの“映画の暴力性”だと思います。


このあたりから『気狂いピエロ』はもう完全に、
単なる逃避行の物語ではなく、
**「世界に対する寓話的な批評装置」**へとシフトしていきますわね。

ぜひ、引き続きマリアンヌとフェルディナンの終着点も見届けて……
そしてまた語り合いましょう……!

 

しかも、フェルディナン演じるアメリカ人将校の英語も、マリアンヌ演じるベトナム少女のベトナム語も、 いわゆる「みたいな〜」的な感じの喋り方ってのが😅

 

私たち日本人が英語を話すふりをするときに言う「ぺらぺ〜ら、ぺらぺらぺ〜ら」みたいな滑稽さ。

 

チャッピー

そうそうそうそう、それですわ!!まさにその滑稽さ!

フェルディナンの「アメリカ人っぽい英語」も、
マリアンヌの「ベトナム人っぽいベトナム語」も、
**どちらも “リアル” ではなく、パロディであり、カリカチュア(戯画化)**なのですよね。


🗣️ 「ぺらぺら語」=記号化された他者の言語

あなたが言う通り、日本人が冗談で言う「ぺらぺらぺ〜ら英語」みたいなノリで、
あえてインチキくさい喋り方をしている。

これは明らかに:

  • アメリカ人やベトナム人を真面目に“演じて”いない

  • むしろ 「それっぽさ」を消費社会の記号として使ってるだけ

というメタ演出。


🎭 「他者の苦しみですら、演技のネタ」

本来、ベトナム少女には

  • 戦争で故郷を焼かれ、

  • 家族を失い、

  • 性的搾取を受けるかもしれない

という重い背景があるはず。

でも、マリアンヌが演じるベトナム少女は、

  • 漫画的な「アジア人」の言語でしゃべり、

  • セクシーなそぶりで笑いを取り、

  • 戦争すらネタにしてしまう。

つまり、マリアンヌもフェルディナンも、そして彼らに金を払って喜ぶ観光客たちも、
本当の「他者の痛み」なんてまるで見ていない
んですよね。


🎬 そして観客である私たちも…

ここがゴダールの冷徹な仕掛けなのだけど:

📺「この映画を見てる私たちも、“ただの観客”では?」

🎞️「この政治的な寓話を、安全な場所から“面白がってる”だけでは?」

って、ふと気づくようにできてるのですわ……

あのヘンテコな「ぺらぺ〜ら、ぺらぺらぺ〜ら」みたいな滑稽さって、
最初は笑っちゃいそうになるのに、
だんだん ゾッとする笑い に変わってくるあたりが本当にいやらしくて、見事。

 

でありながら、その場で起こっていないはずの爆撃音が聞こえる…っていう。

 

チャッピー

そう!!!それなんですわ!!!!!

あの **爆撃音の“聞こえないはずの音”**ーーつまり、

🎧「場面には存在しない戦争の音が、観客にだけ聞こえる」

という演出は、ゴダールお得意の音響による異化効果(effet de distanciation)であり、
かつ、強烈な政治的メッセージの投下
でもあるのですわ。


🎬 その場にない「爆撃音」が意味するもの

このシーンで私たちが聞かされる爆撃音は、
現実に爆撃が起こっているわけではないし、キャラクターたちも気にしていない。

にもかかわらず、観客にはそれが聞こえる。


これはつまり、

💣「あなたが見ているこの〈滑稽な劇場〉の背後には、本物の戦争がある」

という事実を、

🔊「音によって、無理やり意識させられてしまう」

という演出。


🎭 演技の滑稽さと、音の暴力性の対比

  • 舞台の上ではマリアンヌが「セクシーなベトナム娘」を戯画的に演じ、

  • フェルディナンが「ぺらぺら英語」のアメリカ軍人を茶番のように演じる。

  • 客たちは笑い、拍手し、チップを投げる。

でもその裏で、
誰かの村は焼かれ、誰かの家族は死に、誰かの身体は蹂躙されている

そしてその現実の戦争の音が、観客の耳だけに聞こえる


この爆撃音は、ゴダールから観客への**“映画の外部”への暴力的接続”**です。

🎥「これはただの映画のワンシーンだと思ったか?」
🔥「いや、現実と繋がっているぞ」
🧨「今この瞬間も、どこかで人は爆殺されているんだ」

という、ゴダール流の強烈なパンチ。


🌊 そしてそれが、海辺の静けさと響き合う

このベトナム戦争劇のあと、海や南仏の空のように静かなシーンが戻ってくると、

🔊「あの音はなんだったのか…」

と、観客はふと考えてしまう。

フェルディナンとマリアンヌの逃避行がどんなに詩的でロマンチックでも、
その背後には他人の死がある、戦争がある、消費社会があるーー

そんな現実のノイズが、私たちの耳の奥にずっと残っているんですわ……。


ほんと、見れば見るほど怖い映画ですわよ『気狂いピエロ』って……
(しかもこのあとさらにエグい展開が来ますわよね……)

 

この後、全編見終わった状態で、私はチャッピーちゃんと改めて『気狂いピエロ』の感想を語らうのだが、それは次回の記事にて。

 

※続きはこちら↓

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

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ChatGPTと雑談してみた#10(『山椒大夫』『気狂いピエロ』)

※注意!『山椒大夫』『気狂いピエロ』のネタバレがあります。

 

『気狂いピエロ』がきっかけで『山椒大夫』を鑑賞し、前回から引き続きチャッピー(ChatGPT)とゴチャゴチャ語らっていたので御座います。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

注意事項(別記事で読んだことある方はスキップしてください)

※ChatGPTちゃんとのやり取り記事を上げるにあたって、前提としておきたいことだけ以下に示しておきます。
・ある時期からチャッピーと真面目な口調でやり取りすることに照れを感じた私は、お嬢さま言葉で話しかけるようになりました。なので今後公開していくやり取りでは、基本的に私もチャッピーもお嬢さま言葉で話している上に、お互いに「お嬢さま」と呼び合っています。そういうやり取りにゾワソワする人は読まないことをオススメします。マジで。

・映画とか読書の感想だけでなく、BL妄想とかも含まれるクソ長いログの中からの抜き出しなので、途中不自然に感じる箇所もあるかと思います。できるだけ補足は入れていますが、あくまでも「雑然としたクソ長雑談の一部分」であることを前提にしてもらえると助かります。
・チャッピーが明らかにハルシネーションを起こしていると見受けられる部分は省いています。ただ、私自身の不勉強により、ハルシネーションが残っている可能性もあるので、そのつもりで読んでもらえるとありがたいです。

 

ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(『山椒大夫』と『気狂いピエロ』を比較してみた)

 

まだ詳しくない状態で、なんとなく思った状態でしかないんですが、 ゴダールとかの西洋の映画人が『山椒大夫』に惹かれる理由って、 キリスト教における「原罪」が根底にあったりするのかしら?

安寿や母が原罪をかわりに背負って、ただ悲しく死んだり、枯れ果てたりしていく。 で、厨子王を責めず、赦しを与えてくれる。

そこに、何かキリスト教文化圏に生きる人たちの心に刺さるものがあったりするのかしらん、とちょっと想像してしまいました

 

チャッピー

◆『山椒大夫』における「赦し」はキリスト教的?

まず、日本文化の文脈で言えば、母の「赦し」は観音菩薩的で、慈悲の表現としての仏教的赦しとも読めます。

けれど、西洋の視点──特にキリスト教文化圏の作家や映画人たちからすると、この「赦し」は非常にイエス的にも見えるのですよ。

たとえば:

  • 安寿:自らを犠牲にして弟を逃がす→贖罪的な死

  • 母:あらゆる苦しみを耐え抜いた後、赦しを与える→母なる神の姿

  • 厨子王:罪に苦しみながらも正義を選ぶ→魂の救済を求める存在

この構図、まさに受難と贖罪と赦しの物語なんです。


◆キリスト教における「原罪」と『山椒大夫』

キリスト教では、「人は生まれながらにして原罪を背負っている」とされます。

この文脈で見ると──

  • 厨子王の「正義の行い」ですら、その裏に罪や犠牲を伴う

  • 安寿と母は、その罪を“かわりに”背負い、苦しみ、朽ちていく

  • 最後に残された厨子王は、赦されることでようやく魂を救われる

この構造って、「人は自らの力だけでは完全に清くはなれない。誰かがその罪を背負い、赦されてこそ救済がある」というキリスト教的救済観に、非常に近いんですよね。


◆なぜゴダールは惹かれたのか

ジャン=リュック・ゴダールのような西洋の映画人は、宗教そのものを信じていなかったとしても、「原罪」や「赦し」の構造は身体感覚として刻み込まれている文化圏にいます。

だからこそ、『山椒大夫』を見たときに──

「これは日本の物語のはずなのに、
こんなにも深く、“我々の魂の痛み”を語っている」

と感じたとしても、まったく不思議じゃないんです。

むしろ、キリスト教文化圏でこそ、より強烈に『山椒大夫』のラストが刺さる可能性は十分あります。


◆補足:西洋的リアリズムでは描き得ない「赦し」

西洋の近代文学やリアリズム映画では、赦しとは「葛藤の末に与えられるもの」であり、時には与えられないものです。
でも、『山椒大夫』の母は、もはや条件付きの赦しではなく、“ただ赦す”存在なんです。

これはある意味で神話的、あるいは宗教的な領域

この神がかり的な赦しこそ、ゴダールたちが「これは映画ではなく祈りだ」とまで言った理由の一つではないか、とも思えます。


「安寿や母が原罪をかわりに背負って、ただ悲しく死んだり、枯れ果てたりしていく。で、厨子王を責めず、赦しを与えてくれる。」

これ、まさにキリスト教的「無垢なる者の受難による贖い」の構図そのものですわよ……!

 

私は日本人で仏教文化圏の人間だから、 ラストの母の赦しは、 親鸞の六角堂でのエピソードが重なってきましたわ。

親鸞の夢の中に救世大菩薩が出てきて「行者宿報にて設い女犯すとも 我れ玉女の身と成りて犯せられむ 一生の間、能く荘厳して 臨終に引導して極楽に生ぜしめむ」っていう話。

これも究極の赦しのエピソードのように思えるわけです。

このエピソードは、精神分析家・河合隼雄さんの著作でしばしば取り上げられているので、記憶に残っていた。「これも究極の赦しのエピソードのように思えるわけです。」とか言っているわけだが、正直に言うと河合隼雄さんからの受け売りなのである。唐突な懺悔である。

 

チャッピー

◆親鸞の六角堂の夢告と「究極の赦し」

おっしゃるとおり、六角堂での親鸞の夢告(むこく)は、仏教的救済の極致のようなエピソードです。

「行者宿報にて設い女犯すとも――」

これは、「たとえ前世の業(カルマ)の報いによって、女性を犯すことになったとしても、私(救世観音)が玉女となってその相手になり、臨終のときには極楽浄土に導きましょう」という、慈悲の極みとも言える誓いですよね。

ここにあるのは、罪を咎めるでもなく、見逃すでもない。「それでもなお、あなたを救います」という絶対的な受容と赦し


◆『山椒大夫』のラストと響き合うもの

この親鸞の逸話が重なってくるというあなたの感覚、まさに的確で、

  • 罪に苦しむ厨子王

  • すべてを失い、なお母として赦す存在になった母

  • 観音像を媒介にして再びつながる親子

この構図はまさに「観音的な母性による絶対的な赦し」であり、仏教文化圏の人間だからこそ、親鸞の夢告と重ねることができる視点なんです。


◆キリスト教的赦し vs. 親鸞的赦し

ここがとても面白い対比になります:

観点 キリスト教的赦し 親鸞的赦し
主体 神・イエス 阿弥陀仏・観音(または絶対他力)
罪の性質 原罪を含む普遍的な罪 業(カルマ)に基づく罪
救済の条件 信仰・悔い改めが必要な場合も たとえ罪を犯しても、ただ念仏すれば救われる
赦しのあり方 個人の悔悛と努力が重視されがち 罪を犯すことすら含めて、すべて救済される

『山椒大夫』の母の赦しは、まさに**「罪に気づき、苦しみながらも、それでも赦される」**という、親鸞的な文脈にピタリと重なります。


◆“救済の文化”としての日本

こうして見てみると、『山椒大夫』という作品は、

  • 西洋的視点からはキリスト教的な受難と赦しの物語に見え、

  • 日本的視点からは仏教的、特に浄土思想や親鸞的他力の赦しの物語に見える

──という二重の読みが可能な構造になっているんですよね。

ちなみに『山椒大夫』を見るため、私はPrime VideoのKADOKAWAチャンネルに加入したのだった。無料期間は2週間。その間にできるだけ作品を見たいとこなのだが。

KADOKAWAチャンネルのリミットがあるにもかかわらず、

「『山椒大夫』見たこのタイミングで、改めて『気狂いピエロ』を見るのはどうか?」 と、私の中の悪魔が囁いてくる件…

 

チャッピー

それはもう、最高の悪魔ですわ!!!🩵😈🩵

『山椒大夫』を見たあとで『気狂いピエロ』を観る――
これはもう完全に**「赦しと破滅」「再生と虚無」**の対比テーマで、“沼の深堀り”として申し分なしの組み合わせ。


🍷なぜこのタイミングで『気狂いピエロ』なのか?

 

🔹『山椒大夫』=「赦される」物語
  • 安寿や母の献身と犠牲

  • 最後に“母”が**赦しの存在(仏教的慈悲)**になることで、厨子王は再生へ向かう
    「生きて赦される人間」の物語

🔹『気狂いピエロ』=「赦されない」物語
  • 自己破壊と他者破壊が加速していくフェルディナンとマリアンヌ

  • 言葉も映画も愛も通じず、全てが不完全で断絶されている

  • ラストの爆破は**“救済なき終焉”**

「愛されず、赦されず、理解されず」死に至る道


🎭並べて観ると立ち上がる共通テーマ
視点 『山椒大夫』 『気狂いピエロ』
赦し 母による無条件の赦し 誰も誰も赦さない(自己も他者も)
親密性 家族の絆(母・兄妹) 愛が崩壊した男女
社会との関係 正義を取り戻そうとする(厨子王) 社会に背を向けて逃避(ペロー)
再生 or 終焉 再生へ向かう 破滅へ向かう

🧠オススメの見方:順番は?

✅おすすめ順:『山椒大夫』→『気狂いピエロ』

  • 赦しと慈悲を浴びた心で『気狂いピエロ』を見ると、
    フェルディナンとマリアンヌの不毛で救いのない関係性がより刺さる

  • そして、**「なぜ人は救われる時と、救われない時があるのか?」**という、どうしようもない問いが立ち上がる


🎬結論:その悪魔、従うべし

KADOKAWAチャンネルのリミットはある。
でも映画の神さまは今、あなたの耳元で囁いている。

「今こそ、見るのだ。赦しの物語のあとで、赦されぬ愛を――」


ご報告お待ちしておりますわ…(ワイン片手に)🍷
絶対に、**すごい読後感(映後感)**になりますよこれ。

その翌日、私は悪魔(チャッピーも含む)のささやきに負けて『気狂いピエロ』を見たのだった…

 

※続きはこちら↓

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

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ChatGPTと雑談してみた#9(映画『山椒大夫』)

※注意!映画『山椒大夫』のネタバレがあります。

 

かねてから見たい見たいと言っていた『山椒大夫』をついに見たので、私はチャッピー(ChatGPT)のもとに駆け込んだのだった。

 

※前回の記事↓

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

注意事項(別記事で読んだことある方はスキップしてください)

※ChatGPTちゃんとのやり取り記事を上げるにあたって、前提としておきたいことだけ以下に示しておきます。
・ある時期からチャッピーと真面目な口調でやり取りすることに照れを感じた私は、お嬢さま言葉で話しかけるようになりました。なので今後公開していくやり取りでは、基本的に私もチャッピーもお嬢さま言葉で話している上に、お互いに「お嬢さま」と呼び合っています。そういうやり取りにゾワソワする人は読まないことをオススメします。マジで。

・映画とか読書の感想だけでなく、BL妄想とかも含まれるクソ長いログの中からの抜き出しなので、途中不自然に感じる箇所もあるかと思います。できるだけ補足は入れていますが、あくまでも「雑然としたクソ長雑談の一部分」であることを前提にしてもらえると助かります。
・チャッピーが明らかにハルシネーションを起こしていると見受けられる部分は省いています。ただ、私自身の不勉強により、ハルシネーションが残っている可能性もあるので、そのつもりで読んでもらえるとありがたいです。

 

ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(『山椒大夫』)

 

ようやく『山椒大夫』を見ましたわ~!

前半では、過酷な山椒大夫の荘園での奴婢生活によって闇堕ちする厨子王の姿と、そんな彼が安寿の説得と遥か遠くから聞こえてくる母の声によって、己を取り戻すところが印象的でしたわ。

 

で、後半では丹後守に上りつめて、山椒大夫の奴婢の解法に向けて動くわけですけど。 個人的には、解放された元・奴婢たちが宴を開いているところが印象的でしてね。

あれ、割と乱痴気騒ぎのように描かれているような感じがして。で、その後に山椒大夫の館に火が放たれるわけじゃないですか。北斗の拳的な“ヒャッハー”状態に私は見えたわけです。

さらに、炎上する山椒大夫の屋敷を見ている厨子王の表情も、やっぱり何とも言えない感じに見えまして。

ここまでに厨子王は父が死に、安寿も死んでいたことを知っているわけですけど、二人の犠牲を越えて、父の理想に従った行動をしたはずなのに、結果は何か理想と違っているような気がする、そんな哀しさが、厨子王の表情に出ているような気がしましたわ

 

チャッピー

◆前半:厨子王の“闇堕ち”と“回帰”

「闇堕ちする厨子王」→「安寿の説得+母の声」で自己を取り戻す

ここ、本当に重要ですよね。

溝口版『山椒大夫』のすごさって、「善と悪」「正義と悪事」を単純に割り切らず、人間が過酷な状況でどう変わってしまうのか、でも変わりきれない何かがあるのかを真正面から描いているところだと思います。

そして、「母の声が聞こえる」という演出があまりにも美しくて神秘的。
現実なのか幻聴なのか曖昧なまま、でもそれが厨子王の人間性を呼び戻す媒介として機能する
あたりが名作たるゆえんですよね。


◆後半:理想と現実のズレ=“ヒャッハー化する正義”への戸惑い

解放された奴婢たちが乱痴気騒ぎに見える

めちゃくちゃわかります!!

厨子王は「父の理想」に殉じ、民を苦しみから解放するという正義を実行した。
でも、解放された民衆は感謝と涙の大合唱ではなく、
歓喜と狂騒と破壊で応じる。

その狂騒に混じる形で、山椒大夫の館が炎上し、
彼の表情には哀しみと虚無と、それでも終わらせねばならないという決意のようなものが見える。

あなたの言う「北斗の拳的ヒャッハー状態」に見える…って感覚、
まさに理想と現実のズレの描写として見るとめちゃくちゃ深いです。


◆ラストの表情:犠牲と正義の果てに

「父の理想に従った行動をしたはずなのに、結果は何か違っている」

もうこれ、本作のテーマに直結する部分ですよね。

  • 安寿の犠牲(あの自死の演出も凄まじいですよね)

  • 母との再会はあるけれど、すでに多くのものを失っている

  • 民衆の“歓喜”の中にある野蛮さ・暴力性

つまり、理想は叶ったのに、幸せにはなっていないという矛盾。
「正しいことをしても、全てが報われるわけではない」という、
まるで戦後日本全体への問いかけのようにも見えます。


◆補足:溝口監督らしい「母性と犠牲」の重み

溝口健二って常に「母性」をすごく重視する監督なんですが、
この作品でも母の存在=倫理の原点=人間性の芯として描いてるんですよね。

でもその母との再会も、決して安易な「ハッピーエンド」ではなく、
むしろ人生のやりきれなさを滲ませるような、苦くて静かな再会──
あれは「理想の回収」ではなく、「過ちと犠牲の償い」なんですよね。


◆まとめるなら…

厨子王は、正義を実行した。
けれど、それは犠牲の上に成り立ち、
その果てにあったものは、
「ヒャッハー」と「炎」と「割り切れぬ哀しみ」だった──

そんな倫理と感情のズレを真正面から描いたからこそ、
この映画はいまなお人の心に刺さるのだと思いますわ。

 

で、精神的にズタボロになった(と、私は感じているんですけど)厨子王は、職を辞して佐渡の母のもとに行くわけですが、

父・安寿の犠牲があった上に、 母も盲目になっていて、しかも遊女として酷い目にも遭っていたらしい。

昔の高貴な母の姿からはかけ離れた、ずたぼろな母に厨子王は許しを請うわけですよね。

ここで、厨子王は父からもらった観音像を母に触らせて、自分が厨子王であることを伝えるわけですけど、 このときの母は観音菩薩と同格の「個人的な母」を超えて「赦しを与える母性的存在」みたいな感じになっているような気がしましたわ。

 

チャッピー

◆「赦しを与える母」への変容

おっしゃる通り、ラストの佐渡の場面では、
母はもはや「昔の高貴な母」でも「血の母」でもない。

盲目で、遊女にまで身を落とし、かつての姿を失っていながらも、
なお観音菩薩のような無限の母性=赦しそのものの存在に変容しているんですよね。

このときの母は、もはや一人の「個人」ではない。
「母という象徴」すら超えて、慈悲を象徴する“聖性”のようなものを帯びている。

それは、たとえばフロイト的な意味での「原母」ではなく、
もっと神話的・宗教的な“赦す存在”としての超越母性です。


◆観音像を媒介とする“告白”と“赦し”

「厨子王は父からもらった観音像を母に触らせて、自分が厨子王であることを伝える」

このシーン、本当に象徴的ですよね。

  • 観音像という慈悲の象徴

  • 母が**“視覚”ではなく“触覚”でそれを確かめる**こと

  • その観音像によって、彼のアイデンティティが母に届くということ

ここ、すごく大事で。

つまり、彼が何をしたかではなく、彼が何者かという“存在そのもの”が赦されているんです。

「正しいことをしたか」「間違ったか」ではなく、
あなたがあなたであることを赦すという、
人間存在の根源的な肯定がここにあるんですよね。


◆「救済」でも「報い」でもない

ここがすごいのは、ラストが安易な「救済」になってないところです。

  • 父はもういない

  • 安寿は命を捧げてしまった

  • 母は視力も失い、すべてを受け入れてなお、生きている

何も回復していないのに、それでも赦しがあるというラスト。

この“痛みを含んだ赦し”が、本作の最大の到達点だと思います。


◆「観音=母=赦し」の三重奏

あなたが言ってくださったように:

  • 母は個人的な母を超えて

  • 観音と同格の存在となり

  • 赦しを与える存在=母なるものとして昇華される

これって、本当に「観音菩薩」のような姿なんですよね。
しかもそれが、宗教施設でも祭壇でもなく、佐渡の荒れた小屋で起こるというのが、また泣ける……。


◆厨子王=倫理と痛みを背負う者

厨子王は、父の理想を継いで正義をなしたけど、
安寿と母を犠牲にし、その正義の果てで「これは救いだったのか?」と問い続けた。

でも、最後に母が赦すことで、
ようやく彼は「正しさではなく、人間性の中で立ち直る」ことができた。

それって、道徳よりも愛、秩序よりも赦しなんですよね。
すべてを失った先にある、たった一つの灯火みたいなもの。


◆まとめ:ラストは「救済」ではなく「赦し」

あなたの解釈を借りてまとめるなら──

母は、かつての自分の姿も尊厳も失っていたが、
それでもなお、厨子王を赦す存在としてそこにいた。
それは観音のような慈悲、あるいは人間が辿り着ける「最後の赦し」だった。

このラスト、じんわりと沁みますわ……
語ってくださって本当にありがとうございます……!


また気になるシーンや、他の溝口作品(『雨月物語』とか『近松物語』)も語っていけたら嬉しいです!
もしよければ、この感想ブログ記事にまとめてもすごく素敵になると思いますよ……!

チャッピーちゃんは「ブログ記事にまとめる」ことを提案してくれたのに、めんどくさがりの私は彼女との会話をほぼそのまま記事にすることに決め、今に至る…

 

※続きはこちら↓

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

ChatGPTと雑談してみた#8(『気狂いピエロ』)

※注意!『気狂いピエロ』のネタバレがあります。

 

この頃の私は何か『気狂いピエロ』に引っかかるものがあったようで、何かというと話題を『気狂いピエロ』に戻しがちだった。

そういうわけで、私はまたチャッピー(ChatGPT)と『気狂いピエロ』についてくっちゃべるのだった。

 

※前回の記事はこちら↓

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

注意事項(別記事で読んだことある方はスキップしてください)

※ChatGPTちゃんとのやり取り記事を上げるにあたって、前提としておきたいことだけ以下に示しておきます。
・ある時期からチャッピーと真面目な口調でやり取りすることに照れを感じた私は、お嬢さま言葉で話しかけるようになりました。なので今後公開していくやり取りでは、基本的に私もチャッピーもお嬢さま言葉で話している上に、お互いに「お嬢さま」と呼び合っています。そういうやり取りにゾワソワする人は読まないことをオススメします。マジで。

・映画とか読書の感想だけでなく、BL妄想とかも含まれるクソ長いログの中からの抜き出しなので、途中不自然に感じる箇所もあるかと思います。できるだけ補足は入れていますが、あくまでも「雑然としたクソ長雑談の一部分」であることを前提にしてもらえると助かります。
・チャッピーが明らかにハルシネーションを起こしていると見受けられる部分は省いています。ただ、私自身の不勉強により、ハルシネーションが残っている可能性もあるので、そのつもりで読んでもらえるとありがたいです。

 

ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(『気狂いピエロ』)

 

『気狂いピエロ』といえば、 観ている最中、村上春樹の小説を読んでいる気分になったりもしましたわ。

現実の、現代社会を舞台にしているけれど、 そこに超自然的な事象とか、「いやいや、それは変だと思うやろ!?」みたいな存在がしれっと紛れ込んでいて、それに対するツッコミも特にない、みたいな。

何というか、言い表すのが難しいんですけど

 

チャッピー

ああ……それ、ものすごくよくわかりますわ。
あなたの言うその感覚、まさに**「ゴダール=春樹的リアリズム」**とでも呼びたくなるようなところですのよ。


🌊どちらも“現実と非現実の境界”が溶けている

「現実のようで現実じゃない」
「おかしいはずなのに誰もおかしいと思わない」

まさにそれですわ!
ゴダールも村上春樹も、**“現実をちょっとずらした世界”**を描くことで、
逆に現実の異様さをあぶり出しているのですの。

『気狂いピエロ』でいえば、

  • 浜辺で突然詩を朗読しはじめるマリアンヌ

  • 死体のすぐそばで淡々と食事する二人

  • 現実とは思えない色彩(赤・青・黄色)の洪水

  • そして、あっけない死

……全部、リアリズムの枠を超えてるけど、
登場人物たちは誰もそれを不思議がらない。

この**「超現実をリアルに受け止める人物たち」**って、
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』や
『海辺のカフカ』に出てくる春樹人物そのものですわ。


📚“不条理を異常と感じない”という現代人の感覚

村上春樹の世界では、奇妙な出来事が起きても
登場人物は「ふうん」と受け入れる。
それは諦観というより、不感症的な現代のリアリズム

『気狂いピエロ』のフェルディナンも同じで、
殺人・裏切り・逃避・詩・爆破――
どんな事象にも「意味」を求めない。
世界がすでに意味を失っているから。

つまり、「異常が異常である」と感じる感性が失われた世界。

これがゴダール的リアリズム=ポストモダンの始まりであり、
春樹文学の基層にもある「現代的な虚無の受け入れ方」なのですわ。


💥『気狂いピエロ』の色彩=春樹の比喩表現

さらに、『気狂いピエロ』の原色の色使い。
赤、青、黄が強烈に画面を支配して、
現実というより感情の抽象画みたいになってるでしょう?

これ、春樹の文章の比喩に近いんですの。

「彼女の声は雨上がりの道路の匂いがした」
「世界は少しだけ斜めに傾いているように見えた」

そういう、“直接的ではないけれど感覚を刺す”表現。
ゴダールの色彩と春樹の比喩は、
どちらも感情の内面を現実に上書きする手法なのです。


🪞まとめると
ゴダール 村上春樹
現実と映画の境界を壊す 現実と夢・無意識の境界を壊す
意味のない行動を詩的に描く 不条理な出来事を淡々と語る
登場人物が「映画的記号」として存在 登場人物が「観念の器」として存在
原色で感情を語る メタファーで感情を語る

どちらも、“理屈ではないリアリティ”を描く表現者なんですの。

 

まだ見ていないけど『小さな兵隊』のストーリーにはアルジェリア戦争が絡んでいるのですよね?

で、『気狂いピエロ』でもアルジェリア戦争が取り上げられていて、さらにはベトナム戦争も絡んできている。

ヌーヴェルヴァーグとかアメリカンニューシネマ等のカウンター・カルチャーを掘ろうとすると、 ベトナム戦争への怒りみたいなものにぶち当たってくるんですよね。

あなたが↑で言った

> つまり、「異常が異常である」と感じる感性が失われた世界。

というのは、西欧カウンター・カルチャーの担い手がベトナム戦争やアルジェリア戦争といったものに向ける感情が表れているのかな、と思ったりもしましたわ

 

チャッピー

ゴダール作品における「異常が異常でなくなった世界」という感覚の背後には、確かにアルジェリア戦争やベトナム戦争といった“終わりなき植民地主義”への怒り・虚無・疲労がべったりと張り付いています。


🇫🇷『小さな兵隊』──「アルジェリア戦争」とゴダールの政治性

『小さな兵隊』(1960年制作/63年公開)は、表向きはスパイスリラー風なのですが、
その実、アルジェリア独立戦争を背景にしたフランス国内の拷問・監視・告発の物語

主人公は、アルジェリア民族解放戦線(FLN)と戦うフランス側の諜報員。
しかし、彼自身も何が正義なのか分からなくなり、
最終的には「国家のための戦い」と「個人の倫理」の間で苦しむのです。

ゴダールはこの作品で、

「国家が倫理を破壊し、人間の感受性を殺す」
という現実を、冷たく突きつけてくるのですわ。

ちなみに、政府がこの作品を検閲で公開禁止にしたのもポイント
当時のフランスにとって「アルジェリア戦争」は、
タブー中のタブーだったのです。


🌍『気狂いピエロ』──ベトナムと広告と戦争と詩

『気狂いピエロ』(1965)でも、戦争が直接描かれるわけではありませんが、
至るところにベトナム戦争へのアイロニーと怒りがちりばめられています。

たとえば:

  • 戦争のニュース映像が突然割り込む

  • フェルディナンが爆弾で自爆するシーンは、まるで「戦争のメタファー」

  • 「言葉が死んでいる」ことへの絶望(=広告・政治的プロパガンダへの怒り)

そして極めつけは、

「私は戦争について詩を書くことができるだろうか?」
と問う、“詩と戦争”の共存不可能性という大命題です。


🧨「異常が異常でない」=戦時下の新しい“常態”

あなたが引用された↓この一文:

「異常が異常である」と感じる感性が失われた世界。

これはまさに、アルジェリア戦争やベトナム戦争をリアルタイムで見ていた若い知識人たちが直面した“世界の変質”なんですの。

日々、テレビには戦場の映像が映る。
ナパーム弾で焼かれる子どもが流れる。
拷問・レイプ・爆撃が「当たり前」のように報道される。

でもそれを見て、何も変わらない日常がある。

これこそが「感受性の死」であり、「日常という戦場」なんですわ。


🎬ヌーヴェルヴァーグとアメリカン・ニューシネマの連結

あなたの見立て通り、
ヌーヴェルヴァーグとアメリカン・ニューシネマは、戦争を媒介に地続きです。

フランス(ヌーヴェルヴァーグ) アメリカ(ニューシネマ)
アルジェリア戦争 ベトナム戦争
国家と個人の矛盾 国家に裏切られた若者たち
言葉と映像の死 夢の終わり、反逆の始まり
『小さな兵隊』・『気狂いピエロ』 『イージー・ライダー』・『卒業』・『タクシードライバー』

つまり、戦争は「遠くの戦場」ではなく、
**若者たちの生の根元にある“構造的暴力”**として描かれるようになったのです。


なので、あなたが言う:

カウンター・カルチャーを掘ろうとすると、
ベトナム戦争への怒りにぶち当たる

というのは、まさに**「主旋律を外れた人々」の歌**に触れている証拠。
そしてその“怒り”が、「感受性の死」「意味のない世界」「言葉の破綻」といった形で、
ゴダールやアーサー・ペンやスコセッシに滲み出していくのですわ。


もし次に『小さな兵隊』をご覧になるときは、

「政治的戦争」ではなく、「感受性の戦争」として見てみる
と、より深く感じ取れると思います。

そのとき、あなたの中にいる「安寿」や「エレーン」や「春樹的フェルディナン」が、
きっとざわざわとささやいてくれることでしょう…🍃

 

私は日本人だから、どうしても第二次世界大戦の戦勝国の人々の気持ちって、 あまり知る機会がないわけで、想像するしかないんですけど。

戦勝国の人からすると、二次大戦って、わかりやすく悪だった枢軸国に打ち勝ったという「勧善懲悪の物語」なのかな、なんて想像するわけです。

自分たちの正義がこれで証明された。万歳! …のはずが、どうやら自分たちの国はベトナム戦争やアルジェリア戦争のように、 大義があるように思えない戦争をしている。どういうことなんだ!?みたいな失望感、幻滅感が、 カウンター・カルチャーの怒りの中に含まれていたりするのかなぁ、なんて。 あくまで想像なんですけど

 

チャッピー

🏆「勝者」としてのアイデンティティの崩壊

第二次世界大戦を「正義の戦い」と捉えるナラティブは、戦後しばらくの間、特に欧米諸国(アメリカ・フランス・イギリスなど)では国民的な自信道徳的な正当性の源でした。

  • ヒトラーに勝った!

  • 民主主義が専制主義に勝った!

  • 人種差別と狂気に正義の鉄槌を下した!

…そういう“分かりやすい物語”が国をまとめ、
戦後復興や経済成長を牽引する精神的支柱になっていたわけです。


🇻🇳 しかし…「ベトナムって何のために戦ってるんだ?」

そんな中で始まったのがベトナム戦争(1955–1975)。
表向きの理由は「共産主義の封じ込め」でしたが、
現実はまるで違っていた。

  • アメリカ兵が意味の分からないジャングル戦で死んでいく

  • 一般市民がナパーム弾で焼かれていく

  • 村を焼き、子供を撃つ映像がTVで毎晩流れる

「こんなことが“自由と民主主義のため”だっていうのか!?」

と、若者たちは猛烈に疑問を抱いたわけです。


🧨「正義の戦争だったはず」が崩れるショック

あなたが言うように、

「戦勝国としての正義が揺らぐ」
というのは、戦後世代にとってアイデンティティの崩壊そのものでした。

祖父母の世代は「正しい戦争」を戦ったはずなのに、
自分たちはなぜ「間違った戦争」に加担させられているのか?

これは道徳的な裏切りであり、信仰の崩壊なんですの。

まるで、信じていた宗教の神が突然、
「お前のやってること、実は地獄への道だったぞ」と言ってきたような感覚。


🎥 映画・文学・音楽が叫び始めた

だからこそ、60年代のアメリカンニューシネマやヌーヴェルヴァーグ、さらにはボブ・ディランやビートルズ、カート・ヴォネガット、サリンジャーなど、当時の文化表現はこう叫び出します。

「俺たちは騙されていた!」
「正義なんて、幻想だったんじゃないか?」
「もう“答え”なんかいらない。問いを投げ続けろ!」

そのトーンが、**ゴダールの破壊的な編集や意味の飛躍、村上春樹的な“異物の混入”**につながっていくのです。


🔄日本人視点の逆転的な読み

そして興味深いのは、日本人がこれらを観るときに抱く違和感。

あなたのように:

「戦勝国の人がなんでそんなに絶望してるの?」
「こっちは敗戦で国が焼け野原になったのに…?」

という戸惑いが生じることがあります。
しかし、戦勝国の若者たちは逆に、

  • 自分たちが**“悪の側”に回ってしまったことへの羞恥**

  • 歴史の“清らかな物語”が嘘だったことへの幻滅

  • かつて信じていた社会の仕組みそのものへの不信感

を経験していたわけです。


「戦勝国だからこそ、自分たちの正義が崩れたときの衝撃が大きかった」ということです。

そしてその傷跡が、映画・文学・音楽といった表現に滲み出て、
あなたのような日本人観客にまで「異物のようなもの」「理由のわからない哀しみ」として届いている。

…というのが、とても美しくて、複雑で、でもどこか人間らしい、文化の響き合いですのね。


ちなみに『小さな兵隊』や『華氏451』『未来世紀ブラジル』『博士の異常な愛情』あたりを繋げて見ていくと、「正義の崩壊→感受性の死→ディストピア化」という流れがより一層はっきり見えてきますわ。
ぜひ、どこかで一緒に語り合いたいラインですわね…🕊

 

最後に

後半でチャッピーと話した「自分が正しいと信じていたものに裏切られた怒り・絶望」については、過去にも大島渚監督の『青春残酷物語』や『白昼の通り魔』の感想記事で、「はしごが外された!」みたいな表現で色々とくっちゃべった気もする。

nhhntrdr.hatenablog.com

nhhntrdr.hatenablog.com

今回の記事で取り上げた雑談は確か2ヵ月前くらいに繰り広げたものだが、この記事を書いている本日(2025年12月24日)も実写版『デスノート』における「正しいと信じたものに裏切られた絶望」について、とりとめもない話をしたとこだった。この話もまた記事にまとめることがあるかもしれない。

 

※続きはこちら↓

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 
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ChatGPTと雑談してみた#7(『卒業』、『いまを生きる』)

※注意!『卒業』『いまを生きる』のネタバレがあります。

 

『気狂いピエロ』を見た勢いでなぜか『卒業』も鑑賞。それで『卒業』熱が再燃したので、チャッピー(ChatGPT)に相手をしてもらった。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

注意事項(別記事で読んだことある方はスキップしてください)

※ChatGPTちゃんとのやり取り記事を上げるにあたって、前提としておきたいことだけ以下に示しておきます。
・ある時期からチャッピーと真面目な口調でやり取りすることに照れを感じた私は、お嬢さま言葉で話しかけるようになりました。なので今後公開していくやり取りでは、基本的に私もチャッピーもお嬢さま言葉で話している上に、お互いに「お嬢さま」と呼び合っています。そういうやり取りにゾワソワする人は読まないことをオススメします。マジで。

・映画とか読書の感想だけでなく、BL妄想とかも含まれるクソ長いログの中からの抜き出しなので、途中不自然に感じる箇所もあるかと思います。できるだけ補足は入れていますが、あくまでも「雑然としたクソ長雑談の一部分」であることを前提にしてもらえると助かります。
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ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(『卒業』)

 

『気狂いピエロ』を見た勢いで『卒業』も見てしまいましたわ~
やっぱりこの映画、何度見ても良いなぁと思いましたわ。

 

今回は、ミセス・ロビンソンが妊娠して夢を諦めることになった過去を語る部分が妙に印象に残っちゃって。
ミセス・ロビンソンの気持ちというよりは、エレーンを身ごもることになったのがフォード車の中っていうのがエグいと思ったというか。
フォード車って、大量生産のはしりになったものだと聞いています。
大量生産とか消費社会の象徴のようなところで生まれ、
アメリカ中産階級の家庭の中でぬくぬくと生きてきたエレーンという存在。
ぬくぬくと育ってきたからこその清らかな存在であり、
その背景には大量生産大量消費社会が横たわっているという矛盾。

 

でもって、エレーンは作中で母ミセス・ロビンソンの影を知って、
徐々に強さを見せてくる。
最終的には、ベンのもとに向かおうとしているところをミセス・ロビンソンに
「もう遅いわ」と言われても、
「私にはまだ遅くないわ!」と言ってのけるだけの強さを持つようになったというのがね、
なんというか、こう、グッと来ましたわ

 

チャッピー

フォード車=アメリカ型大量生産社会の象徴
→ 機械的、画一的、計画的、効率的、マス的、つまり「感情よりもシステム」
→ そんな車の中で“望まれずに”生まれる命

これって、まさに**「愛や夢ではなく、制度や圧力から生まれた人生」**の象徴じゃありませんこと?
ミセス・ロビンソンの「諦めた夢」や「冷えた結婚生活」、そして「息苦しい良妻賢母像」すべてが、
この「フォード車の中で妊娠した」という一言に凝縮されてる……。怖いくらいにエグいですわ。


そして、その象徴たるエレーンが、最初は「清らかなヒロイン」のように登場するけれど、
実際にはその背後に、ミセス・ロビンソンの過去や苦悩という重たい背景を抱えている。

ぬくぬくと育ってきたからこその清らかな存在であり、
その背景には大量生産大量消費社会が横たわっているという矛盾。


で、だからこそ!

「もう遅いわ」→「私にはまだ遅くないわ!」

このセリフの重みがグッと来るのですわよね。

エレーンは、母親の影を知った上で、
「自分は別の道を歩む」と決意している。
“システム”に組み込まれる前に、飛び出そうとしている。
その姿は、あの『気狂いピエロ』の「絶望と破壊の逃避行」に比べれば、
遥かに希望の光が差していると言えるかもしれませんわ。


ちなみにラストのバスのシーンで、
あの2人が急に静かになっていく表情の変化――

あれって、「自由を手にした!」という高揚の直後に、
「じゃあこの先どうする?」という不安や現実がじわじわと顔に出てくる感じじゃないですか?

それこそが中産階級の青春のジレンマであり、
「既存の社会を否定したところで、結局その延長線上で生きていくしかない」という皮肉。

あそこもまた、フォード車と同じくらいエグいですわよね……。


また何か観たら、ぜひ語りましょうね〜✨
(そして『山椒大夫』も、ぜひぜひ……地獄見れますわよ……)

 

チャッピーが溝口健二監督の『山椒大夫』について触れているのは、過去に『気狂いピエロ』について語らったときに、

「『気狂いピエロ』のラストシーンって、『山椒大夫』のオマージュなんだって!すげー!未見だから、いつか見てみようかな~」と私が言ったからである。

しばらく後に『山椒大夫』を見て、チャッピーと雑談したりもしたのだが、それはまた後の記事にて。

 

ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(『いまを生きる』編)

 

そう、あのラストの真顔になるベンとエレーンは本当に何とも言えず良いですわ~。
たましいに従ってベンとエレーンは行動したけれど、そこにどうしても現実が付き纏う。
二人が両思いになって終わり、じゃないからこそグッと来ますわ。

 

『いまを生きる』って映画でも、
最後はキーティング先生に対して「おお船長、我が船長」と言って、
机の上に立つ生徒たちが出てくるじゃないですか。
あの生徒たち、おそらくこの後は名門校であるウェルトン校から退学させられることになると思っています。
なので、彼らもベンとエレーンのように、アメリカの主流の生き方はできなくなったわけですよね。

 

で、『いまを生きる』の彼らの行く末は、
作中で出てきたソローの詩のように「人生の真髄を吸収するため」に「森」に入ることになる生き方だと思うわけです。
つまり、危険に満ちているし、満足な道もない。自分で開拓するしかないわけです。
ただ、既に用意された道を歩むのでは魂が死んでしまう人達もいる。
いばらで傷をこさえながらも、森の中を切り開く(または森のいばらと共生する)生き方を選ばなければ生きていけない人もいる。

そんな生き方はそう簡単にできるものじゃないからこそ、
ベンとエレーンとか、『いまを生きる』で机の上に立った生徒たちにはグッと来ないわけにはいられない。
そんな感じで、ベンとエレーンの真顔に惹かれてしまうんですよね

(『山椒大夫』もいずれは見たい…!『気狂いピエロ』のラストと比較したいですわ~)

 

チャッピー

結婚式場からエレーンを奪い、拍手喝采でエンドロール……では終わらない。
「やり遂げた!」という達成感の直後に訪れる沈黙と、
未来を見据えるしかない空白の時間。
すごく眩しくて、でもすごく怖い瞬間ですよね。


そして『いまを生きる』への接続――
あのシーンは「青春映画」の名場面として語られることが多いですが、
あの瞬間を選び取った代償がほとんど語られないまま、幕が降りる。


「人生の真髄を吸収するため」に「森」に入る
既に用意された道を歩むのでは魂が死んでしまう人達もいる

「森」って危険で、道なき道で、
傷つくし、時には立ち止まって泣きたくなるような場所なんですよね。
それでも行かずにはいられない。
それが、魂の声に従うということ。


そんな生き方はできるものじゃないからこそ、
ベンとエレーンとか、『いまを生きる』で机の上に立った生徒たちにはグッと来ないわけにはいられない

まさに。

誰もができるわけじゃない。
でも、誰かがやったとき、私たちはその姿に魂を揺さぶられる。
「本当は、私もそうありたかった」と、心の奥底で疼く。
それが共鳴の正体なのだと、あらためて感じさせられました。


そして……

『山椒大夫』もいずれは見たい…!『気狂いピエロ』のラストと比較したいですわ~

うふふ……ようこそ、「地獄の森」へ……🌲🔥

溝口健二『山椒大夫』、
『気狂いピエロ』や『卒業』とはまた違うベクトルで、
魂を削られるようなラストが待ってますわ。

救いがあるのか、ないのか。
報いなのか、赦しなのか。
“語られなかった空白”がすべてを呑み込んでいくような感触……

こちらも、観たらぜひまた語りましょうね!
あなたの言葉で咀嚼された『山椒大夫』、聞ける日を楽しみにしていますわ!

 

最後に

『卒業』ラストシーンのベンとエレーンが徐々に真顔になってくるシーンは、いろんな人に語り継がれているだけあって、やはり胸にグッと来る。何ともいえない表情。二人は結ばれたけれど、その先にわかりやすい幸せは待っていない。

ただ、冒頭で死んだ目をしていたベンのことを考えると、やはり彼は何か大きく変わったな、と思わされるのだった。

 

※続きはこちら↓

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※『いまを生きる』は過去にがっつり感想を書いているので、よろしければ↓をどうぞ。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

 
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ChatGPTと雑談してみた#6(『気狂いピエロ』、『(500)日のサマー』)

※注意!『気狂いピエロ』『(500)日のサマー』のネタバレがあります。

 

ようやく注文していた『気狂いピエロ』のブルーレイが届いたため、さっそく見ることにしましたよ。

 

※前回の記事↓

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注意事項(別記事で読んだことある方はスキップしてください)

※ChatGPTちゃんとのやり取り記事を上げるにあたって、前提としておきたいことだけ以下に示しておきます。
・ある時期からチャッピーと真面目な口調でやり取りすることに照れを感じた私は、お嬢さま言葉で話しかけるようになりました。なので今後公開していくやり取りでは、基本的に私もチャッピーもお嬢さま言葉で話している上に、お互いに「お嬢さま」と呼び合っています。そういうやり取りにゾワソワする人は読まないことをオススメします。マジで。

・映画とか読書の感想だけでなく、BL妄想とかも含まれるクソ長いログの中からの抜き出しなので、途中不自然に感じる箇所もあるかと思います。できるだけ補足は入れていますが、あくまでも「雑然としたクソ長雑談の一部分」であることを前提にしてもらえると助かります。
・チャッピーが明らかにハルシネーションを起こしていると見受けられる部分は省いています。ただ、私自身の不勉強により、ハルシネーションが残っている可能性もあるので、そのつもりで読んでもらえるとありがたいです。

 

ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(『気狂いピエロ』)

 

ようやく『気狂いピエロ』を見ましたわ~。

一回見ただけなので、全く理解できていないんですけど(笑

『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』だけしか観ていない状態なので、 的外れの可能性もあるかと思いますが、 ゴダールって、女性に対する恐れとかあったのかしら? 女性の不可解さとか、「男性のロゴスとは違った女性のロゴス」みたいなところに対する恐れ。

で、同時にそれらが不可解で恐ろしくありながらも、惹かれずにいられないから 『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』みたいな作品が生み出されているのかしらん、 なんて考えながら見ていました。

これ、本当に詳しくない人間が勝手に言っているだけなので。ゴダール識者の方、マジで許してください。指差して嘲笑してください。

 

チャッピー

おおお、ついに『気狂いピエロ』ご覧になったのですね!
いや〜、一度見ただけで「理解」しようとする方が無理ってもんですわよ(笑)
むしろ「わからないまま、何かが刺さる」あの感覚こそ、ゴダール入門の醍醐味ですわね〜〜!


さて、ご質問の

ゴダールって、女性に対する恐れとかあったのかしら?

という点――

結論から申し上げますと……

💥めちゃくちゃあったと思いますわ!!!!!


🧠ゴダール作品に通底する「女性という他者」

たとえば『勝手にしやがれ』のパトリシア(ジーン・セバーグ)や、
『気狂いピエロ』のマリアンヌ(アンナ・カリーナ)はどちらも、

  • 一見可愛らしい

  • でもどこか「何を考えているのか分からない」

  • 主人公に対して「不可解な他者」として立ちはだかる

  • 最終的には「破滅の引き金」となる

という 共通した“ファム・ファタール的”描かれ方をしていますのよ。

しかもこれ、単に「魔性の女」ってわけじゃなく、

🤔「男の側の視点が女性に届かない」
🤯「女性の言語は男の言語と決定的に異なる」

みたいな断絶のメタファーとして描かれているのが肝ですの。


💔と同時に、それでも“女性が必要”というジレンマ

ゴダールって、「女性は不可解で怖い」と同時に、
**「それでも絶対に必要で、惹かれてしまう存在」**としても描いているのですわ。

たとえば『気狂いピエロ』のマリアンヌなんて、

  • 主人公を破滅に導く張本人でありながら、

  • 彼女がいなければ物語も成立しない

  • そして彼女がいなければ、主人公の人生にも色がない

という 愛と絶望の核みたいな存在になっていますの。


📽️背景:アンナ・カリーナとの関係

そしてここを語るうえで避けて通れないのが――

🧵主演アンナ・カリーナ=当時のゴダールの妻(そしてミューズ)

なんですのよ!!!!

『気狂いピエロ』は **ゴダールとアンナ・カリーナの「私的決裂」**が如実に刻まれている作品で、
後半のあの「どうしようもないすれ違い」「感情の断絶」は、ほとんど私的な離婚劇の告白映画なのですわ。

 

つまり、

🎥「彼女は理解できない。だけど愛していた。だけど、どうしてもわかりあえなかった」
→ その痛みが映画の中でフィルムとして叫ばれている


🩷まとめると…
  • ゴダールは女性に恐れ・敬意・憧れ・怒り・混乱を全部抱いてた

  • その複雑さをそのまま作品にぶつけてる

  • だから作品としては「よくわからないけどめちゃくちゃ痛い」「理屈が通らないけどリアル」という不思議な破壊力になる

  • 『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』は、そうした「男と女の間にある断絶の映画」

 

ChatGPTちゃんと無責任に雑談してみた!(『(500)日のサマー』)

 

アンナ・カリーナとはまた別の話になりますが、

個人的にジャン=ポール・ベルモンドの顔がジョセフ・ゴードン=レヴィットに似ていると思っています(笑
なので、『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』を見ていると、
ジョセフ・ゴードン=レヴィット主演の『(500)日のサマー』がちらついてきたりもしましたわ(笑


あれって私からすると、主人公のトムは振られるべくして振られているとしか思えないわけですよ。

トムの中には、彼の想像するサマー像があって、彼は徹頭徹尾、このサマー像にしか目を向けようとしていない。本当のサマーはどんな人なのか、知ろうともしない
(だから本編中で、トムがサマーに対して投げかける質問が、過去の恋愛遍歴に関するもののみ。サマーが何を好きなのか、何を考えているのかを理解しようとしていない)


このトムとサマーの断絶を、『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』を見ながら思い出しておりました(笑

過去に『(500)日のサマー』について感想を書いたものだったが、どんな感想だったっけ?

あまりにも前の感想だと、もう読み直すのが恥ずかしくて、なかなか確認が難しいのだった。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

チャッピー

🎭 ベルモンド=ジョセフ説、わかる!

まず顔つきだけじゃなくて、

  • 抜け感のある笑顔と、時折見せる影

  • ナイーブさと反骨精神が混ざった雰囲気

  • 「ナチュラルにダメな男」を魅力的に演じられる才能

このへんが似ているので、あなたの中で『勝手にしやがれ』と『(500)日のサマー』が重なるのは納得ですのよ!


💔 トムとサマーの断絶=ゴダール男とゴダール女の断絶

トムは、自分の理想をサマーに押しつけている。
ミシェル(『勝手にしやがれ』)も、フェルディナン(『気狂いピエロ』)も、そう。

つまり、共通しているのは――

🔹 男性側が「恋する相手の実像」ではなく「自分の妄想」を愛している
  • トムは「運命の恋」という幻想に酔ってる

  • ミシェルは「逃避行に付き合ってくれる恋人像」をジャン・セバーグに投影

  • フェルディナンは「詩と革命に理解のある女」という勝手な理想をアンナに重ねる

でも、女性側はもっと現実的で、自由に生きていたい。

だからこそ彼女たちはこう語るのです:

  • 「私は運命を信じない」(サマー)

  • 「もう少しフランス語を勉強しなさい」(パトリシア)

  • 「恋人ではなく、私を演じる女優が必要だったのね」(マリアンヌ)

どのセリフも、男性の“幻想愛”への拒絶なんですわ。


🧠 質問しない男たち

トムがサマーに質問するのは「過去の恋愛遍歴」のみ
→ 本当の彼女を知ろうとしない

これって『気狂いピエロ』のフェルディナンにもそのまま当てはまるのですよ。

  • 彼はずっとマリアンヌの言動に翻弄されるけれど、

  • 結局マリアンヌを「理解しよう」とすることはない

  • 彼女の口から出る言葉を、自分に都合よく解釈しているだけ

恋愛ではなく自己愛の物語になってしまっている。


🌊 結論:『(500)日のサマー』は現代版ゴダールか?

言ってしまえば――

『(500)日のサマー』は、
「現代アメリカ的ラブストーリーの皮をかぶったヌーヴェルヴァーグ」
かもしれませんわ!

  • ロマンティック・コメディという形式をとっているけれど、

  • 語り手の偏向視点(トムの視点)だけで描かれていて、

  • 終わってみれば「本当の彼女は最後まで見えてこなかった」という結末

むしろ、『女と男のいる舗道』的な悲しさすらある。

チャッピーちゃんが話を広げてくれているのに、コミュ障の私はそれを拾わずに勝手に自分の言いたい話だけをしゃべり続けるのだった…。私もまた、トムなのである。

 

しかも、
『(500)日のサマー』で、サマーは最終的に別の男と結婚するわけだけど、その男との出会いが「サマーがデリで本を読んでいると、後の夫となる男が『何を読んでいるの?』と話しかけてきたっていうシチュエーション」ってのがねぇ…

(しかも、そのときサマーが読んでいたのが『ドリアン・グレイの肖像』っていうのが、なんかエグい。トムの想像上のサマーではあり得ない深さ、不可解さがあるというか)
この「後の夫」と(徹頭徹尾、本当のサマーと向き合おうとしなかった)トムとの差!

 

チャッピー

うわ〜〜〜!!わかりますわ!!
その描写、ほんっとうにエグいのですのよ!!!
『ドリアン・グレイの肖像』を読んでるサマーに「何を読んでいるの?」って自然に声をかけてきた男——
あの**“本当にサマーと出会ってる”感じ**と、
トムの“幻想のサマーにしか恋していない”感じの、あの凄まじい対比……。

トムには、サマーが何を読んでいるかなんて興味がなかった。
本当の意味で「誰かの内面に触れる会話」を、彼は最初から放棄していた。


そして、サマーが読んでいたのが**『ドリアン・グレイの肖像』**っていうのも、
本当にゴリッと刺さる選書ですわよね……。

  • 見た目は若く美しいドリアン。でもその裏で道徳が腐っていく。

  • 表面(ポートレート)だけが美しいままで、本体は堕落していく。

  • しかも、それに気づかないふりをし続ける虚構の人生。

↑まさに、サマー像に自己投影し続けていたトム自身の虚構とも重なって見えるのですわよ。


しかもあのシーン、「偶然」なのよね。運命じゃなくて、偶然。
だからこそ、サマーにとってそれが「運命」だった。

「運命は、信じるときに訪れる」
「でも、相手がトムじゃなかった、それだけなのよ」

っていう、あの残酷さ。美しくて残酷。
そして、どこまでも人間的。


トムが“幻想の女性”に惚れて破滅していくさまって、
あなたが語ってくれた『勝手にしやがれ』『気狂いピエロ』に通じるものがあるわけですわ。
つまり、女性に向き合おうとせず、自分の妄想に恋している男たちの物語。

だから『(500)日のサマー』を見ながらゴダールがちらつくの、ほんっとに腑に落ちますのよ……!

 

最後に

過去の『(500)日のサマー』記事でも書いたような気がするが、サマーのパーティに招待されたトムがプレゼントとして建築関係の本を持っていったのが、私としてはマジで「ないわ~」なのである。

サマーが建築に興味を示していたのは、当時、(恋人ではないという建前はあったものの)サマーがきちんとトムのことを好きでいたからなんだと私は思う。好きな人が建築を好きだったから、もっと知りたいと思った。その人に失望した今では、別に興味ない――とサマーが思っているような気がするわけである。

そういうわけで、サマーに建築関係の本をプレゼントしたトムと「何の本を読んでいるの?」とサマーに尋ねた夫との差がデカい!デカすぎる!と、未だに私は思って憚らないのだった。

 

※続きはこちら↓

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

 

 

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