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『青春残酷物語』感想(ネタバレあり)

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※注意!『青春残酷物語』のネタバレがあります。

 

 

 

「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」と呼ばれたムーブメントの走りとなった作品。監督は大島渚、1960年6月3日公開。

 

 

戦って敗北した者たちの物語

ギョッとするようなタイトルの作品である。なぜ残酷なのか。私はそれが敗北者の物語であるからだと思う。

 

青春とは戦いだ。確固とした自我を確立し、自立した人間となるため、自らを抑圧してくる者と戦う。それは古くさい慣習かもしれないし、理不尽な規則かもしれない。また、親や教師など権威を持つ者への犯行もあるだろう。

 

『青春残酷物語』でのキャラクターたちは抑圧と戦っている最中、または戦っていた過去のある者たちだ。彼らの戦いがどのようなものだったのか、何との戦いだったのかについては、それぞれの世代を考えると良いだろう。

主人公の清と真琴たちの世代は、60年安保闘争のまっただ中にいる。清の学友・伊藤はまさに安保反対のためのデモにいそしむ全学連の運動家だ。

 

一方で清たちの少し上の世代――真琴の姉・由紀と元恋人の秋本は1950年代前半、民主主義のために武装闘争を繰り広げた世代である。彼らは共産党主導のもとで武力を用いた形で体制側と戦っていたのだが、あるときにそれがひっくり返される。1955年の共産党の会議(六全協)にて、武装闘争の放棄が決定されたのだ。はしごを外された形になった活動家たちだが、その後は平和革命路線に順応した者と方針転換に納得できない者に分かれた。このことは同じ大島監督の『日本の夜と霧』にて詳細に描かれている。

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よって、現代(公開時である1960年)を舞台にした『青春残酷物語』では、由紀・秋本世代はすでに戦いに敗北した者として登場する。彼らは民主主義の確立という未来を信じ、青春をかけて抑圧してくるものと戦ったが、理不尽な形で挫折に終わった。

 

もうひとつ、見過ごせないのが真琴の父の世代である。作中で彼は語っていないが、敗戦によって大きな影響を受けたであろうことは想像に難くない。それまで軍国主義で米英を敵としていた日本が、敗戦を境にアメリカを規範として民主主義国家へと180度転換する。このときの変わり身の早い大人たちに対する不信感について、戦時中に思春期を過ごした加賀乙彦さんは次のように述べている。

 中学校に復学すると、かつて「英語は人間としては最低の人種、鬼畜米英の言葉だが、戦争に勝つための諜報活動に役立つから勉強せよ」と命じていた英語教師が、「英語を学び、優秀で平和を愛好するアメリカ人と親密になろう」と熱弁をふるう。「アメリカは神の末裔である天皇陛下もいただけず、卑しい民衆出の大統領を持つ駄目な国だ」とけなしていた歴史の教師が、アメリカの歴史を讃え、「民主主義こそ尊い精神だ」と語る。

(中略)

 三歳のときに満州事変が勃発し、以来、川が切れ目なく続き広さを増すように、戦争は私の十六年の人生を彩っていました。言うなれば、十六年間、悪魔にささやかれ続けていたようなもの。家でも学校でも、勉強も遊びもすべてが戦争のため、勝つためにあるとされてきたんです。戦争中の大人たちの勇ましい発言、すこしでも疑いを抱くと罰してきた強圧、日本は必ず勝つ、しかし勝つためにはおまえたちは喜んで命を投げ出せという教育……あれはいったいなんだったんだ!? どうして誰も責任をとろうとしないんだ!?

 

引用元:加賀乙彦『悪魔のささやき』、集英社

こちらの世代もはしごを外されたような感覚を覚えたことだろう。由紀・秋本世代にしろ、真琴の父世代にしろ、一時は確固たる理想や目標を提示されていた。ゆえに人々は理想や目標を信じ、それに向かって愚直に生きていけば良かった。そうすることで幸せになるという確信があったわけである。

だが、急にはしごを外されることで、確信は砕け散る。そうなれば、これからは何を目指し、何のために生きるべきなのだろうか。何と戦えば良いのだろうか。ふたつの世代がそのような葛藤に苦しめられてきたであろうことは何となく察せられる。

 

主人公・清と真琴の戦い

そして、清・真琴世代である。はしごを外され続けた結果、この世代の頃には「こうすれば良い、こうすれば幸せになる」という理想がなくなっているという状態だ。伊藤は全学連として政府と戦ってはいるが、恋人の陽子にこのようなことを言われてしまう。

「ねえ、学生運動なんかに深入りして、旗なんか振り回しても仕方ないと思わない?そんなことより、早く結婚すること考えて」

伊藤はそれに反論するどころか、「うん、俺もそれは考えてるよ」と意見を合わせる始末である。

確固たる理想もないのは伊藤だけではない。ノンポリの清と真琴にも、何のために生きて、何と戦うべきなのかという目標も理想もない。

 

だが、清も真琴も戦っていないわけではない。秋本は清たちについて、こう述べる。

「俺達とは逆に欲望を全部貫くという形で世の中に怒りをぶつけているよ」

それゆえに清と真琴の戦いは反社会的だ。真琴を餌に中年男性をおびき寄せ、彼女に手を出させた直後に清がそれを咎め、金を強請る。典型的な美人局の手法である。このことについて、清は意気揚々と言う。

「女の子見りゃ悪戯しようって奴をぶん殴るのさ。一挙両得だぜ」

清の怒りは中年男たちに向かう。中年男とは清にとって「金や自家用車で女が買えると思っている連中」なのである。

 

しかし「金や自家用車で女が買えると思っている」ことの何が清の怒りを煽るのだろうか。

清があまり裕福でないことは彼が大学の授業料の工面に困っていることから推測できる。経済的な理由で除籍の危険にさらされ、真琴とデートをしようにも遊ぶ金もない。後に真琴が清の子を妊娠するが、もちろん産み育てるだけの資金もない。だからと言って堕胎するだけの金もないから、にっちもさっちもいかない状態だ。こう考えると、清を抑圧するものは金だと言えるだろう。

その一方、金で何でも解決し、金で自分の欲望を満たす者たちがいる。自分を抑圧する金への怒りを清は中年男たちにぶつける。いや、何だったら最初は真琴にもぶつけていた。ただ、もっともらしい怒りの対象が中年男という形を取って目の前に現れたゆえ、怒りの矛先が真琴から中年男に移っただけのことだろう。

 

しかし、1960年が高度経済成長が始まったばかりの時期だと考えると、清の金への怒りは何やら示唆的に思えてくる。清の怒りの対象である金の先には、時代や社会が透けて見えるような気がするのである。清もまた、由紀や秋本のように体制側と戦った。ただ、先行世代と異なり確固たる目標が示されていないため、戦いの手法は反社会的で不健全なものとなる。ゆえに、その最期は暴力にまみれ、凄惨なものとなってしまった。

 

さて、真琴はどのような形で抑圧するものと戦ったのだろうか。それは「許されない愛を貫く」という戦いだったのだと私は思う。家族に咎められ、学校で呼び出しを受けてもなお、真琴は清を愛することをやめなかった。しかし、その愛は清本人から潰される。金――ひいては世間に押し潰された清が、堕胎の要請という形で真琴の愛を叩き折ってしまうのだ。

真琴の堕胎直後、清は心根を入れかえ、彼女を真っ当に愛そうとする。だが、真琴と添い遂げるにも経済的な困窮が立ちはだかってくる。終盤、清の元恋人である人妻の政枝が二人のデートを邪魔してくる。二人はタクシーに乗り、政枝を撒くことに成功するのだが、どちらも金の持ち合わせがなかったことで、支払いができないというトラブルが発生する。そのときに現れたのが政枝だ。事情を知った彼女は清たちの代わりに運転手に金を支払う。政枝から逃げていたはずなのに、逃走のための金を政枝に払ってもらう。この上ない皮肉である。

この出来事で心折られた清は、真琴と添い遂げることについて絶望視し、別れを告げる。

「俺達、自分を道具や売り物にして生きてくほかないんだ。世の中はそうなってるんだ」

「二人になったってちっとも変わりゃしないよ。お互いに傷つけ合うばっかりさ。それより一人で気楽にやれよ。どうせ駄目になるにしても」

真琴の愛もまた、清を経由する形で金によって粉砕される。

 

戦いに敗れた二人が命を落とすのは、自然な成り行きなのだろう。由紀・秋本は生きる目的を失ったまま妥協した人生を送っているが、青春を燃やし尽くした清と真琴の結末は死しかなかったのだと思う。

 

だから、この物語は「残酷」だ

秋本は、かつての由紀との破局についてこう語る。

「世の中の歪みが俺達の愛情を歪めちゃったんだよ」

青春世代の若者は、世の中の歪みをまともに受けてしまうように思う。大人になれば、ある程度は取れる選択肢も増えるし、歪みをやり過ごす狡猾さも多少は身につく。しかし若者は、歪みに対する防衛手段がない。

それでも何とか青春時代を生き残った者が大人になり、新たな青春世代を抑圧するという流れが何ともグロテスクに感じる。

戦った先にあるのは敗北か、または体制側への同化か。身も蓋もない喩え方をすれば、ゾンビ映画において主人公に用意された結末がゾンビに殺されるか、自分もゾンビになるしかないような状態である。ゾンビに対する勝利というハッピーエンドは用意されていない。だからこそ、この作品は残酷だ。世の中の歪みによって青春が理不尽にも打ち砕かれ、世の歪みが再生産されていくという残酷な物語なのだ。

 

 

なお、伊藤の戦いの結末が描かれていないのは、作品が公開された1960年6月3日の時点では60年安保闘争の決着がついていなかったからである。ここから間もない6月15日、デモ隊が国会構内に突入するのだが、その際に東京大学の学生でありブントの一員だった樺美智子が死亡。6月19日には安保条約が自然承認となる。清たちを追いかけるように、現実の全学連も敗北したわけである。

この60年安保闘争世代の敗北が描かれているのが先述した『日本の夜と霧』だ。武装闘争時代の野沢を秋本役の渡辺文雄が、60年安保闘争世代の玲子を真琴役の桑野みゆきが演じているのは、やはり大島監督の何らかの意図があるのだろう。

それはともかく、『青春残酷物語』と『日本の夜と霧』は姉妹編と言ってもいいように思うので、片方を観た人は、もう片方も観ることをおすすめしたい。

※桑野みゆきさんの名前を間違って表記していました。お詫びの上、訂正いたします。

 

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※『悪魔のささやき』加賀さんの著作。バー・メッカ殺人事件の正田昭のくだりが、清の怒りとどこか重なるものがある。

 

※学生運動の歴史に関しては、こちらの書籍を参考にさせていただいた。

 

 

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