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『サーミの血』ネタバレ感想――自己実現は喜びばかりではない。罪悪感に囚われた少女の物語

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※注意!『サーミの血』『アナと雪の女王2』のネタバレがあります。

 

Amazonプライムビデオの「見放題が終了間近」のカテゴリにあったので、なんとなくのノリで観賞した。アマプラのあらすじを見て、「なるほど。旧態依然とした生まれ故郷が嫌になっていたところで都会の青年と出会い、主人公が新たな世界を知る話なのか」と思っていたが、そんな甘いものではなかった。

 

 

 

 

あらすじは以下の通り。

1930年代、スウェーデン北部のラップランドで暮らす先住民族、サーミ人は差別的な扱いを受けていた。サーミ語を禁じられた寄宿学校に通う少女エレ・マリャは成績も良く進学を望んだが、教師は「あなたたちの脳は文明に適応できない」と告げる。

そんなある日、エレはスウェーデン人のふりをして忍び込んだ夏祭りで都会的な少年ニクラスと出会い恋に落ちる。トナカイを飼いテントで暮らす生活から何とか抜け出したいと思っていたエレは、彼を頼って街に出た――

 

引用元:映画『サーミの血』公式サイト


www.youtube.com

 

 

サーミ人の少女エレ・マリャは自由を求める

スウェーデンの先住民「サーミ人」

不勉強なもので、サーミ人について何も知らなかった。観ている最中に『アナと雪の女王2』におけるアレンデールに征服された先住民のことを思い出したが、まさにサーミ人をモデルにした民族だったのだという。

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『アナ雪2』では、アレンデールが隠し続けてきた、先住民ノーサルドラへの迫害について言及されるくだりがあった。この『サーミの血』でも、私たちの知らなかった、スウェーデンにおける先住民への迫害が描かれる。

 

 

虐げられるエレ・マリャたち

サーミの集落でトナカイを放牧しながら暮らしていた主人公エレ・マリャは、妹とともに寄宿学校に進学する。

寄宿学校のクラスはエレ・マリャたちと同じサーミ人の少年少女ばかり。にもかかわらず、学校ではサーミ語は禁止され、スウェーデン語をしゃべるように強制される。たどたどしいしゃべり方で詩を暗唱すれば、教師に鞭打たれる。

サーミ人のための学校で、サーミ人への迫害が行われている。学校だけではない。エレ・マリャたちが外を歩けば、近所の青年たちから「不潔だ」と罵倒される。学校を訪問してくる学者たちは差別的な言葉こそ投げつけてこないものの、生徒たちを研究対象としてしか見ておらず、非人道的な扱いをする。エレ・マリャたちが血の通った、心のある人間だと見ていない。

 

 

スウェーデン人に憧れるエレ・マリャ

抑圧的な環境からだろうか、エレ・マリャはスウェーデン人としての暮らしに憧れを持つ。民族衣装を脱ぎ捨て、「クリスティーナ」と名乗り、彼女はダンスパーティに参加した。そこでスウェーデン人青年ニクラスと出会い、恋に落ちる。初めて知ったであろう、ダンス、煙草、男性とのキス。彼女が身を以て外の世界を体験したシーンだ。

 

古い慣習が続くコミュニティに生まれ、違和感を感じながら生き続ける主人公の話は多い。この場合、外の世界を知るシーンというのは希望に満ちている。その後、古い世界から飛び出すために周りと戦う苦しみはあるが、ストーリー展開に対する心配はあまりしない。だいたいの主人公は外の世界と自由を勝ち取ってくれるからだ。

だが、ダンスパーティをきっかけに学校を飛び出したエレ・マリャの姿には不穏さがつきまとう。民族衣装のまま、汽車に乗り込んだ彼女を訝しげに見つめる人々。スウェーデン人になりすますためにエレ・マリャが行う盗みという行為。

 

県都ウプサラに暮らすニクラスを訪ねるエレ・マリャだが、そこで彼女が歓迎されることはない。スウェーデン人になりすましたつもりでも、人々は彼女をサーミ人だと見抜き、研究や娯楽の対象として接する。終盤、ホームパーティに乗り込んだエレ・マリャが人類学専攻の学生から頼まれ、ヨイク(サーミ人の民族音楽)を歌うシーンは痛々しい。最初はワクワクした顔で聞いていた周りの人間が、ヨイクが長引くにつれ、やがてうんざりとした顔へと変わっていく――

迫害されるか、さもなくばスウェーデン人の好奇心を満たすために生きるか。いずれにしろ、そこにエレ・マリャの望む自由はない。

 

 

自分らしく生きたことへの代償

とにかく説明の少ない映画だ。ナレーションは勿論ないし、登場人物がわかりやすく自分の心情を述べるシーンも少ない。ここに至るまでに私がエレ・マリャの感情として書いている部分も、あくまでも私の解釈であり、彼女が何を考えていたか正確にはわからない。

だから、ただただ自分なりに解釈するしかないのだが、私個人としてはエレ・マリャはサーミ人であることそのものを嫌ったのではないと思っている。彼女が嫌ったのはサーミ人であることで受ける不当な扱い、制限(引用したあらすじにあるとおり、サーミ人は端から進学を許されていない)、スウェーデン人からの好奇の目や蔑みなどだ。それらから逃れるために、彼女はひたすらサーミ人であることを――「エレ・マリャ」という人間であることをやめようとした。

 

エレ・マリャがいかにしてスウェーデン人「クリスティーナ」としての人生を手に入れたかは描かれていない。ただ、本編の冒頭とラストに挟まれる、スウェーデン人として生きる老女エレ・マリャの姿から推測するしかないのである。

 

老いたエレ・マリャは故郷に置いてきた妹ニェンナの葬式に出席する。これは彼女がスウェーデン人に同化したことを表すシーンなのだと解釈していたが、公式サイトに載っている松田洋子氏のコメントを読んでハッとした。

自分の居場所にたどり着くまで苦しんだ者なら覚えのある痛み。 故郷でヨイクを歌いトナカイを守り続けた半身である妹を弔う旅。 一番の理解者は一番傷つけた妹で、帰れないことを知ってて帰りを待っていてくれた妹に許しを請うために。

 

引用元:映画『サーミの血』公式サイト

自分自身であるために、故郷で生き続けるわけにはいかなかった。その一方で、犠牲にしたものがある。エレ・マリャほどは壮絶でなくとも、夢を叶えるために上京したが、故郷に置いてきた人への罪悪感が消えない、なんて経験を持っている人も、決して少なくはないと思われる。

ニェンナの存在は、エレ・マリャにとって自分自身であることを追求した代わりに負わされた、罪悪感そのものなのかもしれない。

 

 

最後に

少数民族に対する差別描写に対して目が行きがちになるが、それだけではない映画に感じる。

建前上、現代に生きる私たちは、自分の意志のもと自由に生きていけるとされている。それでも、自分に流れる血が、絆が(ここで述べる絆は、「ほだし」という意味での絆だ)、今まで歩んできた人生が、どうしたってついて回る。結局は罪悪感に負けて自分の生きたい道を捨てる人もいれば、自由を追求して罪悪感を背負い続ける人もいる。

あらためて、自己実現の難しさを思った。

 

 

 

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