本日、とあるVTuberの活動休止に関するニュースを目にした。恥ずかしながら、このニュースを見るまでその人のことは知らず(老化って、こういうとこでも感じるよね)、これまでの経緯等について詳しいことも知らないという状態。ただ、この方が活動休止を伝えている動画を見ていて、ものすんごく考えさせられてしまった。
当該動画の後半では、その方に熱狂する余り過激化したファンへの苦言が連ねられている。動画やネット記事を見るに過激ファンの行為として、その方の動画*1にふさわしくない言葉をしつこく書き込んだり、コラボ先への迷惑行為、その方へ一方的なアドバイスをする等があったらしい。
事情をよく知らない私ですら、その怒りが生々しく伝わってきて圧倒された。特に印象に残ったのが、「お前が好きなのは脳内で創り上げた俺なのか、実際の俺なのか」「お前の言う通りにはならない」というような主旨の言葉だ。
人気が出るということは、顔も知らない誰かから一方的に理想像を押しつけられ、その人の都合のよい形に填められるというストレスがついて回るものなのだなぁと実感させられた。
私は器が小さいので「そんなことするなんて、あなたらしくないよー☆もっと、こうすればいいのに」と言われたときには、「あほんだら!お前の中の私なんて知るかよ、ばーかばーか!」と相手を罵倒したくなる(小心者なので、実際には言わないが)。とはいえ私は一般人で、接する人の数は知れているし、上記のようなことを言われる場面だって限られている。
だが、有名な配信者となると万単位の規模となるわけで、しかも匿名の集団から一方的に理想像を押しつけられるとなると、そのストレスは想像を絶するものがある。そりゃ、怒りも噴出するよなぁと思ってしまった。
などと、有名人側に寄り添うようなことを書いたが、私はドルヲタなので上の文章はそのまま私自身にブーメランとして突き刺さってくる。私だって推しに勝手な理想を投影し、推しが私の理想通りの行動を取らなければ、勝手に失望する勝手な信者の一人なのだ。
以前取り上げた『明日、私は誰かのカノジョ』。『明日カノ』でも「推し」が絡んでくるエピソードがあったため、今回の件でそれを思い出した。
以下、『明日、私は誰かのカノジョ』9~11巻のネタバレがありますので、ご注意ください。
件の話はエピソード5「洗脳」。ざっとしたあらすじはこんな感じだ。
主人公の留奈は高級ソープに勤務している。ある日、留奈の仕事場に珍しく若い男性・真鍋が客としてやって来る。真鍋は年齢こそ若いが、着ているものからして羽振りが良い模様。それもそのはずで、彼は人気配信者「バシモト」の中の人だった。
色々あって恋愛関係になる留奈と真鍋。だが、留奈が仕事用のSNSにアップした写真に真鍋が写り込んでおり、運悪くそれがバシモトのファンに見つかってしまう……。
エピソード5にはもう一人、主人公のような存在がいる。バシモトの熱心なファン、高校生の心音(こころ)だ。当初は純粋かつ熱狂的にバシモトを応援していた心音だったが、とある出来事がきっかけで5ちゃんねる的な掲示板のバシモトスレを閲覧してしまう。
そこにあったのは、「SNSでバシモトのサブ垢からDMをもらった」という書き込み。自分は熱心にバシモトを推しているのに、自分は彼のサブ垢からフォローされておらず、DMも貰っていない。それまではバシモトのスキャンダル騒ぎがあっても、盲目的に彼を信じていた心音だったが、この書き込みを見たことがきっかけで、彼女の信念が揺らぎ始める。
そこに来たのが、留奈のSNS炎上だ。バシモトはファンを「オキニとそれ以外」に分けているかもしれないという不安を抱いていたところに舞い込んだ、彼が風俗嬢と交際中だというニュース。心音はバシモトに幻滅し、彼への好意は一転して憎しみへと変わっていく。
ビターラブストーリーと銘打たれている『明日カノ』だから、どの話も読者を甘やかしてはくれないのだが、私は心音のエピソードが特に読んでいてキツかった。
バシモトにはオキニのファンがいるかもしれないと知った瞬間の心音のモノローグは以下の通りだ。
私サブ垢からフォローなんてされてない…
バシくんからフォローされて バシくんからDMもらえる子がいるの…?
私はツイートの通知とってるし
更新されたらすぐにいいねリツイートして
必ずリプで好きって気持ちを伝えてる
(中略)
こんなに好きで!
こんなに推し事頑張ってるのに!!
引用元:をのひなお『明日、私は誰かのカノジョ(10)』、小学館
続いて、留奈の炎上騒ぎがあった際のモノローグ。
バシくんが好きで!
大好きで!
ただ推し事していただけなのに!
なんでこんな嫌な思いしなきゃいけないの…!!
風俗女も! 同担も! バシくんも!
大っ嫌い!! みんな死ね!!
引用元:をのひなお『明日、私は誰かのカノジョ(11)』、小学館
あー、バシくんのこと本当に好きだったんだねー。報われなくって可哀想だねー。などと、棒読みで心音に語りかけたくなる。とにかく心音は一方的にバシモトを神のように崇め、生身の人間としてのバシモトを知った瞬間に勝手に失望し、勝手に悲劇のヒロインへと変貌する。『明日カノ』がどのキャラにも肩入れしない描写で助かった。これがもし、作者が「心音ちゃん、バシくんに裏切られて可哀想」なんてスタンスで描かれていたら、胸焼けしていたところだ。
ただ、心音のエピソードがキツかったのは彼女の視野狭窄ぶりだけが原因ではない。読んでいる私自身の幼稚性を客観的に見せられているような気持ちになったせいでもある。心音のような心境になったことは、ドルヲタをしてきた私にだって何度もあるわけで。
若い頃の私は、今で言うところの推しには完全無欠な神であってほしいと願っていた。ファンは平等に愛してほしかったし、プライベートで特別な人なんていてほしくなかった。私の若い頃はネットなんて普及していなかったから、推しにオキニがいる等の情報が入ってくることがなかったのは幸いだった。もし中高生時代の私がそんなことを知ったら、心音みたいに推しに憎しみを抱いていたかもしれない。いやー、カインとアベルの話って他人事じゃないっすな!
そういう考えを改めねばなーと思い始めたきっかけは「ファンと仁とのEternal」コピペに出会ったことだ。ご存じない方は下のリンク先を読んでもらいたい。
このコピペの何が良いって、赤西仁さんをプライベートと仕事(音楽)に分けていることだ。以降、私は推しを「人間としての推し」「芸能人としての推し」として考えるようになった。あくまでも私は後者しか見ないし、前者は徹底的に私に無関係なものだ。推しのスキャンダル?知りませんね。プライベートでは好きなこと何でもしてください。私の推しは「芸能人としての推し」なので気にしませんから、ってなもんだ(あ、でも犯罪行為はしないでほしい)。
と、偉そうに言ったが、気を抜くと私の中の心音ちゃんが目を覚ましてしまいそうになる。『明日カノ』で誰かのファンでいることを「宗教」と例えるシーンがあるが、完全に同意だ。宗教だから、信仰心が常に試される。
冒頭の話から逸脱しているついでに、さらに関係あるようなないような話をしたい。
ここ数年コンサートに行くたびに、私は宗教行事に参加している気分になる。考えてみてほしい。数万人の人間が一箇所に集まり、ステージ上のたった数人のアーティストに熱狂する。この空間の何と特異なことか。同じ場所でも、無人の状態ではここまでの神聖性はないのではなかろうか。
この場合、神ってどこにいるんだろうか?個人的に色々と考えたのだが、やっぱりアーキタイプのように目に見えないものなのだろうと思う。ついでに言えば、同じ会場にいる観客それぞれが、自分だけのアーキタイプを持っているはずだ。なら、ステージにいるアーティストたちは何なのかといえば、ファンとアーキタイプを仲介する者、つまりシャーマンである。歌い踊るシャーマンのもと、何万人もの人間の心が溶け合い、ひとつになる…。
何か、こう考えると、コンサートがすげーありがたいものに思えませんか?どうですかね?
コロナ禍になって、実地での観賞が難しくなって久しい。配信とかライビュとかで公演自体は楽しめるのだが、遠隔からだと私はなんだか物足りない。地元の礼拝所での礼拝で充分なのに、敢えて聖地まで赴く人々の気持ちがわかった気がしたコロナ禍である。
閑話休題。
誰かを推す、熱狂する、信仰するというのは難しい。もちろん、健康的な推し活なら問題ない。生きることが楽しくなるし、心の支えができる。ときめきって、美容にも良いですしね!
だが、心音のように推しに全面的に依存するのは改めて言うまでもなくヤバい。アーキタイプは目に見えないからこそ、自分自身ですら追っていることに気づかない。手を伸ばしても伸ばしても届かない物を捕まえようとして足掻くのって、どこか不毛な気がする。メビウスの輪の形をした迷路を延々と走り続けているような感じだな、と。
前回取り上げた『ファウンダー』の主人公レイ・クロックは、まさに彼にとっての「アメリカ」という形のないアーキタイプを追い続けた、いじらしく報われない男だったと私は認識している(結果的にマクドナルドが世界中に広まったから、私としてはありがたいんですがね)。
この件については、今でも自分の中でどうすべきか結論が出ていないので、締まらないまま終えたいと思う。いやあ、宗教問題って難しいねえ!
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*1:ゲーム実況動画