※注意!『絞死刑』のネタバレがあります。
※人名は全て敬称略としております。
大島渚監督作品。1968年公開。
主人公Rのモデルは、実在の死刑囚・李珍宇(り・ちんう、イ・チヌ)。女子高生が殺された小松川事件の犯人として、1962年に死刑を執行された。
あらすじ
死刑場で死刑が執行されている。死刑囚は二件の強姦殺人事件の犯人R。だが、滞りなく刑が執行され、所定の時間が過ぎてもRの脈拍は止まらない。死刑によって死ななかったRは、さらに自分がRであるということも忘れていた。心神喪失状態である。刑法により、心神喪失状態の人間を刑に処することはできない。刑務官たちは再度刑を執行するため、Rに「Rであること」を思い出させようとする…。
登場人物
- 所長(佐藤慶):Rの記憶を戻そうとするうちの一人だが、教育部長ほど熱心ではない。何かと検事に判断を仰ごうとする。
- 教育部長(渡辺文雄):獄中のRの教化を担当していた。「Rに罪の意識を取り戻させた上で刑に処すべき」という意見を持つ。
- 検事(小松方正):所長に判断を仰がれるたびに煙に巻く。言葉少なく、トラブルに動じる様子もない。
- 医務官(戸浦六宏):この事態を楽しんでいるかのような男。かつて、戦犯として投獄されていたことがある。
- 教誨師(石堂淑朗):「今のRにはRの魂がないから、彼はRではない。よって、今のRを死刑にしてはいけない」と主張する。性欲に対し、非常に抑圧的。
- 保安課長(足立正生):Rの死刑を強行しようとする。中にはRに歩み寄ろうとする刑務官もいる中、彼は一切歩み寄ろうとしない。
- 検察事務官(松田政男):Rに同情的なことを言ったりもするが、そのたびに自分の意見ではなく事実を報告しているだけだと付け足す。
- 女(小山明子):Rと刑務官たちの前に突然現れた女性。心神喪失状態のRに朝鮮人の心を取り戻させようと訴えかける。
- R(尹隆道):死刑囚。絞首刑に処されたものの生き残り、自分がRであることを忘れた。
感想
ネタバレなし感想
まず、ライトな感想をば。
死刑を題材にした映画ということで、全編シリアスでどんよりとした雰囲気の作品なのかと身構えていたが、全く違っていた。とにかくブラックコメディに満ちあふれているのである。
Rの記憶を呼び戻そうと七転八倒する刑務官たちの姿が本当に面白い。特にリアクションが大きな教育部長が見ていて笑ってしまう。手を替え品を替えRに訴えかける彼だが、それがことごとく失敗に終わる。そのたびに地団駄を踏んだり、「バカバカバカ!バカー!!!」とRに向かって怒鳴ったりしている姿は、最早コントだ。作中、私は何度も声を出して笑ってしまった。
だが、本編の後で予告篇を見たとき、ナレーションの中にある以下の部分で私は居心地の悪さを覚えてしまった。
それは事実滑稽で可笑しい存在でしかない俺たち日本人、皆さんたちの姿にぴったりだと思う。これを見て皆さんは笑って、笑いながら魂を締めつけられるような痛みを感じるはずだ。
残念ながら、私は大島渚が信じていてくれるほど賢くはなく(一応言っておくが、これは厭味ではなく自戒である)、本当に前半部分は純粋にコントを見ているような気持ちで観賞していた。
だからこそ、後半に展開される朝鮮人から日本人に対する弾劾や、「死刑とは」「国家とは」「想像と現実」の問答に冷や水を浴びせられるような気持ちになる。
この映画には作り手たちの怒りが込められていると私は思う。だが、わかりやすい怒りとして表現せず、むしろ笑いでコーティングすることで対象の滑稽さ・グロテスクさが浮き彫りになってくるのかもしれない。
重苦しさのベクトルが観る前の想像とはまったく異なっていたが、それでもなお見終えた後に何かが引っかかってくる。簡単に忘れさせてくれない。そんな作品だったと思う。
ネタバレあり感想
予告
詳しい感想に入る前に予告篇の話をしたい。
今作の予告篇は保安課長役の足立正生によって制作された。そのときの思い出を足立は『キネマ旬報 2013年3月下旬号』で語っている。それによると、大島に予告制作を頼まれた足立は、「この映画「絞死刑」とは何なのかを、大島さん自身に宣言してもらおう!」と思い至ったという。
予告篇は本編のカットをバックに、大島によるナレーションが流れる。この映画を何のために制作したのか、観客にどのように見てもらいたいのか。監督自らが映画の意図を語ってみせる予告というのを、私は初めて見た。
「国家は何故、法の名の下に合法的に人を殺すことができるのか。何故人を殺す権利があるのか」というセリフを境に予告は終盤になり、画面には絞縄で首をくくられた状態の大島が映る。
例え死刑に処せられたって、俺たちは死ぬわけにはいかない。また、戦争、国家利益の下に大量の人間を皆殺しにする、そういう戦争がある限り、俺たちは死ぬわけにはいかない。
首を吊った状態の監督が、今作のテーマを叫ぶ。凄まじい予告篇である。
このときの撮影風景について、足立は語る。
大島さんは、首縄が食い込んで顔がどす黒くなるのも構わず、「死刑反対」の熱弁を振るい始め、「日本人の私たち皆が死刑を許して来た!」「映画をつくる私たちも! 観ているあなたたちも!」と一気呵成に述べ、「この映画は俺のゲバラたちと共に作った!」と締めくくった。
引用元:『キネマ旬報 2013年3月下旬号』、キネマ旬報社
残念ながら予告篇は本編と同じくモノクロ映像であるため、大島のどす黒い顔色は確認できないが、首をくくられたことによる声のかすれは嫌でも伝わってくる。喉を潰されたような(実際、相当に圧迫されているはずだ)声による叫びに、観客である我々は大いなる覚悟を強いられる。
正直なところ、私は死刑制度について賛成とも反対とも言えない。中立派ではななく、賛成と反対の間を常に行ったり来たりしているのだ。あるときは「人の命を奪ったのだから、命を以て償うべきだ」と思い、あるときは「無謬の存在ではない人間が、死刑という不可逆な刑を用いるべきなのだろうか」と思う。前者を「Aの私」とし、後者を「Bの私」とする。この予告は、Aの私をグラグラに揺さぶり、「これで良いのか」と何度も何度も問いかけてきた。
私は『絞死刑』のクライテリオン版ブルーレイを購入し、本編を観賞した後、映像特典の予告篇を観た。正直なところ、本編以上に予告篇によって動揺させられた。大島の苦しげな声、首を絞められたことによってむくんだ顔、それらと共に発せられる怒りのメッセージ。私は未だにどう受け取るべきかがわからない。だが、これは私にとっての何かの始まりなのかもしれない。
罪人とは誰なのだろうか?
長々と予告篇について語ったが、それもこの数分の映像に『絞死刑』のエッセンスが凝縮されているように思うからだ。その中で大島は「俺たちの想像したRという人物を作り出し、その人物によって死刑制度、それからその死刑を以て我々を威嚇している国家を弾劾する作品を作ろうと考えた」と語っている。
この作品で弾劾されているのは死刑制度だけではない。その制度を敷いている国家にも、いや、むしろ国家の方にこそ、作り手の怒りがむけられている。
作中では三種類の殺人が語られる。
ひとつ目はRのやった二人の女性への殺人。ふたつ目は死刑による殺人。みっつ目は戦争による殺人。さて、そのうちふたつ目と三つ目は、どちらもお国のためにやるもの――よって死刑と戦争は同質のものと教育部長によって定義される。
では、ひとつ目はどうだろうか。Rによる殺人について、女は「日本人によって虐げられてきた朝鮮人が復讐として犯した犯罪、日本および日本帝国主義がRに犯させた犯罪」と表現する。つまるところ、ひとつ目も国家によって起こった殺人であり、三種類の殺人はすべて等号でつなぐことが可能なのだ。しかし、有罪となって罰される者もいれば、咎められない者もいるという不条理。
登場人物の一人・医務官は過去にやってもいない殺人罪で戦犯となり、三年半も投獄されていたという。所長が戦時中に行った殺人を意気揚々と語っていると、医務官は彼に掴みかかる。
この野郎!貴様のような奴のために、俺は戦犯にさせられたんだ!
所長のように人殺しを犯した者の罪を代わりにかぶった医務官。しかし、上記のロジックを使用すると、こうも言える。所長(および、戦時中に人殺しをした日本人)は国のために人殺しをした。つまり、国が犯した人殺しだ。となると、「貴様のような奴のために、俺は戦犯にさせられた」医務官は国家の罪をなすりつけられたということになる。
その後、医務官は医者として死刑囚を見届けることになる。戦争と同じく国家による人殺しに、彼は今度こそ本当に関わることになったわけだ。当初、彼は「絞首刑が嫌いじゃない」と言ってみせているが、それが言葉通りではないことが作中で明かされる。国家によって無実の罪を負い、国家のために人殺しをさせられる。医務官は国家によって何重にも罪を負わされた被害者として、作中で描かれているのではないだろうかと思ってしまった。
国家なるもの
では、Rや所長たちに人殺しをさせ、医務官に人殺しの罪をなすりつけた国家とは何なのだろうか。
作中では、以下のように表現される。
- Rの表現:「見えないもの」
- 検事の表現:「心の中に」あるもの
つまりは、共同幻想ということなのかもしれない。せめて「100分de名著」*1でもいいから、吉本隆明の『共同幻想論』に触れておくべきだった。しかし、今からだと時間がかかるので、このまま続けさせていただきたい。
国家が共同幻想ならば、それをつくり上げているのは国家を形成する全ての人々だ。もしその中の誰かが死んだり、心の中から国家をなくしてしまったとする。それが一人だけで終わらず、国民全員にまで伝播したとしたら、どうなるだろうか。
Rは言う。
じゃあ、仮に検事さんがそうだとします。僕を殺した検事さんもその罪を免れない。別の検事さんが検事さんを殺す。その別の検事もまた誰かに殺される。そしたら日本国中誰もいなくなってしまいます。
誰もいなくなったとき、日本という国家は消えてしまう。
我々は君のそういう思想を生かしておくわけにはいかないんだ。
ラスト近くで検事がRに言う「そういう思想」とは、上記のRのロジックも含んでいるように思える。
共同幻想を維持するためにはRの思想は障害となるだろうし、となると、大島の言うように「死刑を以て我々を威嚇」する必要が出てくるのかもしれない。それを望んでいるのは誰か。国家か。ならば、国家を構成する一人一人に責任があるということになる。
ここで以前読んだ大塚英志による『社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門』という本の以下のくだりを思い出す。
「戦前」の日本には曲がりなりにも普通選挙が存在し、有権者は自分たちで政治選択をすることができました。それが満州事変から日中戦争、太平洋戦争に至る十五年間の戦争期間において、戦前の有権者は自らの考えなしの選択で戦争の進行を選んだのであって、投票所で銃を突きつけられて仕方なく投票したわけではないのですね。
引用元:大塚英志『社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門』、KADOKAWA/角川学芸出版
何か『絞死刑』から感じさせられた国家の姿に繋がるような気がする。別に魔王のような巨大な存在が現れて、民衆を弾圧して国家が作られたわけではない。それを「良し」とした者たちが無自覚につくり上げてきた。
念のために言っておきたいが、私は「だから日本は駄目だ、日本は悪だ」と言う気はない。この病理は日本に限らず、どこの国ででも現れるものだと考えているからだ。よく言われるのがナチス政権を生み出したドイツである。この場合もまた、ヒトラーという巨悪の存在に人々が無理矢理支配されたわけではなく、当時「世界一民主的だ」と評されていたワイマール憲法下で行われた民主的な選挙でナチスが選ばれたという話は有名だ。
では何を言いたいのかというと、「国家なりコミュニティなりをつくり上げる構成員のひとりであること」から免れない人間として、どう考えるべきかを考えたいのだ。
Rは最後に「あなた方を含めてすべてのRのために、Rであることを引き受け」て絞首台に消えていった。その直後、検事の声が響き渡る。
所長、今日はご苦労でした。よく務めを果たしてくれました。教育部長、あなたも。保安課長、あなたも。(中略)この映画を見てくださったあなたも。
私たちは、共同幻想をつくり上げている一員であり、同時に共同幻想から威嚇され、罪をなすりつけられている。Rは私たちのために死んでいったのだろうか。だとすれば、Rの死を無駄にしないためにはどう生きるべきだろうか?気を抜けば、検事の言葉のように我々もRを処刑した側(そして、Rの処刑を良しとすべきと思った側)になってしまう。
最後に
とはいえ、先に述べた「Aの私」「Bの私」がひとつに統合されることはなく、今後もこの二つの私の間で私は揺れ動いていくのだろうと思う。そのうちひとつに統合することはあるのだろうか?まだ目処は立っていない。
正直、この作品について、感想をひとことではまだ述べられない。感情を動かされた。これは確かだ。だが、それを言語化できない。正直、ここまでに書いた文章も、私の中ではまだしっくり来ていない。これからも『絞死刑』について向き合うことが、私の宿題なのかもしれない。
本当は「空想と現実」の話や「Rと女」についても語りたいと思っていたのだが、まったく考えがまとまらない。
コントを観ているような気持ちで笑っていたのに、気がつくと、居心地の悪い気持ちになっている。何か頭の中にこびりついて離れない。『絞死刑』は私にとって、そんな作品だ。だが、この居心地の悪さから目を逸らしてはいけないのだと思う。
※こちらでも『絞死刑』に触れています。
※『戦場のメリークリスマス』等、大島渚作品の感想記事リンク集
クライテリオン版ブルーレイ。映像特典として予告篇も付いている。
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