映画っていいねえ。本っていいねえ。

映画や本の感想など。ネタバレ全開なので、ご注意ください。

『戦場のメリークリスマス』など大島渚作品における登場人物の死についての私感

※当ブログは広告を掲載しています。

※注意!『青春残酷物語』『戦場のメリークリスマス』『日本の夜と霧』『絞死刑』のネタバレがあります。

※あくまでも私感です。また、特定の国や集団を責める意図はありません。本文の内容は、あくまで作中における意味合いを勝手に推察した上で述べているものです。私個人のイデオロギーは織り込んでいません。*1

 

 

 

 

歪みを受け、死んでいく者たち

『青春残酷物語』の中盤、清と同棲していることを知られた真琴が担任から呼び出されるシーンで、最後にキリストの磔刑が描かれたステンドグラスがアップになる(ご丁寧に「INRI」の文字まで映している)のだが、大島監督ほどの人の作品で意味もなく大写しにしたとも思えない。だったら、これは何なんだと気になった次第である。

 

『青春残酷物語』の感想で、時代の歪みをまともに食らってしまう若者、およびその代表者としての清と真琴について話をした。

nhhntrdr.hatenablog.com

前回の記事の繰り返しになるが、清と真琴は「指針なき時代」の中で戦い死んでいった犠牲者だと私は認識している。

それまでの世代には生き方の指針が存在した。戦時中は敵国に勝つことを信じ、それに貢献するような生き方をすればよかった。戦後は、民主主義という新たな指針を信じ、それが支えるために戦えばよかった。だが、それらの指針を信じて戦ってきた先行世代は途中で梯子を外され、理不尽な形で戦いの幕を下ろされた。

清と真琴は、それら指針が消え去り、人々が何を目指して生きるべきか迷っていた時代の象徴だ。そんな中で彼らは抑圧するものとの戦いとして、暴力や許されない愛を選んだ。しかし社会や世間の歪みは強固であり、清と真琴は戦い虚しく命を落としていった。

この「社会や世間の歪みを受け、命を落とす」ということを象徴したのが、キリストの磔刑画だったのではなかろうか。ナザレのイエスもいわば当時の世間の歪みを受けて処刑されたようなものだろうと私は思う(この辺の時代のユダヤ教の事情やユダヤ属州とローマ帝国の関係等挙げると切りがないので、省略しておく)。

 

 

さて、この「社会や世間の歪みを受け、登場人物が命を落とす」という現象は、『青春残酷物語』以外の大島監督の作品にも表れている気がする。たとえば『戦場のメリークリスマス』のセリアズ、『絞死刑』のR、『日本の夜と霧』の高尾や北見、『飼育』の黒人兵、『白昼の通り魔』のマツ子、英助、源治等々…。それぞれの作品における登場人物の死は突発的に怒ったものではなく、彼らの生きる世界に生じた歪みが修整されることなく広がっていった結果のことであるように思う。

 

 

『戦場のメリークリスマス』の歪みと死

では、その歪みとは何なのか、社会や世間とは何なのかという話である。私は『戦メリ』のファンであるため、この作品を例に考えてみたいと思う。

この作品の中で歪みを受けて死んでいくのは先に述べた通り、セリアズだ。死に方もどこか、大衆の持つ原罪を背負って死んでいったキリストを彷彿とさせるものがある。だが、私はそこにハラとヨノイも加えたいと思う。

処刑を控えたハラが納得のいかない思いを吐露したとき、ロレンスは言う。

「あなたは犠牲者なのだ。かつてのあなたやヨノイ太尉のように自分は正しいと信じてた人々の…。もちろん正しい者なのどこにもいない」

『戦メリ』で描かれていた戦争とは、国と国とのぶつかり合い以上に「自分は正しいと信じてた人々」同士の衝突という意味合いがあるように思う。それが最前線だと武力衝突になるが、どちらかが降伏したり捕縛された場では、片方がもう片方を抑圧する場となる。レバクセンバダ俘虜収容所においては強者が日本人であったため、イギリス人などの連合国側が抑圧されたが、戦後は立場が逆転する。強者は連合国側となり、抑圧されるのは日本人だ。どちらも強者の論理――「我々こそが正しい」という論理に則り、弱者は一方的に断罪される。この「我々こそが正しい」という確信から生まれるものが『戦メリ』における歪みであり、それによってセリアズ戦中に、ヨノイとハラは戦後に殺された。

 

『日本の夜と霧』の歪みと死

理不尽さを感じるのは、こういった犠牲を生んでなお、歪みが是正されないことだ。例えば『日本の夜と霧』では、学生運動に身を投じる若者たちが、実はその場その場の主流が示す方向性に流されているだけだという事実が暴露される。彼ら自身に信念はなく、また持っていたとしても、方向性を誤った主流に抗うことはない。

特に目につくのはリーダー的存在である中山の浮ついた生き方だ。彼は共産党員として仲間の学生たちのトップに立ち、武装闘争を指揮していた。この辺りの時代について、登場人物のひとりが以下のように語る。

「隣の国・朝鮮の泥沼のような戦争が続き、戦後日本に与えられた自由と民主主義が逆コースの波に押し流されようとしていた。我々はそれを食い止めるためには、武器を取って立つ以外にないと教えられ、我々学生は、その先頭に立って戦った」

しっかりと「武器を取って戦う」という指針を与えられて、彼ら学生は戦っていた。しかし、大元の共産党が方針を平和路線に変えた途端、中山は葛藤もなくそれに従う。あっさりと運動の内容を火焔瓶闘争から「うたごえ運動」へと切り替えるのだ。納得がいかないのは同じ学生運動家の坂巻と東浦だ。火焔瓶闘争時代は中山から「日和見」と呼ばれた彼らは、うたごえ運動時代になると「ハネ上がり」と揶揄される。そのことを東浦が指摘するも、中山は平然と「すべてを話し合いで解決する時代になったんだ」と述べる。

今までの方針が誤っていたから方向性を変えるのは間違ってはいない。ただ、なぜ間違っていたのかを判断していたのは、中山たち自身ではない。彼らの後輩世代にあたる太田は、中山たち先行世代の欺瞞を責め立てる。

「その十年間、平和革命を唱えたり、火焔瓶を放ってみたり、またやめたり。しかもだ、その戦術変換の理由たるや、日本の実情などとんとご存じないコミンフォルムの指令一本なんだから笑わせる」

学生たちは共産党の指示に従い、共産党はコミンフォルムの指示に従う。あくまでの上意下達での方針転換ゆえに、なぜ誤ったのかに対する反省も総括もない。そもそも、彼らは自信が誤っているという感覚もないのかもしれない。

 

特にそれを象徴するのが、言うまでもなく中山である。武装闘争時代、中山たちは大学の寮に迷い込んだ青年をスパイだとして拘束する。だが、とある騒ぎが起こり、それに乗じるように青年は逃走。その結果、高尾という青年がスパイの逃走を手伝った、あるいは高尾自身がスパイだという嫌疑をかけられる。査問の場で、高尾は中山に問いかける。そもそもあの青年をスパイだと疑う根拠は何なのかと。中山はしれっと答える。

「高尾、今でもまだ君は、我々の判断、我々の統一的な見解に疑いを持ち、それに反対しているのか。もしそうだとするなら、最早君は明らかに敵のスパイだ」

自分たちの判断や見解に間違いはない。その前提がある以上、異を唱える者の意見は封殺される。高尾は平和路線に転向後、中山たちの芯のなさを察知し、絶望から自死の道を選ぶ。死の前に高尾が口にした言葉が重い。

「奴らは幸福な奴だ。一度も自己を省みない。ああいう手合は、そのときそのときの主流のような顔をして、世の中に害毒を流すんだ」

「壁は厚いよ。俺はもうだめなような気がする。絶望の虚妄なるは、希望の虚妄なるに等しい」

『日本の夜と霧』でも「我々こそが正しい」と信じる者が、その場における弱者を犠牲にし、しかもその思考が是正されずに終わる。

 

作品のラストは中山の演説で締められる。作中、彼の欺瞞を暴こうとした太田たち若い学生世代を「現実的な見通しを失い、労働組織とその共同戦線を破壊し、世間が彼らを持て囃すのに有頂天になり、自ら何ら生産的な生活的な根拠のない存在であることを忘れ、いたずらにハネ上がっている連中」と一蹴する。そして、かつて自分も学生運動に勤しんでいたことを棚に上げ、学生たちの運動を「あくまで労働者を主体とした運動に対して、従属的な存在であるのは自明の理である。学生は自ら生活手段を持たず、それゆえ、意識においてはプチブルでしかあり得ない」と述べるのである。

そもそも「労働者を主体とした運動」という点もツッコミどころのひとつである。件のスパイ騒動で拘束されたのは、労働者だった。本来、運動の主体であるはずの労働者に対し、中山一派は従属的立場にあるはずだ。にもかかわらず、身の潔白を主張する青年の言葉も聞かず、「働いてる人間だったら、我々と手をたずさえて戦うべきじゃないか。それが何で敵権力の手先になったんだ」と責め立てたのだった。

 

高尾の述べた厚い壁が、ここにある。方針がなんであろうと、常に己の正しさを信じて疑わない人間たち。彼らが異なる立場の者たちの意見を封殺し、抑圧する。『戦メリ』の俘虜収容所でも見られた光景が、ここにもあるわけだ。積み上げられた歪みがあり、それによってその場の弱者が死に追いやられる。キリストが犠牲になったように、彼らも歪みの犠牲者だ。そして、犠牲者を呑み込んでもなお歪んだ社会は、世間は、世界は変わらない。高尾の死を経ても、後輩世代からの弾劾を受けても、中山は決して変わることがない。

 

『絞死刑』の歪みと死

『絞死刑』では、歪みを持った世界は「国家」という存在として表現される。この作品において「死刑で人を殺すこと」「戦争で敵を殺すこと(戦争で他国を侵略すること)」「犯罪で人を殺すこと」は同義とされる。すべて国家による殺人であり、殺人という行為を実行する者はあくまで国家の代行者でしかない。それでいて、その罪をかぶるのは国家ではなく代行者であるというのが『絞死刑』で提示された歪みだ。主人公の死刑囚Rは、女性を強姦した後に殺害した罪で死刑となる。

 

だが、作中でRが日本で暮らしているのは、彼の父親が被支配者として日本に連れて来られたことが明らかになる。騙されて日本に来たRの父親は過酷な労働に身をすり減らした末に仕事を投げ出し、酒に走るようになる。経済的に困窮したR一家は食事も満足にできず、Rや兄弟たちは空腹に悩まされ続けている。中でもギョッとするのが、Rが少しでも腹を満たすため、排泄物の中から回虫を取り出して食べていたことが発覚するシーンである。

斯様にRは経済的に苦しめられ、さらには日本人でないことで差別される。抑圧に続く抑圧である。さらに作中では、Rの背後に抑圧され続けた朝鮮人の歴史も透かし見えてくる。

Rの姉を名乗る「女」が刑務官たちに叫ぶ。

「あなたがた日本人に、あたしたち在日朝鮮人の気持ちがわかってたまるものですか!Rの犯罪は、日本国が、日本の帝国主義が犯させたんです!」

「これは朝鮮人の犯罪だったのよ!どす黒い、忌まわしい――だけど虐げられた朝鮮人が、日本人によって流させられた血に血で報いるたったひとつの道だったのよ!日本人は国家の名において、無数の朝鮮人の血を流した。だけど、国家を持たぬあたしたちは個人で、この手で、日本人の血を流すより他に無い。それが犯罪よ!」

Rは日本という「国家」によって困窮し差別される環境に置かれ、その結果として殺人を犯す(同時に歴史的に積み上げられてきた朝鮮人の怒りの形として、殺人を犯す)。よって、Rの殺人は「国家」がさせたものである。「国家」によって人を殺すに至ったRは、「国家」によって死刑に処される。ここでRを殺すのは刑務官であり、彼らが「国家」の代わりにR殺しの罪を背負う。目に見えず、形のない「国家」が人を動かし、人を抑圧し、人を殺すというグロテスクな循環である。

最後のシーンで、Rは自ら死刑を受け入れる。そうして彼を殺すのは、国家そのものではなく「嫌々皆の上にふわぁんと乗っかっているだけ」と言ってのける刑務官たちなのだ。

 

ついでに言及しておきたいが、大島監督が日本という特定の「国家」だけを弾劾していたとは私は思えない。『ユンボギの日記』では貧しい韓国人の少年ユンボギを抑圧する存在として、韓国という「国家」も提示される。結局、どこの国が悪い、どこの国が正しい、というわけではなく、どんな場所にも人を抑圧するものがあるわけだ。そして、どうしても歪みを受けやすく抑圧されやすいのは、その場の弱者なのである。

 

再び『戦場のメリークリスマス』について(及び、ヨノイの死について再度考えてみたこと)

さて『戦メリ』に話を戻したい。この作品において、ロレンスたち俘虜を虐待する日本人たちやセリアズの弟をいじめた学生たち、戦後ハラやヨノイを刑死させた連合国軍側に、私は『絞死刑』で提示された「国家」の概念が見えるような気がしてならない。ここで行われた他者に暴力を加え、抑圧する行為は、あくまで彼らのひとりひとりから湧き出た行為ではなく、「国家」という形のないものから形のない命令を受け建ったうえで行われたものなのではなかろうか。

となると、セリアズは弟のいじめを止めようとしなかった点では『絞死刑』の刑務官たちと等しく、ヨノイや仲間を救おうとした結果生き埋めになった点ではRであったとも言える。ヨノイやハラについても、作中の大部分では刑務官側として俘虜を虐げたが、戦後はRとして死んでいった。

 

以前、以下の記事で原作では処刑されなかったヨノイが、なぜ映画では処刑されたのかについて考えてみたことがある。

nhhntrdr.hatenablog.com

だが、その後他の大島監督の作品を見ていると、違うのではないかと言う気がしてきた。

 

『大島渚全映画秘蔵資料集成』にて、編著者の樋口尚文さんが『絞死刑』について、こう述べている。

 ここにおいて大島の意図は鮮明である。犯罪者とはいえ、これほどデリケートで内省的な人間が、かくも想像力も倫理もない役人たちの手で殺される。これでよいのか、という展開をもって、大島は死刑制度に対し凝縮したプロテストを試みる。例えば極度の貧困と差別によって、想像の中でしか生きられないほど追い詰められていた人間が、ようやくにして現実との関係を修復し得た瞬間に、国家が殺してしまうことへの無念と憤りがここにある。

 

引用元:樋口尚文編著『大島渚全映画秘蔵資料集成』、国書刊行会

Rが殺されていったことを指している文章であるが、ここにセリアズやヨノイ、ハラの死の虚しさも重なってはこないだろうか。

 

一度は自分のいるコミュニティの空気に負け、弟をイジメから救わなかったセリアズは、やがて仲間を救うため、敵対者と和解するために命を投げ出せるほどの人間になった。ハラにしても、ヨノイにしても、鬼畜米英として憎まなければならないはずのロレンスやセリアズをひとりの独立した人間と見なし、当時のタブーを破った形で相互理解するに至った。これほどの人間たちが、『絞死刑』の刑務官たちのように「嫌々皆の上にふわぁんと乗っかっているだけ」の人間によって、呆気なく殺されていく。

 

登場人物が誰かに殺される。だが、その誰かは殺人の行為者でしかなく、その殺人を意図した者は、形のないものである。形がないゆえに、殺人の行為者も被害者も、その存在に気付かない。『日本の夜と霧』の高尾が死の直前に「壁は厚いよ。俺はもうだめなような気がする」と、あまりにも絶望的なことを述べたのは、中山やその後ろにいる共産党、コミンフォルムのさらに奥にある形なきものを見つけてしまったからではなかろうか。

 

これゆえに、大島監督のキャラクターが死ぬときは、社会の歪み、国家の歪みを背負ってしまったからなのだと思うようになった。そうなると、『戦メリ』ヨノイは大島作品の登場人物として死んでいくのは当然のことだったのかもしれない。セリアズもヨノイもハラも、ロレンスが言うところの「かつてのあなたやヨノイ太尉のように自分は正しいと信じてた人々」によって殺された。「自分は正しいと信じてた人々」に正しさを与えるのは国家である。また、「自分は正しいと信じてた人々」とたちの総体として国家があると言うべきなのかもしれない。「自分は正しいと信じてた人々」は正しくない者を虐げ、排除する。こういった文脈があるのだとしたら、ヨノイが死んでいくのは当然のことだったのだろうと、今では思える。

 

 

「歪みを背負って死ぬしかない」という結論なのか

社会には、国家には、世界には歪みがある。だが、それを支えている者が「自分は正しいと信じてた人々」である限り、世界が変わることはない。ゆえに大島作品は悲しい。主人公たちは歪みに翻弄され、抗おうと戦い、それでも世界を変えられずに死んでいく。

とはいえ、私は「胸糞作品」とは思わない。現実は得てしてそんなものだ。無理にハッピーエンドで終わらせて、観ている者をすっきりとした気分にさせるべきではないと思う。戦っても世界は変わらず、主人公たちは死んだ。それに対する怒りややるせなさが残ることで、フィクションの中の悲しみが我々観客の現実の悲しみへと転じることに、意味があるのではなかろうか。

 

 

nhhntrdr.hatenablog.com

 

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

※この記事は、全文無料公開です。ここから先には文章はありません。「投げ銭をしてもいいよ」という方は、「記事を購入」のボタンから投げ銭お願いします。今後の記事作成の励みになります。

*1:私にとっての良い政治とは、「普通に暮らしている限り、何の問題もなく毎日おまんまが食べられ、危険にもさらされない生活を保証してくれる」政治です。これさえ守ってくれりゃあ、どこの政党が与党でも構いません。

この続きはcodocで購入