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『笑いのカイブツ』感想(ネタバレあり)

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※注意!『笑いのカイブツ』のネタバレがあります。

 

 

 

 

突然だが、私は関西出身の人間だ。20代まで関西で生まれ育ち、その後関東に移り住んで十年以上が経った。つまるところ私という人間の土台を作っているのは関西の風土や文化である。だが、十年以上離れて暮らしているうちに、そろそろ関西文化が私にとっての異物になり始めている。以降の文章は、そんな人間が書いたものだということを前提にして読んでいただけると幸いだ。

 

 

この作品、序盤から中盤までは大阪が舞台となる。なので交わされる言葉はバッキバキの関西弁。イントネーションの完璧さにまず驚いた。主演の岡山天音さんの関西弁があまりにも自然なのでてっきり関西出身なのかと思ったのだが、調べたところ東京出身とのこと。びっくらこいた。パンフレットのスタッフ一覧を見たら、きちんと関西弁指導の人がいたので納得はしたけれど、それにしても指導完璧すぎやろと脱帽した。

 

序盤、主人公ツチヤタカユキの家の中で、おかんとその彼氏がテレビを見ているシーンがある。どうやら内容的に関西ローカルの番組くさい。*1それを見ながら彼氏が放ったセリフ「寛平ちゃん、よう走っとんなぁ」に、私はうっかり声を出して笑いそうになった。何だ、この関西感。そうそう、寛平ちゃん(間寛平さん)って、よう走っとるよね。

 

もうひとつ。タカユキがカラオケ店でバイトをしているシーンがあるのだが、彼はお客さんが食べ残したお菓子を片付けるどころか、必死で頬張っているという始末だ。そこで鳴る電話の音。タカユキが出た瞬間、先輩の怒声が響く。「お前アホか!全部見えとんねんぞ!」ここも声出して笑いそうになった。十年以上離れて冷静になった状態で考えると、割と関西人のツッコミって一般人のそれですら漫才みたいよな。

どうでもいいけど、少し前に関西に帰省した際、私は梅田の阪急32番街を訪れた。ここは32階建ての商業ビルで、30階と31階に飲食店が入っている。よってレストランなりカフェなりを探しているときに、私はよくお世話になる。で、そのときも私はカフェでお茶をするため、エレベーターに乗り、31階を目指していた。中には他に何人か乗っていたが、彼らの目的地も飲食店フロアだ。その中に、ひと組の親子がいた。まだ若い母親と4、5歳くらいの女の子。エレベーターが動き出してすぐ、母親が言った。

「すぐ着くからね」

女の子が問いかける。

「何階に行くん?」

「31階」

直後、女の子は食い気味に叫んだ。

「全然すぐやないやん!」

ここで私は噴き出しそうになった。怖いわ、関西の子ども。こんな年でツッコミスキルを会得しとるんかい。微妙に関西から距離を置いたことで、関西人のツッコミスキルに驚愕することが多くなった。*2

ただ、現在暮らしている関東では驚きがないのかと言えば、そんなことはなく。こないだ歩いていたら、近くにいた高校生男子が「やべ、遅刻だ」と言ったので、私は驚いた。すげえ、漫画のキャラみたいなこと言う人が実際におるんか!ちょっと感動したわ。

 

 

めっちゃ話が脱線してしまった。つまるところ、『笑いのカイブツ』ではリアルな大阪が描写されているわけである。リアルな大阪。つまりは、お笑いの文化が幅を利かせている場所だ。土曜日の昼には吉本新喜劇がテレビで流れているし(私が住んでいた頃は、日曜の昼にも吉本のコメディ番組が放送されていた)、夕方の情報番組の出演者には絶対に吉本芸人がラインナップされている。そういう環境で暮らしていると、知らんうちに吉本の芸が血肉に刷り込まれていたりするから恐ろしい。

例えば私の出身地は比較的訛りのゆるい地域である。吉本みたいなコッテコテの関西弁を期待していると、割と肩透かしを喰らうような土地なのだ。しかし、なんでかわからんが文化祭の出し物で演劇をやると、みんなぁ吉本みたいなー喋り方になってしまうんやー。あんたぁ普段はそこまで訛ってないやろってー思うんやけどー、それでもみんなーなぜだかー訛ってしまうねんー。恐らく、舞台に立った瞬間、気づかぬうちに体内に設置されたスイッチが入り、吉本芸人に切り替わっているのだと思う。

 

そんな風に無意識のうちにお笑いに洗脳されてしまうような土地でタカユキは育った。陰キャも陰キャ、ど陰キャだが、笑いのセンスは抜群。誰かを笑かすことに命をかけるような男がタカユキだ。当然、彼はお笑いの道を目指し、吉本っぽい劇場を訪れ、自分を構成作家として売り込む。だが、人を笑かす才能はあれども、人と上手くやれる才能はからっきし。自分の笑いを追求するあまり、周りと軋轢を生じさせてしまう。

「人間関係不得意」とタカユキは言う。一番おもろいのが正義のはずなのに、何故かコミュ力が求められる。

 

神様は意地悪だ。タカユキに類い稀なるお笑いの才能を与え、代わりにコミュ力を根こそぎ奪い去ってしまった。人とは上手くやっていけない。しかし友人のピンクは、タカユキの抱えるねじれを見出す。人が嫌いなタカユキは、人を笑かすことに命をかけている。ゆえにタカユキは地獄で生きているのだと。

怖くて憎い他者。それでも笑いは他者がないと成り立たない。誰かを笑かそうと思っている限り他者からは逃げられず、逃げようにも誰かを笑かすことはタカユキにとっての命だというジレンマ。

 

絶望したタカユキが自殺を図った場所に、申し訳ないが笑ってしまった。道頓堀。

『源氏物語と日本人』にて河合隼雄さんが以下のように述べている。

 ラテン語の「ゲニウス・ロキ」という表現があり、「場所の精霊」とか「土地の精霊」とか訳される。ある場所がもつ精神的雰囲気が文化の形成、営みの上に大きい要因となるという考えである。日本で「由緒ある土地」というのがそれである。そのような意味で、単なる地理上の場所ではなく、ゲニウス・ロキをもつ場所をトポスと呼ぶことにしよう。

 

河合隼雄『源氏物語と日本人 紫マンダラ』、講談社

 

 

この考えに則ったとき、道頓堀もまたひとつのトポスと言える。ちょうど去年、阪神タイガースがリーグ優勝と日本一を達成した時に大騒ぎがあったため、道頓堀で何が起こったか覚えている人も多いと思う。特にリーグ優勝の際に現れた「道頓堀ニキ」は、ネットミームにもなった。この写真を見て私の中の関西人が感じるのが「アホやなぁ」のひと言につきる。また、外せないのがカーネル・サンダースの呪いだ。当時の阪神ファンがリーグ優勝でフィーバーしすぎた結果、カーネルおじさんの人形を道頓堀に投げ捨て、それ以降阪神タイガースは優勝から遠かったというあの都市伝説。これもこれで、やっぱり「アホやなぁ」と思わずにはいられない。道頓堀というと、なんかアホやなぁという気持ちになる。そもそも阪神優勝時にファンが集う道頓堀にかかるあの橋・戎橋の別名はひっかけ橋。ナンパのスポットとして有名だから、そう呼ばれるようになった。アホやろ。

 

そんな道頓堀でタカユキは自殺を図る。そもそも大阪は水の都市だ。広々とした淀川はもちろん、堂島川や土佐堀川など、水辺は簡単に見つかるし、少し足を伸ばせば大阪湾もある。悲壮な自殺を演出するスポットならきちんとあるのに、よりによって選んだのが道頓堀。こんな時にまでタカユキは笑いから離れられない。悲しいまでに笑いの申し子だ。

 

道頓堀というアホの聖地で彼は象徴的に死に、何か別のものに生まれ変わって、おかんのもとへ戻ってくる。それでも彼は笑いから離れられない。実家の壁にできた穴を彼は見つめる。その穴は、かつて誰よりもおもろい奴を目指していた頃に、苛立ちから頭をぶつけ続けてできた穴だ。そこをもっと深く掘った先に何かが見えた瞬間に呟く彼の一言が、意味がわからないにも関わらず大好きだ。

 

 

笑いという地獄で生きる笑いのカイブツ。生まれながらに地獄を生きることを宿命づけられたカイブツ。地獄を生きているのに、笑いのカイブツゆえに可笑しくて仕方ない。色んなジレンマを抱えているゆえに、愛おしくなるような作品だった。

sundae-films.com

 

 

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*1:関西はとにかくローカル番組が多い。他の地方が東京の番組を流している時間帯でもローカル番組を放送していることがままある。

*2:勿論、全ての関西人がボケまたはツッコミができるわけではなく、どちらもできない層も一定数存在する

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