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『デスノート 前編』『デスノート the Last name』――これは、高らかに歌われた人間讃歌なのだと思う

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※注意!『デスノート 前編』『デスノート the Last name』及び原作版のネタバレがあります。

 

 

先日テレビをつけたらWOWOWで『デスノート the Last name』が流れていたので、懐かしさに見入った。

リアルタイム時、前編後編ともに映画館に観に行ったなぁ。もともと原作が好きだったので、映画化は不安もあったけど、楽しみがそれ以上に大きかった。

結果、前後編どちらも楽しんで観賞できて、あー満足だったと感じたのだった。内容は面白かったし、原作ファンとしても納得のいくアレンジだった。

エンターテイメント作品として合格点の作品だったと私は思う。

だが、特に後編の『デスノート the Last name』の終盤の展開は、単なるエンターテイメント作品と片付けさせてくれない重さがあった。だから、観賞から長い時間が経ってもなお、折に触れてシーンを、登場人物の言動を思い出しては、切なくなってしまう。

 

今回、久しぶりに観て、やはり同じシーンで惹きつけられ、何とも言えない気持ちになったのだった。やっぱり私にとって映画版『デスノート』は、何年たっても忘れられないだけある映画なのだなぁと感じさせられた。

 

 

2006年映画版『デスノート』のあらすじは以下の通り。

 

『デスノート 前編』

夜神 月(やがみ ライト)はある日、奇妙な黒いノートを拾う。それは死神・リュークが落とした、ノートに名前を書かれた人間が死ぬ「デスノート」だった。犯罪者を裁く法律に限界を感じていた月は、世の中を変えるため、ノートの力で犯罪者を次々と葬り始める。やがて犯罪者を葬る者の存在に気付いた人々は殺し屋(=Killer)の意味から「キラ」と呼び始め、キラを神と崇め崇拝する者まで現れた。

一方、警察組織はキラの行為はあくまでも連続殺人であるとし、その調査・解決のためにある人物を送り込んだ。警察を裏から指揮し、数々の難事件を解決してきた世界的名探偵L(エル)である。

天才同士の戦い、求める世界の違いから起こったこの闘いに勝つのは死神の力を持つキラか、それとも警察を動かすLか。

 

 

引用元:デスノート (映画) - Wikipedia

 

 

『デスノート the Last name』

月はキラ対策本部に参入することに成功し、月とLの壮絶な頭脳戦が始まった。

一方、別の死神レムのデスノートを手に入れた少女・弥海砂(あまね ミサ)が現れる。海砂は、自らの寿命の半分と引き換えに、顔を見るだけで相手の名前と寿命が見える死神の目を得て、自身を「第2のキラ」と称してキラを否定する者を消し去っていく。

 

 

引用元:デスノート (映画) - Wikipedia

 

 

ここでは詳しい内容に触れるのではなく、とにかく『the Last name』の終盤について語りたいと思う。

 

とにかく、月と彼の父・総一郎の対峙が切ない。原作版では総一郎は月がキラと知ることなく殉職したのに対して、映画版の総一郎は「キラ=月」だと知ってしまう。原作では避けられた父と息子の衝突が辛い。あんな真面目で良い人な総一郎に、こんな重い事実を知ってほしくなかった。

二人とも目指しているのは「善人が悪人に泣かされない世界」を目指しているのは同じなのに、道を違えてしまったのも辛い。

同じものを目指し、同じように正義感に溢れていたのに、どうしてこうなってしまったのか。

 

結局は月と総一郎を分けたのは、「人間を信じることができたかどうか」だったのではないだろうか。

悪人をすべて捕捉できない現在の法に月は幻滅し、新世界をつくることを決意した。一方、総一郎は法律の不完全さ、それを創り出した人間の不完全さを受け入れ、少しずつ積み重ね続けることを選んだ。

ひとことで「人間を信じる」と言ったが、なかなかに精神力を要することだと思う。法の裁きから逃れ、のうのうと生きている凶悪犯を見たとき、それでも人間を、法を信じ続けることができるだろうか?ましてや、デスノートという法の欠陥をイージーに解決できるアイテムを手にしても、法や人間の不完全さを見守ることができるだろうか?

 

どうして月は人間を信じきれず、総一郎は信じることができたのか。それぞれのパーソナリティの違いはもちろんあるだろうが、積み重ねられた人生の差でもあったような気がする。

もし、総一郎が月と同じ年齢のときにデスノートを手にしたとしたら、どうだっただろうかとふと考えてみる。それでも若い総一郎はデスノートの誘惑に耐えることができただろうか。

若さは盲信を生みやすい。高い理想を持ち、正義感を燃やしていたかつての月が、どれほど法を信頼していたかは想像に難くない。全面的に信じていたからこそ、現実を知ったときの反動は大きい。法に幻滅した月は、法を超えた存在・新世界の神になろうとした。若かりし総一郎も、一度は法に失望したりはしていないだろうか。ただ彼は、そのときにデスノートに出会わずに済んだ。それだけの差なのかもしれない。

 

今でもニュースを見ていると、なぜこの犯人が不起訴なのかと歯痒く思うことはよくある。悪いことをした者には、相応の罰が下ると信じたいのに、現実はそう簡単にいかない。

いっそ、無謬の存在がいれば良いのにと思うことすらある。そんな存在が法も政もすべて司れば、悲しむ人間はいなくなるのではないだろうか。

だが、そんな思いこそが月の陥った陥穽そのものなのだと思う。残念ながら、この世に無謬の存在なんていない。もしかしたら神は本当に存在して、私たちを見守ってくれているのかもしれないが、政治を行ったり、法を創り裁いてはくれない。

不完全な人間が何度も過ちを犯しながら、学び、改めていく。たとえもどかしくても、それを少しずつ積み上げていくしかない。

ましてや月は不完全な人間のひとりだ。彼がすべての人間の善悪を判断して良いわけがない。

総一郎が月を拒絶したのは、月が殺人を犯したからというのはもちろんあるが、それ以上に「ひとりよがりで」人を殺したからだ。誰ひとり、他者に対して神になってはいけない。そんな資格は誰にもない。同時に、誰もが全面的に神に頼ってもいけないのだと思う。

 

月が死ぬ間際に総一郎に言った言葉が辛い。彼は父に抱きかかえられながら「キラは正義なんだ。父さん、わかってくれよ」と絞り出すように言って絶命した。

月の死後、Lが言った「月くんも救えずに」という言葉が重い。もちろん、Lの目的通りに行けば、月を待つのは死刑だ。Lの言う救いとは精神的な意味での救いだろう。結局、月は人間を信じられないままに死んでいった。

Lは自分の命を差し出すと決めたとき、月を救えるという一縷の望みを抱いていたのではないだろうか。そう考えると、彼が死の瞬間をひとりで迎えることにしたのがより切なく感じる。月を救えなかったLは、自分が総一郎に看取られる資格がないと思っていたのだとしたら。そう思うとやりきれない。

彼自身が満足しているかはともかく、Lもまた人間を信じ、そのために命を捧げた。その信念の強さ、壮絶さには頭が下がる思いがする。

 

 

改めて観賞して、これは人間讃歌の映画なのだと思った。不完全でも、少しずつ学んで、少しずつ良くなろうと努めてきた人間たちを、『デスノート』は全面的に肯定している。もちろん、そうでない人間だっている。ラスト、死神のリュークが高らかに笑いながら東京の街へと消えていく。きっとリュークによって、新たなキラが生み出されるのだろう。

だが、総一郎やLのように、人間の不完全さを自覚し受け入れた上で、それでも信じようとする存在がいることに、私は救いを覚えるのである。

 

 

 

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