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アーシュラ・K・ル・グウィン『オメラスから歩み去る人々』を読みながら、罪悪感について考えてみる

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※注意!アーシュラ・K・ル・グウィン『オメラスから歩み去る人々』のネタバレがあります。

 

『オメラスから歩み去る人々』を知ったのは、BTSの「Spring Day」のMVを見たのが(そして、MVの考察サイトを閲覧しまくったのが)きっかけだった。


www.youtube.com

動画の1:06辺りに出てくるモーテルには、「Omelas」と書かれたネオン看板が掲げられている。この元ネタとなったのが、『オメラスから歩み去る人々』だという。

かくしてBTSのMVで興味を持ったのをきっかけに、私は『オメラスから~』を読んでみたわけだ。

 

 

『オメラスから歩み去る人々』は非常に短いし、これといったストーリーもない。本編の大部分を占めるのが、オメラスという街の描写だ。オメラスがいかに幸福にあふれているかが長々と説明される。その割に、作者のル・グウィンは折に触れて、オメラスのディテールを読者の想像に託したりもする。心の中に浮かんでくる完全無欠な楽園こそが、読者にとっての「オメラス」なのだ。

 

読者の心の中に描かれた至高の楽園の中では、祝祭が行われている最中だ。そこでは老若男女すべての人々が喜びに浸っている。美しい自然に囲まれ、程よく文明的な街の中を壮麗なパレードが進んでいく。とにかく、オメラスには喜びが満ちている。その喜びとは、殺伐とした現代社会に生きる私たちからは想像もできない類のものだ。

 

だが、本編も後半に突入すると、オメラスの幸福のからくりが明かされる。そこで明かされるのは罪悪感という概念を象徴したものだと私は思う。オメラスの幸福は罪悪感を封じ込めた上で成り立つものではなかろうか。そう考えた上で前半を読み直すと、オメラスの美しい景色がおぞましいものに感じられてくる。個人的な話だが、最近「罪悪感」というものについて考えることが多いせいで、こう見えてしまうのだろうとは思う。

この通り、私は立派な人間ではないので、何かしら罪悪感を感じて生きている。誰かと楽しくしゃべっているとき、面白い本や映画を見ているとき、罪悪感は音もなくやって来る。「あのとき、○○さんに酷いことを言ってしまった」とか「なんであのとき、見て見ないふりをしたんだろう」とか、様々な罪悪感が入れ替わり立ち替わりやって来ては、私に冷や水を浴びせるのだ。

 

罪悪感を感じずに生きていきたい!

何度願ったかわからない。そんなことを考えずに、私は目の前の幸せを享受したい。

 

だが、最近になって思うようになったのが、罪悪感は必要なのではないかということだ。少なくとも私にとって罪悪感は、私自身が人間であり続けるために必要なものだ。これを手放した瞬間、私は理性とか知性とかといった人間的なものを捨て去ってしまうような気がする。私は誰も傷つけずに生きることができなかったし、これからもできないだろう。だからこそ、罪悪感は私を戒め続けるのだ。

 

だが、罪悪感を抱いて生きるのは辛い。格好いいことを言ってはみたものの、私も四六時中罪悪感に囚われては生きていけないし、九割がた(いや、九割九分かもしれない……)は思い出した瞬間に忘れようとしてしまう。まるで、オメラスの住人たちのようだ。悪いと思ったって、今さら○○さんに謝っても戸惑わせるだけだし。なんてことを考えて、自分自身に折り合いをつけるわけである。

あくまでもそれで得られるのはかりそめの安心感。結局、私は罪悪感と向き合うことを先送りにしているだけで、いつかは総括の必要がやって来るはずだ。

そういう意味での総括については、過去記事で書いている。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

オメラスのからくりは罪悪感であると同時に、私たち一人一人の心の中にある直視しがたいものーーコンプレックスでもあると思う。

心理学・精神医学用語のコンプレックス(独:Komplex 英:complex)とは、衝動・欲求・観念・記憶等の様々な心理的構成要素が無意識に複雑に絡み合って形成された観念の複合体をいう。ふだんは意識下に抑圧されているものの、現実の行動に影響力をもつ。

 

引用元:コンプレックス - Wikipedia

聖人だと思われている人にだって、それはある。心理学者の河合隼雄は言っている。

コンプレックスが全て無くなるなどということは人間業ではない。そうなったときは、ホトケ・・・になっていることだろう。

 

引用元:河合隼雄著『コンプレックス』、岩波書店

 

残念ながら、ホトケではない私たちは、コンプレックスと無縁に生きていくわけにはいかない。そのコンプレックスのひとつが罪悪感なのではなかろうか。

 

 

さて、ホトケではない私たちはどうするべきなのか。

『オメラスから~』では、ふたつのパターンが提示されている。ひとつめは先に書いたように、自分の中で折り合いを付け、オメラスの中で幸せに暮らし続けていくこと。いまひとつの選択肢は絶望に満ちている。

それでも、後者を選ぶ人々は、彼らは自身が人間であり続けようとしているのかもしれない。

 

 

 

で、長々と書き連ねてきた私はどうなのかと言えば、「自分の中で折り合いを付けて、オメラスで生き続けている人間」である。すぐに後者を選ぶことはできない。そのための具体的な方法がわかっていないからだ。だが、いつかは後者を選ばねばならないのだろうなとも思う。でないと、人生の終わりを迎えたとき、納得してこの世を去れないような気がする。

 

 

 

『オメラスから歩み去る人々』は『風の十二方位』の中の一篇。

 

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