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映画版『ディア・エヴァン・ハンセン』ネタバレ感想――姥皮を身にまとったエヴァン・ハンセンは何を手に入れた?

※この記事では、映画版『ディア・エヴァン・ハンセン』のネタバレがあります。

 

映画版『ディア・エヴァン・ハンセン』を観てきた。
初日の初回上映。このときを待っていた!

 

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ブロードウェイ・ミュージカルを基にした今作、かねてから観たくてたまらない作品だった。第71回トニー賞授賞式でのベン・プラット氏のクオリティの高いパフォーマンスに一目惚れ(一聴き惚れ?)してしまったのである。

 


社会不安障害の主人公エヴァン・ハンセンが憑依しているかのように歌うベン・プラット。歌いながら自嘲気味に笑ったり、不安や孤独に駆られて必死の形相をしたり、見事に歌と演技が融合していたように思う。


歌われていた『Waving Through a Window』も素晴らしい楽曲で、社会の中で孤独を感じたことのある人なら覚えがある感情が歌詞として表現されていた。
ブロードウェイに気軽に行けない身が恨めしかったし、その分だけ作品への思慕は高まった。何度も『Waving Through a Window』を聴きながら、まだ見ぬエヴァン君を想像したりもした。

 

だからこそ、映画化はこの上ない朗報だった。日本にいながらにして『ディア・エヴァン・ハンセン』を観られるなんて!
しかも、エヴァン役がミュージカル版と同じベン・プラットだなんて!
そういうわけで気合いが満ちに満ちたわけだ。

 

いつか『ディア・エヴァン・ハンセン』が日本版ミュージカルとして上演されるかもしれないと考えて、かねてからなるべくネタバレは目にしないようにしてきた。
というわけで、今回観賞するにあたって私が知っていたストーリーは、公式サイトにあらすじとして載っている部分までである。

 

エヴァン・ハンセンは学校に友達もなく、家族にも心を開けずにいる。ある日彼は、自分宛てに書いた“Dear Evan Hansen(親愛なるエヴァン・ハンセンへ)”から始まる手紙を、同級生のコナーに持ち去られてしまう。それは誰にも見られたくないエヴァンの「心の声」が書かれた手紙。後日、校長から呼び出されたエヴァンは、コナーが自ら命を絶った事を知らされる。悲しみに暮れるコナーの両親は、彼が持っていた〈手紙〉を見つけ、息子とエヴァンが親友だったと思い込む。彼らをこれ以上苦しめたくないエヴァンは、思わず話を合わせてしまう。そして促されるままに語った“ありもしないコナーとの思い出”は両親に留まらず周囲の心を打ち勇気を与え、SNSを通じて世界中に広がっていく。思いがけず人気者になったエヴァンは戸惑いながらも充実した学校生活を送るが、〈思いやりでついた嘘〉は彼の人生を大きく動かし、やがて事態は思いもよらぬ方向に進む—。


引用元:映画『ディア・エヴァン・ハンセン』公式サイト

 

さて、念願叶って今作を観賞してきたわけだが、物凄く感動した部分もあれば、想像が先走りすぎて拍子抜けになった部分もあった。
「残念。良いところもあったけど、思ったほどではなかったわー」と言ってしまってもいいのかもしれないが、言い切ってしまうには何か抵抗がある。間違いなく、この作品は私の心に何らかの形で杭のように刺さっている。それに、好きか嫌いかで問われれば、間違いなく好きな作品だ。上映期間中にあと何回かは観たいと思っている。

 

せっかく観賞できたのだ。まだ頭の中で固まっていない私の『ディア・エヴァン・ハンセン』観を整理してみたい。そういう一心で、勢いだけで書いてみることにする。
長くなったが、これが前置きである。大変失礼いたしました。


ちなみにしょっぱなから『Waving Through a Window』が流れたのには嬉しい悲鳴をあげそうになった。念願の作品を観ている喜びとか、大好きな歌を本編の中で聴くことができる興奮とか、歌詞の内容が改めて心に突き刺さったとか、いろんな理由が重なって冒頭から涙ドバー状態だった。アドレナリン出すぎたよ…。

 

 

 

 

 

映画版『ディア・エヴァン・ハンセン』とは、結局どんな話だったのかを考えたい


映画版『ディア・エヴァン・ハンセン』のテーマとは何だろう。さっと見ただけでも、この作品は特徴的なキーワードに溢れている。
孤独、同級生の自殺、嘘、SNS、匿名…。
各キーワードの主張が強く、それでいて有機的に絡み合っているような気もする。
こういうとき、手がかりになるのは冒頭とラストだ。物語の主人公は結末でテーマを体現した存在となる。ゆえに冒頭の主人公はテーマとは正反対の存在だ。古い自分から新しい自分に生まれ変わる過程を描くのがストーリーというものである(もちろん、例外もたくさんあるが)。

 

今作ではエヴァンが『Waving Through a Window』を歌うシーンから始まる。
失敗や本当の自分をさらけ出すことを恐れて何もせず、逃げている自分。
誰からも顧みられない窓の外から手を振っても、誰も見てくれない。

 

物語が始まったとき、エヴァンの左腕にはギプスがはめられている。森の中で木に登っていたときに落下し、骨折してしまったのだ。助けに来てくれる人はおらず、しばらくひとりきりで倒れていた。
この出来事は作中で何度も回想としてリフレインされる。
『Waving Through a Window』でも、この出来事が歌われている。

 

When you're falling in a forest and there's nobody around
Do you ever really crash, or even make a sound?

 

「森の中で木から落ちたとき、そこに誰もいなかったとしたら、本当に落ちたと言えるのか? 音を立てたと言えるのか?」

 

これには元ネタがあるらしい。ジョージ・バークリーというアイルランドの聖職者が提唱した思想だそうだ。
要約すると「人や物は他者から認識されて初めて存在として成り立つ」といったところか。

 

artiencecorp.com

ja.wikipedia.org

 

この思想に従えば、エヴァンが木から落ちて骨折したとき、周りには誰もいなかったから、彼は落ちてもいないし骨折してもいないということになる。
さらに、こうも言える。
窓の向こうから手を振っても気づかれないから、エヴァンという人間は存在していない。
恐怖だ。間違いなくエヴァンは生きているというのに。



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上の動画の3:00~。生徒で溢れる体育館の中、声を張り上げているのに誰にも認識されないシーンでのエヴァンの姿は非情に悲痛だ。

 

なぜエヴァンは誰からも気づかれないのだろう?
歌い出しの部分に答えはある。「ブレーキを踏んでいる」から。
失敗する前に、本当の自分をさらけ出す前に、ブレーキを踏むような生き方をエヴァンは続けている。
笑いものにならないように逃げた結果、エヴァンは存在しない人間となった。

 

物語のキーとなる問題児・コナーもエヴァンと似たような存在だ。
気弱で人見知りなエヴァンと違い、コナーは粗暴で誰にでも喧嘩を売るような人間だが、誰からも認識されないという点で共通している。
「周りの視界に入らない」エヴァンと「あえて視界にいれてもらえない」コナー。形は違えど、彼らはいないものとして扱われている。

 

パソコンルームでエヴァンの手紙を読んだコナーは「俺を見たのは妹に近づきたかったからか!」と激昂する。
せっかく自分を認識してくれた人間が現れたと思ったのに、彼――エヴァンはコナーではなく妹を狙っていた。期待を裏切られたからゆえの怒りだったのではないだろうか。
実際、その直前までは粗暴な態度ながらも、コナーはエヴァンのギプスに名前を書いてくれたのである。

 

エヴァンとコナー。「存在しない人間」である二人が出会ったことで物語は動き出す。
では、動き出した物語の行き着く先は、エヴァンが「認識される人間」になることなのだろうか?

 

 

エヴァンは姥皮を身にまとい、仮の姿をとった


コナーがエヴァンの手紙をポケットに入れ、自殺したことで、エヴァンの環境は変わり始める。
勘違いにより、エヴァンは「コナーの親友」になってしまった。

 

ところで、大塚英志『キャラクターメーカー』によれば、人は子どもから大人に成長していく中で、親の代わりに求めるものがあるという。それが「移行対象」という概念だ。

 

乳幼児は、移行対象を触ったり口にくわえたりすることによって安心感を得るが、ウィニコットによれば、こうした対象は、乳幼児が「自分は万能ではない」という現実を受け入れていく過程を橋渡しし、母子未分化な状態から分化した状態への「移行」を促すものである。

 

引用元:移行対象 - Wikipedia

 

移行対象は二つの型がある。大塚氏が「トトロ型」と呼ぶキャラクターとしての移行対象。幼い子が肌身離さず持っているぬいぐるみといったものが代表例だろう。
もうひとつは「ライナスの毛布型」。キャラクターの形を取る「トトロ型」に対し、「ライナスの毛布型」はアイテム型の移行対象だ。昔話に出てくる姥皮が、それに当たるという。

 

着ると婆の姿、あるいは醜くなるという想像上の衣類。昔話の材料の一つで、独立した話は少なく、まま子話や蛇婿入譚(へびむこいりだん)等と結びついており、最後に姥皮を脱いで美男か美女になり、幸福な結婚にいたる。

 

引用元:姥皮とは - コトバンク

※「ライナスって誰だよ!」という方にはこちら

www.snoopy.co.jp

 

大塚氏によれば、民俗学では昔の成年式(大人になるための儀式)を反映したものが姥皮だと言われているそうだ。かつての成年式の中には、獣などの皮を被ることで子どもから大人への人格変換を象徴する儀式があったのだとか。
子どもから大人へ変わる不安定な時期に与えられる仮の姿が姥皮なのである。
我々にもわかりやすい例として、『ガンダム』のモビルスーツや『エヴァンゲリオン』のエヴァ・シリーズが挙げられている。

 

さて、長々と姥皮の説明をしてきた。それというのも、エヴァンにとって「コナーの親友」という属性が姥皮のように思えるからなのだ。
周りから気づかれない「存在しない人間・エヴァン」は物語が進む中で、コナーから「コナーの親友」という姥皮を与えられた。
姥皮を得たエヴァンは、今までとは違う世界へ連れ出される。

 

もともとエヴァンはコナーの妹・ゾーイに想いを寄せていたが、話しかけることもできず、遠くから見つめるだけに留まっていた。
だが、「コナーの親友」エヴァンはコナーとゾーイの家族――マーフィー家に招待される。好きな女の子の家に足を踏み入れる。これまでのエヴァンには起こりえない出来事。
真実を明かしきれないまま、エヴァンの嘘は積み重なっていく。コナーとの架空の思い出、ありもしなかったコナーの顔。最初はコナーとの仲に懐疑的だったゾーイも、やがてエヴァンに心を開いていく。

 

今までエヴァンを顧みなかった学校の同級生たちも、「コナーの親友」だと知った瞬間に彼に注目し始める。優等生でリーダー格のアラナも、エヴァンに自身の心の弱さについて吐露する。

 

アラナの頼みを聞き、エヴァンはコナーの追悼会でスピーチをする。許貢の思い出を語るエヴァン。トラブルに見舞われ挫折しかけるが、彼は紙に書かれた言葉ではなく、自分の言葉で語り始める。
森の中、木から落ちたとき、コナーが助けに来てくれた。エヴァンにとって孤独の象徴である思い出が、コナーに救われた思い出へと変化した。
そのときに歌われるのが『You Will Be Found』だ。

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コナーについて語るエヴァンの姿は動画としてシェアされ、瞬く間に世界へ広がっていく。
今まで「存在しない人間」であったコナーが歌のタイトル通り、find――見つけ出され、認識されたのだ。
思えば、エヴァンも姥皮を被ることで同級生やコナーの家族、何よりもゾーイから見つけ出された。アラナもエヴァンに抑圧していた脆弱な自分を見つけ出させた。
存在の不安を抱える開幕を思い出すと、『You Will Be Found』というタイトルは、何か示唆的に感じる。
しかし、である。物語の中盤でエヴァンもコナーも周りから認識され、「存在する人間」となった。ならばここでストーリーが終わってもいいのでは?

 

 

姥皮を脱ぐとき――大人への転換


もちろん、ここで終わるのは非常に据わりが悪い。エヴァンは嘘をついている最中だ。
後半はエヴァンの嘘によってエヴァンの家族やマーフィー家の歪みが引き出されていく。
エヴァンもゾーイも、実の父がいない。エヴァンの父は家を出たし、ゾーイの父は亡くなり、代わりに継父と暮らすことになった。

 

母子家庭となったエヴァンの家では、親子の時間が非常に少ない。教育費を稼ぐため母は仕事にいそしんでおり、一緒に食事をする余裕もない。

 

マーフィー家はコナーを中心としたひずみが生じている。コナーを忘れずにいたい母、コナーの自身に対するわだかまりを感じ取っていた継父、乱暴なコナーを嫌い、素直に悼むことができないゾーイ。『Requiem』では三人がそれぞれ「レクイエムは歌わない」とくちずさむが、同じ言葉でもその意図はまるで違う。
また、コナーという過去に浸り続けるゾーイの母と、エヴァンに「未来を見ましょう」と語りかけるゾーイのスタンスの違いも興味深い。

 

ゾーイの両親はコナーの教育費をエヴァンに譲りたいと彼の母に申し出る。特にゾーイの母にとって、エヴァンはもう一人の息子のような存在となっていた。
善意の申し出だが、エヴァンの母は不快感を表す。エヴァンの家族づらをするマーフィー家に激怒する母だが、エヴァンも黙っていない。エヴァンにとって「存在している人間」として扱ってくれていたのが、マーフィー家だという認識なのだろう。

 

また、エヴァンが保身のために自分の手紙(コナーからエヴァンに当てた手紙と勘違いされている)をアラナに見せたことで、マーフィー家にも災難が降りかかる。
アラナによって手紙の画像がSNSにアップされ、世間の批判はマーフィー家に向く。いわく「こんな家族だからコナーは自殺したのだ」。炎上だ。

 

この件に対してマーフィー家は完全に巻き込まれただけの被害者だし、悪いのは明らかにエヴァンだろう。アラナに問い詰められたときに白状していれば、こんなことにはならなかった。


あえて一歩引いて考えてみたい。無論、ネットリンチは肯定すべきでない。ただ、マーフィー家がコナーの苦しみを理解していただろうかと考えると、どうも首肯しがたいわけだ。
思春期だから家族に隠し事があるのは当然とはいえ、ゾーイはコナーが何を考えていたかをわからずにいたし、継父はコナーに対して壁を感じていた。コナーへの愛してやまない母も、彼のつくった曲を聴けずに終わった。マーフィー家の語るコナーは幼い頃の姿か、エヴァンの語る虚構の姿だ。

 

はて、と思う。コナーは実は見つけ出されていなかったのではないか。コナーという人間自体は皆に知れ渡った。だが、それはエヴァンがつくり出した虚構のコナーだ。
本当のコナーは別にいる。

 

ここで冒頭の『Waving Through a Window』に戻りたい。
エヴァンがブレーキをかけているのは、他人から笑われないよう失敗せず、本当の自分を隠すためだった。

 

さらに映画版で追加された楽曲『The Anonymous Ones』についても考えたい。アラナがエヴァンに対し、今まで隠していた素顔を見せるときの歌である。

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ここでは「匿名の人にはなりたくない」という歌詞が繰り返されている。
アラナにとって「匿名の人」とは、憎しみや痛みを表に出さず、笑顔で隠している人たちだ。
嘘をついて違う自分を装っているエヴァンとアラナ。明るく振る舞っているけれど、暗い秘密を抱える「匿名の人」。虚構の姿を築き上げられたコナー。
皆、本当の自分を見つけ出されていない。


SNS炎上により苦しむマーフィー家を見過ごすことができず、エヴァンは遂に自分の嘘を告白した動画をアップする。
エヴァンを見る周りの目は冷たい。だが、真実を明らかにしたことにより、エヴァンの姥皮が剥がれた。姥皮を脱ぎ捨てるのは、子ども時代を終え、大人に変化するときである。

 

終盤、エヴァンは自分が気づけずにいたものに対面する。母とコナーの本当の姿だ。
自分を放っていると思っていた母は、本当は父との離婚以降、何があってもエヴァンのそばから離れるまいと決意していた。母の思いを聞いたエヴァンは、森の中でも事故の真実を語る。本当は事故ではなく、自殺未遂だったのだ。お互いに心の底を打ち明けた後、躊躇うことなく彼女に抱きつく。

 

確かにエヴァンは誰にも認識されることがなかった。だが、エヴァンだって他者を深く理解しようとしたことがなかった。しかし、姥皮を脱いだエヴァンには可能になったのだ。
コナーに対しても同じだ。想像で創り上げたコナーではなく、本当の彼を知ろうとする。彼の好きだった本を読みあさり、彼の知り合いにアクセスする。

 

エヴァンが連絡を取ったコナーの本当の知り合いから、生前の動画を手に入れる。ドラッグ患者の機能回復施設で、自分の作った歌『A Little Closer』を柔らかな表情で歌うコナー。自暴自棄に見えていたコナーだが、絶望から立ち直ろうとしていたのだ。
ようやく、彼は見つけ出された。

 

ラストシーンで、エヴァンは冒頭と同じく自分への手紙を書いている。だが、その姿は「本当の自分」であることへの恐れはない。
存在するということは、ただ単に相手から知覚してもらうのではない。本当の姿を見せ、また見つけ出してもらうことで、存在することになる。

 


私にとっての映画版『ディア・エヴァン・ハンセン』とは、そういうメッセージのある話だったといったん結論づけてみる。
いったん、と言うのは、まだ一回しか見ていないからで、まだまだ見落としている部分がたくさんあるのだ。もっとゾーイの心情についても考えたいし、マーフィー家についての考えもまだまとまりきっていない。勘違いや誤読している部分も多々あるだろう。
今後も見るたびに考えを更新していきたいと思う。

 

 

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