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『戦場のメリークリスマス』ヨノイのメイクって何だったんだ?

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※注意!『戦場のメリークリスマス』のネタバレがあります。

 

 

ヨノイのメイクについて、考えなくてもいいのに考えてみた

自然主義的な描き方をされている『戦場のメリークリスマス』の中で、例外となるのがヨノイのメイクなのではないだろうか?いかにも「メイクしてます」と言わんばかりの常人離れしたかんばせ。まだ『戦メリ』本編を観ていなかった頃、私はヨノイの写真を見て、「『戦メリ』とは、この妖しい顔の人が男たちを籠絡していく話なんだろうな」と勘違いしていたぐらいだ(同性愛が取り上げられていることは耳にしていたので)。

 

 

「GOUT 1983年7月 創刊号 戦場のメリークリスマス特集号」にてメイク担当アンソニー・クラヴェ氏のインタビューが載っているのだが、これが興味深かった。

――"ヨノイ"のメイクは、場面ごとに、どんどん変わっていったように思いましたけど。

アンソニー:その通り、まさに場面ごとにね。何故? それは、彼が永続性を超越してしまっているから。彼のムードは刻々と変わっていく。(略)

 彼は決して繰り返すということをしない。過去は過去、彼は常に現在と未来のことしか考えていない。だから、メイクも彼のその時のムードによって当然変えていかなくちゃならない。神経質になっている時、怒っている時、自分に自信が持てない時、それぞれに応じてメイクは変わるものなの。メイクが彼の表現の手助けをするようにね。

 

引用元:「GOUT 1983年7月 創刊号 戦場のメリークリスマス特集号」、松文館

この部分を読んでいると、ヨノイのメイクとは彼にとっての「仮面」なのではないかと思えてきた。仮面。ユング心理学で言うところのペルソナである。

 ペルソナというのは、古典劇において役者が用いた仮面のことである。人間がこの世に生きてゆくためには、外界と調和してゆくための、その人の役割にふさわしい在り方を身につけていなくてはならない。外的環境は個人に対して、いろいろな期待や要請をなし、その人はそれに応じて行動しなくてはならない。教師は教師らしく、あるいは、父親は父親らしく行動することが期待されている。いわば、人間は外界に向けて見せるべき自分の仮面を必要とするわけであり、それが、ユングの言うペルソナなのである。

 

引用元:河合隼雄『無意識の構造』、中央公論社

作中でヨノイほど外界から期待された役割を遂行しようと躍起になっている人は、いないのではないかと私は思う。

原作者のローレンス・ヴァン・デル・ポスト卿が、ヨノイについて三島由紀夫と比較しながら論じている記事から引用したい。

 小野 「戦場のメリークリスマス」のヨノイを見ながら、私は三島由紀夫を思いうかべてしかたがなかったのですが。

 ヴァン・デル・ポスト 三島由紀夫には私は会っているよ。(略)映画がうまくユーモアの感覚に鋭く、感受性がすばらしく、気持のいい男だった。だが私は心配でもあった……。つまり、彼の場合、生まれながらの自然のままの自己と、自分が創りあげようとする自己のあいだの距離がありすぎて……。

 小野 それは、自分のスタイルを持ち、洗練された(ハラ軍曹とは対照的な)ヨノイにそのままあてはまる。

 ヴァン・デル・ポスト (略)そう、三島や彼は、自分の内部で、ふたつの自己が内戦をおこしている。

 

引用元:「キネマ旬報 5月下旬号 1938 NO.860」、キネマ旬報社

 

過去に私もヨノイの外面と内面の矛盾については書かせていただいた。

nhhntrdr.hatenablog.com

nhhntrdr.hatenablog.com

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誰よりも「日本人的」「帝国軍人的」であろうとしたヨノイが、セリアズによって世界観を根底から揺さぶられる。それでもなお「日本人的」「帝国軍人的」な人間であり続けようともがき続けるも、それもかなわずに狂った人というのが、私のヨノイに対する認識である。

改めてアンソニーさんのインタビューを読んでいると、「日本人的」「帝国軍人的」であろうとしているときのヨノイのメイクと、セリアズによって心揺らぎ、素に近い表情を見せるときのメイクは少々異なっているような気がしないでもない。言ってしまえば、前者のときのヨノイのメイクは濃く、後者のときは比較的薄いような気がする。(飽くまでも「気がする」です。100%妄想なので、あまり真剣に受け取らないでください)

 

ただ、せっかくなので「ヨノイのメイク=仮面(ペルソナ)」、「日本人的であろうとしているときのヨノイのメイクは濃く、素に近いヨノイのメイクは薄い」という滅茶苦茶な前提のまま、さらに言いたい放題書いてみたいと思う。

 

河合隼雄氏『無意識の構造』でペルソナについて説明している箇所で、赤面恐怖症の男性が見た夢が紹介されている。舞台は江戸時代、仮面が貼り付いて離れなくなった二人の娘が処刑場にいるという状況。役人はカミソリで娘の体から仮面を剥がすのだが、あまりにも仮面がぴったり貼り付いていたせいで、刃によって娘の体も深く傷つき、血が噴き出してしまう。

これは硬化したペルソナの悲劇の凄まじさを感じさせる夢である。実際この青年は小さいときから、いつも「よい子」であろうとして努力してきた人である。彼のペルソナは人格に密着しすぎて、簡単な方法ではとれなくなってしまったのであろう。それを取りはずすためにはカミソリで切りさくより仕方がなく、結局それは肉体を傷つけることになってしまう。

 

引用元:河合隼雄『無意識の構造』、中央公論社

ヨノイも「よい子」として育ち続けてきただろうことは想像に難くない。家族や周りから「良き軍人であれ」と言われ続け、その期待に応えるように生きてきたのだろうなと私は勝手に考えている。だが、そうなると抑圧されてしまうのが、本来のヨノイだ。過去の記事では「ヨノイの中には西洋的な価値観もあったのではないか」といった旨を書いた。西洋的な価値観を持っていたとしても、戦時下の日本では隠し抜くしかない。いや、それどころかそんな価値観など持っていないといった風に、自分自身を騙し続ける必要がある。

 

結果、ヨノイのペルソナも硬化する。仮面は分厚くなり、素顔が見えなくなる。それが表現されたのが、濃いメイクのヨノイなのではないだろうか。初登場時やカネモト処刑時のヨノイのメイクは存在感が強く、またヨノイ自身の表情もシカミの面さながらに厳しい。

 

だが、硬化したペルソナを剥がし取ろうとする存在が現れる。言うまでもなくセリアズだ。脱走時のセリアズと出くわしたときのヨノイにもメイクは施されているものの、目もとの冷たさや眉の峻厳さは緩和されているような気がする。

このときのヨノイは敵である自分に刃向かおうとしないセリアズを理解できず、戸惑いの表情を見せている。せっかく抜いている軍刀を振り下ろしもせず、それどころか銃を構えるハラから、(半ば無意識のように)セリアズたちを庇ってみせるという始末だ。ここではヨノイとセリアズの対峙であると同時に、日本人的なヨノイと本来のヨノイとの対峙でもあったように思う。

 

この出来事の直後、部下のヤジマがヨノイに対して諫言した後に自決をする。ヤジマの自決がきっかけでヨノイが狂ったであろうことは、過去の記事で書いたので詳しくは割愛する。

ヤジマの死に罪悪感を感じたであろうヨノイが、剥がれかけた仮面を再び装着しようとしたとき、それは赤面恐怖症の青年の夢に出てきた娘の仮面ぐらい強力にヨノイに密着することになるだろう。こうなると、この仮面は生半可な力では剥がすことなどできない。

夢の娘から仮面を剥がすときには鋭いカミソリが用いられたが、『戦メリ』ではセリアズのキスによって剥がされることになった。このキスが日本人たちにとって、どれほどあり得ない行為だったかについては、原作にて以下のように言われている。

セリエが、部下の目のまえでヨノイを侮蔑したことに気がつかなかったのかい? 日本人は男と女のキスを、どんなに自然な形の物であっても、最も猥褻な行為と考えるってことも、覚えていないか? ハラがキャンプにあった数冊の小説の検閲命令を出して、キスおよびキス・シーンのでてくるページを、ためにならん、本から破り捨てろ、と言ったのを覚えていないかい?

 

引用元:L・ヴァン・デル・ポスト、翻訳・由良君美『影の獄にて』、新思索社

あのキスもまた、夢の娘の肌を切り裂いたカミソリのごとく、強烈な威力でヨノイからペルソナを剥がし取ったのではないだろうか。

セリアズにキスをされている最中のヨノイの表情には、軍人としての威厳などなく、ただただ「人間としてのヨノイ」だけが浮かんでいたように思う。

 

【4/7追記】

「日本的なヨノイと本来のヨノイの対峙」と先に述べたが、このキスの場面でも同じことが言えるような気がしてきた。キスの直後、ヨノイは軍刀を構え、セリアズを斬ろうとするが、すぐに苦悶の顔を浮かべて卒倒する。セリアズを罰しようと(または報復しようと)したヨノイは日本的なヨノイだ。

日本的なヨノイは軍人らしく、自分を侮辱したセリアズを殺そうとするが、そこで本来のヨノイによる反乱を受ける。だからこその苦悶の表情ではないだろうか。本来のヨノイにより、日本的なヨノイはセリアズを殺せずに終わる。

本編中、水面下で何度も繰り広げられたであろう日本的なヨノイと本来のヨノイの戦いは、本来のヨノイの勝利によって終結したのかもしれない。

 

 

最後に

坂本龍一さんの訃報で居ても立ってもいられなくなり、着地点が見つからずお蔵入りにしようかと思っていたヨノイのメイク話を取り上げてみた。先にも述べた通り、ヨノイの演者として教授以上の人はいなかったのではないかと私個人は考えている。

演技力について、台詞回しの拙さとかが取り上げられることが多いが、あのぎこちないしゃべり方が、結果的に「自分の内部で、ふたつの自己が内戦をおこしている」ヨノイにぴったりだったと感じている。不安定さが常に漂っていることで、却ってヨノイのチャーミングさが引き立ったのだと私は思う。

また、表情の作り方については文句のつけようもない。収容所所長という役割を勤め上げようとしているときの厳しい表情。セリアズに惹かれつつあるときの無防備な表情。キスをされたときの弱々しい表情。これらの表情を、見事に演じ分けていたのは脱帽である。キス直後のカットは特に素晴らしい。最初は面子をつぶされたことに対する怒りを顔に浮かべつつも、セリアズに手を下しきれずに倒れる。この一連の流れを移り変わる表情で見事に表現されていたと思う。

 

『戦メリ』のキャスティングは難航し、特に日本人キャストは撮影直前まで確定しなかったというのは有名な話だが、結果的にあのキャスト陣に落ち着いたのは奇跡と言うほかない。教授演じるヨノイが好きな私としても、この奇跡には感謝している。

 

 

改めて。坂本龍一さん、ご冥福をお祈り申し上げます。この上ない形でヨノイという人物を表現してくださり、本当にありがとうございました。

 

※続きはこちら

nhhntrdr.hatenablog.com

 

※こちらの記事でヨノイの死について、あれこれ書いています。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

※原作者ヴァン・デル・ポストの別作品『新月の夜』の感想のつもりが、ヨノイ記事になったので、この記事を読んでくださった方は是非こちらもどうぞ。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

※『戦メリ』感想記事リンク集

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

 

 

 

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