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木原音瀬『美しいこと』ネタバレ感想

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※注意!『美しいこと』のネタバレがあります。

 

 

初めて木原音瀬このはらなりせさんの本を読んだのは、もう十年前以上になるだろうか。本屋で『牛泥棒』というBL小説を見つけたのだ。今は手放してしまったから詳しい内容は覚えていないけれど、明治か大正あたりの時代を舞台にしたBLという点に惹かれて購入した。実際に読んでみて、ストーリーや人間関係があまりにも丁寧に描写されていることに驚いたことはよく覚えている。

もちろん、BLだからといってすべての作品が「やまなしおちなしいみなし」であるわけではないし、個人的には「やまなしおちなしいみなし」だって嫌いではない。とはいえBLはジャンル名が語る通り、恋とか愛ありきなのである。「やまなしおちなしいみなし」な展開になる前に、しっかりと相手に惹かれ、恋をし、愛するところを見たい。そんな私の欲求に答えてくれたのが、『牛泥棒』だった。

今確認してみたところ、『牛泥棒』は絶版中のようだ。畜生、手放すんじゃなかった。

 

 

そういうわけで木原音瀬さんの作品が気になるようになっていたところ、行きつけの本屋(昔、梅田・泉の広場の近くにブックファーストの漫画専門店があったのです)の新刊コーナーで『美しいこと』の上巻に出会ったのだった。木原さんの新作ということ、かつ美しい表紙のイラストに惹かれ、購入したっけなぁ。

 

『美しいこと』は現代(上巻刊行時は2007年)を舞台にした物語で、サラリーマンの男性同士の恋愛が描かれている。BLだから恋をするのが当たり前と先述したが、その恋する経緯が丁寧すぎるほど丁寧に描写されていて、またしても私は木原ワールドにのめり込み、あっという間に上巻を読了し、下巻の発売を心待ちにしたものだった。この恋愛の行く先を早く見届けたいと焦れに焦れた。

 

『美しいこと』は人が人を好きになることが、これでもかというほどに深く描かれている。主人公の二人はどちらも物語開始時は異性愛者だ。本来は女性を恋愛対象にしていた男二人が、自らが自らに課したタブーを乗り越えたところで相手に惹かれ、苦しみ、葛藤する。その様子を見て、読者までもが狂おしい思いに駆られる。

 

 

 

『美しいこと』3バージョンについて

さて、感想に入る前に少しだけ説明をさせていただきたい。

『美しいこと』は蒼竜社よりBLのレーベルから出版されていた。2007年に上巻、2008年に下巻が刊行され、さらに有償の全員プレゼントとして描き下ろしストーリーが掲載された小冊子も発表されている。上巻から下巻の四分の一ほどにかけて収録されているのが「美しいこと」で、主人公はイケメンかつエリートサラリーマンの松岡洋介。BL的に言えば、彼が受けである。下巻の残りに収録されているのが「愛しいこと」だ。こちらの主人公は、松岡が恋い焦がれて仕方ない相手・寛末基文ひろすえもとふみで、彼がいわゆる攻めである。小冊子に載っているのは後日譚の「愛すること」で、こちらは再び松岡が主役となっている。

この通り、『美しいこと』は「美しいこと」「愛しいこと」の二本の長編と「愛すること」の短篇という三つの物語から成り立っている。

なお、蒼竜社版は絶版のため、今は中古でしか手に入らない模様。

 

「美しいこと」のみを一冊の本にまとめた講談社文庫版が2013年に出版されている。こちらは現在も紙媒体・電子書籍ともに入手可能。ただ、挿絵はすべてカットされているし、「愛しいこと」と「愛すること」は講談社文庫版では読むことができない。

 

現在、蒼竜社版に近い形で読めるのが、のはらの星から2021年に復刊されているバージョンだ。全3巻で構成されており、第1巻が「美しいこと」、第2巻が「愛しいこと」、第3巻が「愛すること」となっている。さらに、第1、2巻には短篇も追加で収録されている。こちらは『美しいこと』がドラマCDになったとき、リーフレットに載っていた作品である。逆に蒼竜社版にあった著者あとがきは削除されている。また、一部の単語が現代に合わせて置き換えられている。「携帯電話→スマホ」「オカマ→トランスジェンダー」等々。

 

 

これだけ長々と説明したのは、以降の感想は「美しいこと」「愛しいこと」「愛すること」すべてに言及したいからだ。つまり、講談社文庫版を読んだ人にとっては、本編終了後の展開もネタバレしまくっているので、注意してくださいね、と言いたいゆえの説明なのだった。ダラダラとすみません。

 

 

ネタバレ感想

「美しいこと」

先述した通り「美しいこと」の主人公・松岡洋介はイケメンで仕事もできるサラリーマンだ。その上、性格も良いという、絵に描いたようなハイスペックな男性である。そんな彼には、誰にも言えない秘密があった。ストレス解消のため、毎週金曜日の夜に女装をして街に繰り出しているのだ。

 

その日も夜の街へと繰り出したところナンパされ、松岡は男とともにバーに入る。だが、うっかり飲み過ぎてしまい、気を失っている最中にホテルの部屋へ連れ込まれてしまった。男は松岡が男性だと気づくと、怒りを露わに暴力を振るう。

無我夢中で逃げる松岡だが、靴も鞄も置き忘れてしまい、その上、雨まで降ってくる始末。ずぶ濡れで裸足という惨めな風体で道端にしゃがみ込む松岡を、通り過ぎる人たちは気味悪がって黙殺する。金がないから交通機関に乗れず、携帯電話は家に置いてきたため、友人に助けも呼べない(もっとも、助けを呼べば友人に女装趣味を知られることになってしまうから、もともと取りづらい手段ではある)。

 

困り切った松岡に一人の男が傘を差しかける。彼は松岡に自らの靴を履かせ、さらにはタクシー代まで持たせてくれた。彼は松岡と同じ会社に勤める寛末基文だった。松岡は営業、寛末は総務だったため、それまでは全く関わりがなかったが、松岡はこの出来事がきっかけで寛末に関心を持つようになる。

 

寛末に靴とタクシー代のお礼をするため、松岡は再び女装をして寛末のもとへ会いに行く。無事お礼ができたのは良いものの、この二回の出会いで寛末は女装した松岡をすっかり女性だと信じ込み、惹かれるようになってしまう。困ったのは松岡だ。彼にとって女装は飽くまでもストレス解消のための趣味であり、恋愛対象は女性なのだから。金輪際、女装はやめようと松岡は思う。しかし、女装した松岡に焦がれる寛末を見ているうちに、松岡はまた女装して彼に会おうと決意するようになる。きちんと彼を振って、諦めてもらおうと考えたためだ。だが、決定的に振ることはできず、それどころかメールアドレスの交換までしてしまう。以降、松岡は「江藤葉子」と名乗り、寛末とメールのやりとりを交わすようになる。

 

寛末は冴えない容貌で、要領も良くない。会社では年下の上司の補佐をやっていたが、その上司に毛嫌いされているため、何かと突っかかられる。他人から見下げられがちで、口下手な寛末だが、その分だけ彼には飾り気のない優しさがあった。江藤葉子として会っているとき、会社でトラブルに見舞われた際に助けられたとき。折々の場で、松岡は寛末の人間的な魅力に気づいていく。だからこそ、松岡は早く江藤葉子としての寛末との関係を終わらせたい。そして、松岡洋介として寛末と友達になりたいと切望する。

 

しかしながら、松岡が「松岡洋介」として何とか寛末に近づけないかと考えているうちにも、寛末は「江藤葉子」への想いを深めていく。自分を飾り立てようとしない分、寛末の言葉は真っ直ぐだ。真っ直ぐに愛を伝える言葉が江藤葉子に対するものだとわかっていながら、松岡自身がうっかりときめいてしまう。

不器用ゆえに恋の駆け引きなどできない寛末だから、江藤葉子が及び腰になっていようと、彼は自分の気持ちのままに動く。江藤葉子に会うために、来るはずもない彼女を彼はいつまでも待ち続ける。松岡も松岡で、そんな寛末が心配で陰から見守ってしまう。雨が降る中も待ち続ける寛末を見かね、松岡は江藤葉子を装い、帰るようにとメールを送る。

『もう帰ってください』
 メールを送った。少しすると、それまでじっとしていた男が慌てて周囲を見渡しはじめた。無様なぐらいオロオロして、時計塔の周囲を歩き回る。犬みたいに何回も何回も。三十分ぐらいそうした後で、ようやく駅に入ってきた。目の前を行きすぎた男は、傍迷惑なぐらい濡れそぼって、俯き加減の顔は青白く、死人のようだった。
 寛末が見えなくなった後で、少し泣いた。自分はあの不器用で要領の悪い男を好きなのかもしれないと、愛しているのかもしれないと、そう思った。

 

引用元:木原音瀬『美しいこと』、のはらの星

この部分を読んだとき、私も松岡につられて泣きそうになった。木原さんの文章は割とさっぱりしていて、華麗な比喩表現が使われることはあまりない。だが、文章に飾り気がないからこそ、率直さが胸に来る。「少し泣いた」という表現。いい大人が外出先で「少し泣い」てしまうような心境を思うに、私まで切なくなってしまう。

 

寛末への想いに気づいてしまった松岡は、江藤葉子として寛末と会い続ける。寛末に真っ直ぐすぎるほど真っ直ぐに愛を囁かれ、大切にされるたび、松岡は不安になる。

『君のことが好きです。もう何十回書いたかわからないけど』
 画面をスクロールして、好きですの部分を何度も読んだ。
「あんたさ、俺が男でも好きって言えるの?」
 聞いてみたところで、その問いかけに返事などあるわけがなかった。

 

引用元:木原音瀬『美しいこと』、のはらの星

寛末が自分の正体を知ってもなお、愛してくれるだろうか。それがわからずに松岡は焦れる。

 

だが、寛末を騙した上での関係が長続きするわけがなく、遂に松岡は寛末に秘密を打ち明けることを決意する。江藤葉子として寛末にメールを送り、彼の気持ちを確認する。

『僕は君を美しい人だと思います。だけどその姿形より、心に惹かれます。正しくて、強くて優しい心に惹かれます』
 届いたメールを、時間をかけてゆっくり、そして何度も読んだ。
『私もあなたが好きです。あなたは私がたとえ八十歳のおばあちゃんでも、小さな子供でも、あなたにつりあう人間でなくても、それでも愛してくれますか』
 返事に、少し笑った。
『僕は葉子さんがおばあちゃんになっても、子供になっても、どんな姿になっても、きっと捜し出して愛してしまいます』
 沢山の言葉、愛の言葉に背中を押してもらい、松岡はメールを送った。
『私もあなたに会いたい。会ってください。その時に、全て正直にお話しします』

 

引用元:木原音瀬『美しいこと』、のはらの星

寛末の言葉を信じて、松岡は彼に真実を明かすために待ち合わせ場所へと赴く。

 

 

長々とストーリーを紹介したが、これでもまだ「美しいこと」の前半部分に過ぎない。ここで凡庸なBLなら、松岡が寛末に正体を明かすと、寛末は「君が男だなんて関係ない。僕は君の心に惹かれたんだ」とでも言って、二人は結ばれてハッピーエンドになるのだが、「美しいこと」はそう上手く行かないのである。

寛末は江藤葉子の正体が男の松岡だと知り、激しく動揺する。松岡は寛末をきちんと愛していることを伝えるが、寛末は松岡の行動が理解できず、彼のもとから去って行く。

 

この後は一転し、松岡の片恋の物語となる。どれだけ想っても、寛末の態度はそっけない。下手に江藤葉子として熱烈に愛された経験があるから、寛末が誰かを愛したときにどれほど情熱的になるかを知っているから、冷め切った寛末の態度が松岡を傷つける。

寛末に愛されようともがき、それでも駄目だと絶望する。今度は寛末を諦めようと距離を置こうとするのだが、運悪く別の形で寛末とのつながりができてしまう。しかし、そのつながりの中で、松岡は寛末が別の誰かと寄り添う姿を見せられるという拷問を味わわされる。

 

愛されたい。だが、愛してもらえない。ならば寛末から離れたい。なのに離れられない。女性に人気があり、仕事もできる万能な人間だった松岡が、恋によって惨めなまでに苦しまされる。江藤葉子だったときは美点だと思っていた寛末の飾り気のなさが、松岡洋介として対峙した途端、無神経さとして突き刺さってくる。容姿以外、江藤葉子と何ひとつ変わりはしないのに、これだけの温度差を見せつけてくる寛末が憎い。それでも、根底には寛末への愛があり、決して決定的な憎悪に変わってくれやしない。

 

一度、松岡は寛末に抱いてくれるように懇願する。男が駄目だと思っても、実際にしてみれば案外大丈夫かもしれない。そう思って始めたセックスは寛末が前後不覚なまでに泥酔していたこともあり、「松岡洋介」という存在を根本から否定するようなものだった。だから、寛末が憎らしい。そう思っても、松岡は寛末を憎みきれない。

 全裸でうつ伏せている男の傍に近づいた。気持ちよさそうに寝ている顔を見ていると、殴ってやりたい衝動に駆られる。右手を大きく振り上げ、けど何もできずに膝の上に落ちる。知らないうちに涙が溢れてきて、男の頬にぽたぽたと落ちた。くしゃくしゃの頭をそっと抱えて、うずくまる。
 しばらくそうしたあと、押し入れの中から毛布を取りだして男にかけ、目覚まし時計を朝の七時に合わせた。こたつの上に『鍵は郵便受けに入れています』と書き置きし、部屋の外に出てドアに鍵をかけた。

 

引用元:木原音瀬『美しいこと』、のはらの星

今回、改めて読み直して、ここの部分に胸をつかまれる思いがした。「惚れた弱み、ここに極まれり」と言うと軽く聞こえるかもしれないが、それでもこうとしか言いようがない。自分を心身ともに傷つけた男に報復するどころか、毛布を掛け、目覚まし時計までセットして立ち去る松岡が惨めで、それでいて健気に思えたのだ。

 

ここまで来ると、最早執着と言っていいのだろう。執着を捨てられれば楽になるが、簡単に捨てられないからこそ執着であるわけで。

 

 

「美しいこと」のラストで、そんな松岡のもとに寛末との関係を発展させるチャンスがやって来る。もともと諦めるしかなかった恋にもたらされたチャンスなのだから、普通は喜ぶべきことのはずだ。だが、寛末への執着でぐちゃぐちゃになった松岡は泣き崩れる。

「お願いだから……」
 声が震えた。
「俺が寛末さんを好きだってことを、逆手に取らないで……」

 

引用元:木原音瀬『美しいこと』、のはらの星

こんな悲痛な言葉があるのか、と初めて読んだときに呆然となった記憶がある。もたらされたチャンスが苦しみの延長になる可能性は高い。これ以上苦しみたくはない。それでも、寛末から離れられない。

カッコいいはずの松岡が、情けなく惨めに咽び泣く。だが、そんな愚かしくも健気な松岡の姿を見て、人が人を好きになることの理屈を超えた凄まじさを感じさせられる。「美しいこと」は誰かを好きになることを、誠実に書き上げた物語だと私は思う。

 

でもって講談社文庫版は、ここで終わりとなる。正直、生殺し状態です。なぜ「愛しいこと」も文庫化しなかったんですか。

 

 

「愛しいこと」

「美しいこと」の続編「愛しいこと」は、寛末が主役の物語となる。松岡視点の「美しいこと」でも寛末が自分自身を不器用だとか要領が悪いと自覚していることが読み取れる描写はあったが、いざ寛末視点の「愛しいこと」になると、彼がコンプレックスの塊だったことを知らされる。

 

冴えない容姿、特に趣味はなく、仕事の面でもパッとしない。「美しいこと」開始時の寛末は総務主任補佐というポジションだったが、補佐を外され、本社から左遷されと、キャリア的には踏んだり蹴ったりな目に遭っていた。それに加え、「愛しいこと」では遂にリストラまで言い渡される。その一方で、年下の松岡は異例の若さで営業課長へと昇進する。

 

男同士だが、松岡を好きになれるかもしれない。だが、それ以上に松岡とは友人同士でいたい。そんな葛藤をしている寛末に、さらに松岡への嫉妬という感情まで加わってくる。自分と違い、整ったルックスを持ち、誰からも好かれ、何より会社から必要とされている。そんな松岡が男として妬ましくて仕方がない。

 

「美しいこと」もそうだったが、「愛しいこと」も男同士であるということが重要なポイントになってくる。今はどうかわからないが、私が熱心にBL(というか「やおい」)を読みあさっていた頃、私の身の回りの腐女子たちは自嘲気味に「BLって男同士に見せかけて、実際は男女の恋愛みたいなものだよね」と言っていたものだった。つまるところ、受けは男の身体をした女性で、そこで繰り広げられるのはスイートな少女漫画にセックスをプラスした恋愛ストーリーなのである。それゆえ男同士という事実は、そこまで障害になることはない。何しろ、受けはそんじょそこらの女よりも魅力的で色気があって美しいからだ。攻めはあっという間に受けにメロメロになり、他の女は目に入らなくなる。

(だったら男女の恋愛物――つまるところ少女漫画を読めば良さそうなのに、なぜ敢えて男同士の恋愛物を読むのかという疑問を持たれた方には、斎藤環さんの『母は娘の人生を支配する なぜ「母殺し」は難しいのか』の腐女子に触れた部分を読んでみることをおすすめしたい)

 

 

 

王道のBLにおける攻めとは違う姿勢を見せるのが、寛末だ。寛末にとって、松岡とは男同士であることが、プライド的にも性的にも障壁となってくる。松岡と一緒にいると、コンプレックスを刺激されて辛い。「美しいこと」でも描かれていた通り、寛末は自分を取り繕えない男だ。この状態で松岡と上手く友人関係を結び続けることも叶わず、彼は実家に戻ることを決意する。

引っ越しの直前、寛末は松岡に友達以上の感情は持てないことを告げ、松岡は逆に寛末とは友達ではいられないと吐露する。

「俺は友達なんて嫌だ。友達だと、寛末さんに恋人ができたり、結婚するって言われた時は『おめでとう』って言わなくちゃいけないんだろ。俺はそんなの絶対に言いたくないし、人のものになる寛末さんも見たくない」

 

引用元:木原音瀬『美しいこと2:愛しいこと』、のはらの星

考えてみると皮肉な話だ。「美しいこと」で松岡が当初狙っていたのは、江藤葉子としての寛末との関係を解消し、松岡洋介として友人同士になることだった。だが、その希望が叶ったときには、松岡は寛末の友人ではいられなくなっていた。

 

その後、田舎に戻った寛末はのどかな環境の中、松岡との関係を見直していく。松岡のことは江藤葉子のように思うことはできない。同じ人間なのに、松岡と江藤葉子で何が違うのか。男だということが駄目なのか。なぜ男だと駄目なのか。色々と考えているうちに、寛末は松岡とまた会いたくなる。

だが、時すでに遅し。松岡は寛末を諦めるため、携帯を番号ごと替え、住んでいたマンションも引き払っていたのだ。

 

「美しいこと」の後半では松岡が頑なな寛末の心を動かそうと足掻くが、「愛しいこと」では逆に寛末が松岡に再び会うために苦心する。江藤葉子に感じていたような情熱はない。だが、松岡と一緒にいると楽しいし、ずっと友人としての付き合いを続けたい。不器用な男が、こちらも惨めな風体を晒して、相手を求めてもがき、足掻く。

 

個人的に、松岡を追いかけつつも、これが恋かどうかはわからないとうじうじしていた寛末が、とある一点で火がつくように自分の思いに気づくシーンが好きだ。そのきっかけになるのが松岡のとある行動で、それによって寛末は今まで気づかなかった松岡の愛情や優しさに気づかされる。

先に「美しいこと」で松岡が寛末とのセックスにボロボロになりつつも、寛末のために毛布を掛けたり目覚ましをセットした箇所を引用した。こんな見えにくい松岡の寛末への思いが、そこでようやく報われるときが来たのだと実感させられるのが、そのシーンなのである。

 

男同士だからこそ生じたわだかまり。それを超えて、寛末はようやく自分の本心を知る。そこに至るまでに「美しいこと」も含め、本一冊半もの分量がかかるあたりが寛末さん、マジ寛末さんである。

本編中、ずっとうじうじ悩み続け、はっきりとしない寛末。遂には松岡からも「……あんなんのどこがいいのかって、何回も自分に聞いた。」と言われるほどである。実際、初めて「愛しいこと」を読んだとき、私は「寛末、クズ過ぎるだろ!」と思った。だが、「美しいこと」で松岡の目を通して、寛末の優しさ、心の美しさを知り、その上で私自身も寛末への恋愛を追体験させられている。おかげで、松岡が寛末を嫌いになれない理由は痛いほどにわかるのだ。

だから、二人の迎えた結末に安堵し、喜びを覚える。恋に苦しんだからこそ、二人には穏やかで幸せな生活を送ってほしいと思う。

 

優柔不断で無神経で要領の悪い男・寛末が、誠実に愛と向き合った物語が「愛しいこと」なのではないだろうか。そんな気がしてしまう。

 

 

「愛すること」

無事、結ばれた後の松岡と寛末の姿が描かれているのが「愛すること」だ。基本的には本編を読んだ人へのご褒美話みたいな感じなので、松岡と寛末が遠距離恋愛をものともせず、ひたすらいちゃいちゃしている話となっている。つまるところセックスシーンが多めなので、BL未経験または苦手な人は注意が必要かと思う。

 

ただ、そこは木原作品。割と一筋縄ではいかず、松岡が寛末に東京に戻ってほしいと思いながらも、彼のプライドを傷つけるのではないかと心配して言い出せずに七転八倒するというメインストーリーが繰り広げられる。「愛しいこと」で寛末のコンプレックス等々に振り回されただけあって、少々愛されたぐらいでは安心できない松岡が哀れと言えば哀れではある。とはいえ、寛末が面倒くさいのは悩んでいるときのみであって、自分の気持ちに正直になっている状態なら何の心配もないようなので、松岡くんはもう悩まないでいいと思う。

 

かつては有償の限定冊子でしか読めなかったストーリーが、現在は電子書籍で買えるのだから、良い時代になったなぁと思う。

ただ、ただですね。蒼竜社バージョンだと挿絵担当の日高ショーコさんによるおまけ漫画が付いていたんですよ。現在の電子書籍バージョンにはそれがないのが残念。松岡の家で同棲を始めた二人が、カレーを作るカットが載っているのだけれどなぁ…。松岡のために野菜の下処理を(すんごく不器用そうに)する寛末が可愛いんだよ、これ。

 

 

最後に

というわけで、人が人を好きになることを、とてつもなく真面目に、丁寧に、誠実に描いた『美しいこと』。個人的には、のはらの星バージョンがオススメだが、外出先でしれっとした顔で読めるという点では講談社文庫版も悪くはないかなぁと思う。今からでも遅くないから、講談社文庫版の「愛しいこと」出しませんか?

 

ドラマCD版についても語りたいことがあるけど、今回の記事が長くなったので、またの機会にしたいと思う。

 

 

のはらの星版

 

 

 

講談社文庫版

 

コミックス版

 

 

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