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ヴァン・デル・ポスト『影の獄にて』を読みながら『戦場のメリークリスマス』をもう一度考えてみる

※注意!『戦場のメリークリスマス』、ヴァン・デル・ポスト『影の獄にて』のネタバレがあります。

 

 

先日『戦場のメリークリスマス』の感想を書いたのだが、その際に繰り返し本編を見たことで、うっかり『戦メリ』熱が再燃してしまった。(コメントをいただいたり、言及をいただいたりして、非常に嬉しく思います。ありがとうございました!)

 

数年前に初めて観たときも「素晴らしい映画だ!」と感動したのだが、今回は感想を書くために何度も観たことで、寝ても起きても『戦メリ』のことを考えてしまうようになった。自分で自分を沼に突き落としてどうする、と自分自身に呆れているところだ。

それはともかく、この勢いで積ん読状態だった原作本に手を出したところ、また色々と語りたい欲が湧いてきた。そういうわけで、今回は『戦メリ』二回目の感想記事とさせていただいた。

 

ちょうどシナリオ本も手に入れることができたのだが、手に入れたタイミングが今回の記事をほとんど書き終えたところだったので、シナリオ本の内容を反映させることができなかったのは残念だ。

前回の記事はシナリオ本を反映した追記を付けてみたので、ご興味のある方はよろしくです。

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今回、引用元の表記のない日本語の引用文は、すべてL・ヴァン・デル・ポスト著『影の獄にて』からの引用となっている。

また、原文のニュアンスに触れたい部分もあったので、少しだけ原著もつまんでみた(英語苦手なので、本当に少しだけ)。英語の引用文は、すべて原著『The Seed and the Sower』を引用元としている。

 

 

 

 

欠落を抱えたセリエ

『影の獄にて』は、語り手の「わたし」のもとに戦友だったロレンスがクリスマスの日に訪ねてきて、二人で戦中の体験を語り合うという内容となっている。第一部から第三部までに分かれており、主に『戦メリ』のもとになっているのが第一部「影さす牢格子」と第二部「種子と蒔く者」だ。
今回はセリアズとヨノイのエピソードのもとになった「種子と蒔く者」を中心に語りたい。

 

「種子と蒔く者」は前半はセリエ(セリアズ)の手記、後半は「わたし」が捕虜収容所で見たセリエを語るというスタイルだ。前半、セリエの言葉で語られるのは、彼が欠落を抱えた人間であること、欠落に苦しんだ末に回復していく経緯である。
欠落を抱えた、と言ってはみたが、セリエは実に申し分のない男性だ。美しい容姿を持ち、誰からも好かれ、文武にも優れている。にもかかわらず、彼は何を欠落させたというのか。


それは、セリエ自身が語っている。彼は美しさゆえに他者からの期待を背負わされた。そのために「わたしは自分のこのささやかな、かけがえのない肉と血を、周囲の連中の影のような欲望や、亡霊のような願望や、未熟児的な自我にむざむざ貸し与えてしまったのだ。(中略)徐々にしかし確実に、わたしは自分自身から痛ましいほど疎外されたのだ。」という。彼は外面的な美と引き換えに、心や魂といった内面の豊かさを取り上げられたのである。

 

セリエを補完する存在

一方、弟はセリエとは真逆の存在だ。畸形に生まれ、周りの人間から疎まれる哀れな存在。その一方で、自然との深いつながりを持ち、超人的な感覚を持っているなど、どこか人間という枠を超えた大きさを有している。
セリエの弟に対する感情は複雑だ。愛し慈しむ一方で、憎しみを感じたりもする。自分が持っていないものを持っている弟に対する嫉妬なのではないかと私は思う。弟のほかにセリエが愛憎相半ばする思いを抱くのが、カモシカのストンピーだ。


北アフリカにあるセリエの家の周辺には、カモシカの群れがやって来るのだが、ストンピーはその中の一匹である。

彼は畸形のカモシカだったために、群れから疎外されていた。それでも彼は少し離れたところから群れに付き従い、狩猟者が現れたときには体を張って群れを守るのだった。セリエは狩りに出るたびにストンピーを哀れんで、標的にはせずにいた。なのに、ひょんな出来事がきっかけでストンピーに苛立ちを覚えるのだ。


弟とストンピーは非常に似た存在だ。外部の世界と摩擦を生じさせながらも、自分の心に従い、迷いなく生きている。
だが、セリエは彼らが「外部の世界と摩擦を起こしている」という理由で、外部の世界に合う形に是正しようとした。その結果、弟は新入生に対するイニシエイションでいじめを受け、ストンピーはセリエの手で殺された。
ストンピーが死んだ直後、セリエと弟の間で交わされた会話は何やら象徴的に思える。

「ストンピーの望みだぜ。それにこの方が親切ってもんさ。面白いことなんかなかったろうし。誰も近づこうともしなかったんだ。」
 かつて見たことがないほど弟が激昂したのは、このときであった。「どうしてわかるの?」と彼は激しく詰問した。「生がこいつを必要としたに違いないんだ。でなきゃ、生まれてなんかこなかったのに。」

ここで弟が口にした「生」という言葉を覚えておいていただきたい。

 

生について

二つの裏切りをきっかけにセリエの中に潜んでいた「無」が顕在化し、彼を蝕むようになる。

その後のセリエは無から逃げるように仕事に打ち込み、戦争勃発後は、いの一番に志願し、最前線に出るようになる。ほとんど、自傷行為と言ってもいいように思う。休みなく働き、戦っても、無は隙を縫ってセリエの中へと入り込む。このときのセリエは一種の精神疾患のような状態にあったのではないだろうか。


そんなセリエが無から救われたきっかけが、パレスチナでキリストの幻と出会うという宗教的な体験からだった。キリストの言葉に背を押されるように弟のもとへ向かい、和解を果たしたところでセリエの手記は終了する。

これ以降は「わたし」の回想に引き継がれるのだが、この中でセリエが悟りを開いた瞬間が語られる。弟との和解後、セリエはジャワへと派遣されるのだが、とある出来事によって気づくのだ。

異教の森のなかで、素朴なキリスト者の魂が歌うのを聞いて、ぼくは自分が生の意識に従順でなかったことを理解した。

その後病棟でセリエは、人が自らの生の意識に従順にならないと、生には意味がないことを悟ったと説明してくれた。戦争前の彼を苦しめつづけた無意味感は、このために他ならないと彼は考えていた。自分はより大きな意識に従っていなかったのだ、と。

彼はこれからは、生のなかにより大きな全体性を求める必要を、なによりも愛してゆかねばならぬことを悟った。


「生(life、live)」は「種子と蒔く者」では頻出する言葉だ。先ほど引用した弟のセリフの中にもある。物語全体を読んでいると、この物語における「生」には命や生きるという意味だけでなく、ユング心理学における「自己」が含まれているようにも感じる。


自己とは何かについては、河合隼雄の著書から引用したいと思う。

人間の意識は自我を中心として、ある程度の統合性と安定性をもっているのだが、その安定性を崩してさえも、常にそれよりも高次の統合性へと志向する傾向が、人間の心の中に存在すると考えられるのである。(中略)これに対して、ユングは、人間の意識も無意識も含めた心の全体性に注目し、そのような心全体の統合の中心としての「自己」の存在を仮定するようになったのである。


引用元:河合隼雄著『無意識の構造』、中央公論新社

 

また、河合氏は「自己の存在を忘れたひと」について、こう述べている。

自分の意識体系を強化させ、発展せしめると同時に、無意識なもの、すなわち、非合理的なもの、劣等なものを抑圧してきたひとは、その強い自我によって地位や財産を築くことになろう。しかし、このようなひとは、ふとあるとき自分の地位や財産や、その仕事など、彼が誇りとしてきたものの「意味」がわからなくなったと感じ出すかも知れない。簡単にいうならば、そのひとたちは、自分が自分のたましいと切れた存在であることに気づき始めるのである。


引用元:河合隼雄著『ユング心理学入門』、岩波書店

 

弟がセリエに投げつけた言葉は、つまりはセリエが生を蔑ろにしていたことを意味している。容姿端麗で優等生、後には弁護士として活躍するようになるセリエだが、幼い頃から「自分のたましいと切れた存在」だった。
だが、パレスチナでの宗教的体験とジャワでの覚醒を経て、セリエは欠落から回復する。つまりは自分のたましいとのつながりを取り戻したのだ。

 

ヨノイとの出会い

生に従順になり、自分のたましいとのつながりを取り戻した後、セリエが出会ったのがヨノイだ。
前回の記事で「セリアズがヨノイをどう思っているのかがわからない」と述べたが、原作にはしっかりと書かれていた。他ならぬセリエ本人がこう言っている。

「ヨノイもぼくも同じように、あでやかな羽毛に眼のくらんだ鳥仲間ってところだろうな。あの男も自分のなかの法から逃亡したのだ――ぼくと同じさ。」

「自分のなかの法(inner law)」が意味するものは、この物語における「生」と等しいものだと理解して良いと思う。

その上で考えると、ヨノイもまた「生の意識に従順でない、自分のたましいと切れた存在」なのだ。作中で執拗にヨノイが美青年だと言及されていることも、どこか示唆的だ。

ヨノイは東洋に生まれ育った、もう一人のセリエなのではなかろうか。彼も美しさや才能ゆえに第三者の期待ばかりを背負わされ、内面の豊かさを置き去りにしてきたのだろう。原作ではヨノイの過去については一切書かれていないから、今私が言ったことはすべてただの勘ぐりに過ぎないのだが、このまま話を進めたいと思う。

 

個人として生きていない日本人

ところで、第一部「影さす牢格子」の中でロレンスが日本人について述べている箇所がある。

あたかも、個人というものが、その出発点から、生まれおちるやすでに、自分自身の、個人として生きる資格を拒絶しているかのようだった。生まれてからというものは、日本人は、個々の人の範型や実例に動かされるというよりも、むしろ社会全体を守り抜くため、一秒の何分の一のあいだに何百万と死んでゆく、血のなかの血球の行いにたいする生得の勘によって動かされるようになる。(中略)集団としてみれば、日本人は、雄の女王蜂である天皇を中心とする、一種の蜂たちの超社会だった。

「個人として生きていない」のが日本人だとされている。中でもハラは極端に日本人的な人間として描かれている。ハラは空虚の男だ。彼は捕虜たちに暴力を振るうが、それをさせているのは彼自身ではなく「彼のなかの日本の神々」なのである。

 

ここでハラのことを持ち出したのは、ヨノイと比較したかったからだ。ヨノイはハラと同じく日本人として、個人を放棄して生きているが、同時にハラほどに振り切って日本人的になれなかったように私には思える。「生」について薄々気づいていながら、戦時中の日本という状況に適応するために、敢えて見ないふりをして彼は生きてきた。だからこそ、「自分のなかの法から逃亡したのだ」とセリエに見破られてしまったわけである。

 

先にユング心理学の「自己」という概念を持ち出したが、ここでは追加して「影」という概念について河合隼雄の『影の現象学』から引用したい。

 ひとはそれぞれの人なりの生き方や、人生観をもっている。各人の自我はまとまりをもった統一体として自分を把握している。しかし、ひとつのまとまりをもつということは、それと相容れない傾向は抑圧されたか、取りあげられなかったか、ともかく、その人によって生きられることなく無意識界に存在しているはずである。その人によって生きられなかった半面、それがその人の影であるとユングは考える。


引用元:河合隼雄著『影の現象学』、講談社

 

セリエとヨノイの一体性

言うまでもなくセリエとヨノイはお互いに「影」同士の関係だ。だが、同時にプラトンの『饗宴』のことも私は思い出してしまうのである。


この中でアリストファネスが太古の人間の姿を語っている。大昔、人間には三つの性別があり、それは男性と女性、そして男性と女性を併せ持つ〈アンドロギュノス〉だ。さらに太古の人間は球体の体で、腕が四本、足が四本、頭が二つという形状だった。彼らはやがて神への反抗を企てるようになり、ゼウスたち神々は話し合った末に人間たちを真っ二つにすると決める。つまり、男性だった人間は二人の男性に、女性だった人間は二人の女性に、アンドロギュノスはひと組の男性と女性に分かれてしまったわけである。

 かくして、人間が元来もっていた体は、二つに分断されてしまった。だから、誰もが自分の半身を恋しがり、自分の半身と一緒にいた。
(中略)
 このとき以来、人間の中に、互いに求め合うエロスが生まれた。それは、人間の太古の姿を回復させて、二つのものを一つにし、人間本性を癒そうとしてくれるものだ。


引用元:プラトン著『饗宴』、中澤努訳、光文社

 

ここで『饗宴』を持ち出したくなるほどに、本文中ではセリエとヨノイの一体性が頻繁に言及されているのだ。特にヨノイはセリエに強い関心を抱いている。映画と同じくセリエを死刑から救うし、怪我をしたセリエを一日も早く回復させるように部下を急かす。「わたし」はそれらの行為が「ヨノイがセリエを新しい捕虜長に据えたいから」だと納得するが、すぐさまロレンスに否定される。

しかしいま、ロレンスは言下にこう言った。それはセリエとの強い一体感のこじつけの説明に過ぎないと思うよ、と。

この辺りで何となく、私の中で納得がいった気がした。原作でも映画でもヨノイはセリアズ(セリエ)に関心を抱いているにもかかわらず、直接話しかけたりすることは少ない。それどころか、ところどころでセリアズを恐れているような様子さえ見せている。それもひとえに一体性がもたらすものだったのかもしれない。
『饗宴』で、半身同士で寝ている人間のもとに鍛冶の神ヘパイストスがやって来るくだりがある。

 『人間たちよ。おまえたちは、互いに何を望んでいるのか?』
 戸惑う彼らに対して、ヘパイストスは、次のように尋ねるだろう。
 『おまえたちの望みは、できる限り二人で一緒にいて、夜も昼も互いから離れないことではないのか。もし、それがおまえたちの望みなら、わしがおまえたちを溶かして一つにしてやろう。そうすれば、おまえたち二つは一つになり、生きている間は、一つの存在として、共通の生を送ることができる。そして死んでからも、二つではなく、一つの存在として、冥府で共に過ごすことができるのだ。(後略)』


引用元:プラトン著『饗宴』、中澤努訳、光文社

 

アリストファネスは「その申し出を断る者や、別の望みを申し出る者など一人もいないだろう」と言っているが、二千四百年後の時代を生きる私は「それって怖くないか?」と思ってしまう。相手と一つに溶け合うことは、同時に自分という存在の死を意味する。究極的な望みが自分の死とイコールになっているとき、ヨノイのようなちくはぐな行動を取ってしまうのも仕方ないように感じる。
私より世代が前のヨノイが同じことを思うかどうかの確証はない。ただ、もし「自分の死」を怖がっていないにしても、ヨノイはすでに「一種の蜂たちの超社会」の中に溶け込んでいる。超社会から敢えて抜け出して、別のものと溶け合うなどという気にはなれないだろう。

 

ヨノイの狂気

前回では『戦メリ』のヨノイが後半で狂気に駆られたのは、今まで彼が築いた価値観や世界観をセリアズによって揺るがされたからではないかと述べた。今回は、ヨノイが究極の選択を迫られて極限まで追いつめられたからではないかということも付け加えてみたい。選択肢は「一種の蜂たちの超社会」か「セリアズとの一体感」かである。


俘虜長をヒックスリからセリアズに替えようとしたのは、二つの選択肢の中間地点を選ぼうとしてのことだった。非常に中途半端な落とし所ではあるが、一番穏便に済むやり方である。だが、ヨノイのセリアズへの執着はロレンスやハラたち第三者にあえなく看過され、さらには自分を慕ってくれた部下ヤジマの自決にまでつながってしまう。

ヤジマの自決は表だっては独断でセリアズを殺そうとした責任を取ってのものだが、本当のところはセリアズに惹かれるヨノイを諫めるためのものである。これによって、ヨノイのセリエに対する執着が、よりタブー化してしまったのではないか。

穏便に済むやり方を潰されてしまい、にっちもさっちも行かなくなった結果、ヨノイは暴走することになったのかもしれない、と完全な思い込みのもとで無責任に言ってみる。

 

色々とぐちゃぐちゃ書いてしまったが、結局「ヨノイの苦しみは、心が日本の神々的なものと自分本来のものとに分裂してしまったため」と言いたかったのであった。

 

セリエによる救済

さて、また「種子と蒔く者」の話に戻りたいと思う。ヨノイの狂気が頂点に達したところでセリエに救われるのは『戦メリ』と同じだが、ここのセリエはほとんど人間の枠を超えた存在になっているように描かれている。

皆殺しの目に遭うかもしれないという危機感の中で「わたし」をはじめとする捕虜たちは絶望や焦燥感に駆られているのだが、セリエはただ一人、超然とした態度だ。それどころか、超自然的なものからの啓示を受け取っているかのような気配も見せる。

 

このシーンの直前を読むに、「捕虜の中にいる兵器に詳しい者を教えろ」という捕虜へ下される命令は、陸軍司令部から発せられたもので、ヨノイ本人が考えついたものではない。自分ならざるものに動かされているこのときのヨノイは、日本の神々に動かされているハラと同じような状態である。だが、ハラと違って心を二分した状態で自分ならざるものに動かされているわけで、その分だけ事態の逼迫度が上がっているように思う。

 

セリエは「わたし」に言う。

そして、ヨノイに思いがけないことをぶつけてみる以外に、ヨノイやその部下やわれわれを救う途はない。ただあの男の正反対をいっても、役に立たないだろう。それでは、互いに腕を組み合ったまま、魂のなかで溺死するというだけのことでね、とつけ加えたのである。

その結果、セリエはヨノイを抱擁したのだった。この出来事を「わたし」から聞いたロレンスが述べた言葉は以下の通りだ。

彼はヨノイと自分が一心同体だという事実に、強引にヨノイを直面させた。

 

この出来事によってヨノイは変わった。「種子と蒔く者」ラストでのロレンスの言葉を借りるなら、「種子が植えつけられた」のだ。何の種子なのかと言えば、「生の意識に従順になること」だ。
「影さす牢格子」でロレンスがハラについて述べている言葉がある。

自由とはおのれを閉じこめる人生の鳥籠を、自ら選ぶ自由である、なんて定義したことがあったがね。ハラは、このような限られた自由さえも、知らなかった男なのだ。ハラは鳥籠のなかに生まれた。ハラは神話という土牢のなかの囚人で、誇大の偉大な神々の鍛冶屋がとりつけた牢格子に、ゆわえつけられている男なのだ。

この言葉に従うなら、ヨノイはセリエによって牢格子から解き放たれたと言って良いのではなかろうか。

 

かくして種子は蒔かれた

戦後のヨノイについては、ロレンスの言葉によって語られる。戦犯として収容されたヨノイが、日本語が堪能なロレンスに頼み事をするというくだりだ。

『戦メリ』と同じくヨノイは、罰として生き埋めにされ死にゆこうとしているセリエの髪を切り取った。それを後生大事に持っていたところ、身体検査にてイギリス兵に取りあげられたのだ。ヨノイがロレンスに頼んだのは、その髪を取り戻してほしいということだった。

(前略)それは自分が今まで会ったなかで、いちばん立派な男の髪の毛である。その男は敵側で、もう死んでしまったが、それでもやはり大変立派な男で、自分は決して忘れない。
 こと切れたあの男の頭から、例の髪を截りとったのは、ただひたすら、あの男に後世の住処を与えんとしたがためである。戦争が終わった暁には、祖先の御魂を祭る御社に、その髪をもち帰り、奉納するつもりだった。

 

戦後のヨノイの言葉には誤魔化しや嘘がない。ようやく己の心に従順になれたヨノイの姿の清々しさに、私は感動させられた。
懲役を終え、釈放された後、ヨノイは望みを果たし、故郷の神社に奉納したという。ヨノイが髪を届けてくれたロレンスに宛てた手紙に、その神社が如何に美しい場所にあるかがみずみずしい筆致で書かれ、奉納の際にヨノイが詠んだという詩で締められている。どちらかというと原著の方が意味をくみ取りやすかったので、そちらから引用したい。

In the spring,
Obeying the August spirits
I went to fight the enemy.
In the Fall,
Returning I beg the spirits,
To receive also the enemy.

前半でのヨノイの姿は、非常に日本人的だ。祖先の霊に従い、敵との戦いに赴く。このとき、ヨノイを動かしているのは生まれ育った国の慣習や道徳である。
だが後半、故郷に戻ってきたヨノイは、敵を祖先と共に祭ろうとする。彼が生きてきた文化ではあり得ない行動を、ヨノイは己の心に従ってやろうとしているのだ。

 

かつて無に苦しんでいたセリエが「生(自己)」について悟りを開き、かつての自分と同じ闇に陥りかけていたヨノイを救う。「種子と蒔く者」は宗教小説とすら思えるほどに神々しい物語だった。

 

「種子と蒔く者」は「影さす牢格子」のアンサーである

『戦メリ』では「影さす牢格子」と「種子と蒔く者」のエピソードは同時期に同じ場所で繰り広げられているが、『影の獄にて』では別々の場所で起きたものという、それぞれ独立したエピソードとなっており、直接的なつながりはない。ただ、個人的に「種子と蒔く者」は「影さす牢格子」のアンサーとなるエピソードであるように思う。
「影さす牢格子」のラストは、ロレンスによる以下の問いで終わる。

ぼくらは、いつも、手おくれでなければならないのだろうか?

 

戦後、ハラは戦犯となって刑務所に収容された。明日、ハラの処刑が行われるというときに、ロレンスはハラを訪問する。そこでハラが口にしたのは、純粋な疑問だ。
究極的に日本人だったハラは、日本的な掟に従い、捕虜に暴力をふるってきた。戦後、連合国によって、ハラの行いには死刑という判決が下されるわけだが、それに納得がいかないという。ハラと同じことをして、生きている者もいる。ハラの行いが間違いなら、皆が等しく間違っているはずなのに、ハラが死刑にされ、他方が死を免れているのは、ハラが他に何か間違いを犯したからなのだろうか。
それに対し、ロレンスは「敗けて勝つという道もあるのだ。」と告げるしかなかった。あくまでも戦前の収容所では日本的正しさがまかり通り、戦後では連合国的正しさがまかり通っているだけであり、その矛盾に苦しんでいるロレンスには、ハラにかける最適な言葉が見つからなかったわけだ。


ハラの独房を去る直前、ロレンスはとある衝動に駆られる。

行ってハラをしっかりと腕に抱き、額に別れのくちづけをし、そして、こう言いたかった。〈外の大きな世界の、がんこな昔ながらの悪行をやめさせたり、なくさせたりすることは、ぼくら二人ではできないだろう。だが、君とぼくの間には、悪は訪れることがあるまい。これからゆく未知の国を歩む君にも、不完全な悩みの地平をあいかわらず歩むぼくにも。二人のあいだでは、いっさいの個人の、わたくしの悪も帳消しにしようではないか。個人や、わたくしのいきがかりは忘れて、動も反動も起こらないようにしよう。こうして、現代に共通の無理解と誤解、憎悪と復讐が、これ以上広まらないようにしようではないか〉と。

だが、何かがロレンスを押しとどめ、何もしないままハラの独房を辞去してしまう。ロレンスを押しとどめたものは何だろうか?

恐らく、看守の目とか、戦勝国側の人間であるロレンスの立場とか、死刑囚に心を寄せることに対するタブーといった、ロレンスの外側にある原理なのではないかと思う。

後ろ髪を引かれたままロレンスは帰途につくが、やがて思い直して刑務所へと戻る。しかしながら時すでに遅く、ハラはすでに絞首刑に処されていた。その出来事を受けての問いが「ぼくらは、いつも、手おくれでなければならないのだろうか?」というものだったのだ。

 

「影さす牢格子」の問いに対して、「種子と蒔く者」は「いや、そうではない」との答えを提示していると私は思う。
手おくれにならないため、セリエは生の意識に従順になり、時代や文化のタブーを破り、ヨノイを救った。さらに、セリエの行いはヨノイに引き継がれたし、「わたし」という目撃者やロレンスにもセリエによる種子は蒔かれた。セリエという神的な存在が命を賭して、ヨノイやロレンスたちだけでなく日本兵の心にも種子を蒔いた。

世界大戦という大規模な戦いの中で起こった、ごくごく個人的な出来事が、結果的には多くの人間の心に波及していく。その様子に私は心が熱くなるのを感じたし、セリエの姿を尊いと感じた次第である。

 

なぜ『戦メリ』でヨノイは死んだのか

さて、話題が行ったり来たりして恐縮だが、また『戦メリ』の話である。先ほど、原作のヨノイについて、戦後の彼は己の心に従順になれたということと、それに対して感動したことを書いたが、同じ理由で『戦メリ』のヨノイがセリアズの髪を切るシーンで胸が一杯になってしまったのである。

特に『戦メリ』ヨノイは戦後に処刑されたため、セリアズについて素直に語るシーンがない。そんな中で彼が唯一、素直にセリアズへの思いを示したのが、髪を切った後、セリアズに向かって敬礼したシーンだ。『戦メリ』ヨノイがようやく生まれながらに繋がれていた牢獄から解放されたしるしなのだな、と思うと、やはりここでも目頭が熱くなってしまう。


原作ヨノイが懲役刑を課されたのに対し、『戦メリ』ヨノイは戦後に刑死し、その事実はロレンスとハラの会話で触れられるのみだ。原作では生きていた彼がなぜ死んだのかと、何度も考えてみた(ちなみに脚本の第一稿と第四稿でのヨノイは原作通り、生きて日本に帰り、自らの手でセリアズの髪を奉納したようである)。


ハラの処刑時にロレンスの中にセリアズの種子が蒔かれていたかどうかの違いなのではないか、とふと思った。

原作では、ロレンスがセリエとヨノイの話を知り、ロレンスの中にセリエの種子を蒔かれたのは、ハラの処刑の後だった。種子を蒔かれていない状態でロレンスはハラと死別し、その際の出来事を思い悩んできた。

そんな彼を救ったのが、セリエの手記や「わたし」からの話だ。これによってロレンスは不可解だったヨノイの頼みの真意がわかり、ヨノイだけでなく、自分の中にもセリエの種子が蒔かれていたことを知り、救われたのだ。


しかし、『戦メリ』ロレンスは、セリアズとヨノイのキスを直接目にしている。命をかけてセリアズが蒔いた種子は、この時点でロレンスの中に根付いていた。恐らくハラもなんらかの形でセリアズたちの一件を耳にしただろう。ロレンスとハラが種子を蒔かれた時点で、ヨノイの役目が終わった。それゆえに、彼は物語的に死を用意されたのかな、と思ったのだった。


どうか、今の文章は適当に右から左へ受け流していただきたい。自分でもかなり無理があることは理解している。あくまでもこれは、一介のヨノイファンが彼の死に折り合いをつけるため、必死で捻り出した理由づけなのである。

 

 

何はともあれ、原作を読んでみて、『戦メリ』の世界のさらなる深さに触れることができて、非常に満足している。惜しむらくは『影の獄にて』が絶版になっているという点だ。

こんな崇高な物語が、気軽に読めないのはもったいなさ過ぎる。『影の獄にて』で感動した読者の一人として、いつか復刊されることを願ってやまない。

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三回目の感想

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