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戦メリ原作者L・ヴァン・デル・ポストの『新月の夜(The Night Of The New Moon)』を読む【1】

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※注意!The Night Of The New Moon『新月の夜』『影の獄にて』『戦場のメリークリスマス』『絞死刑』のネタバレがあります。

 

過去に『戦場のメリークリスマス』や原作『影の獄にて』についての記事を書いてきたのだが、特に最初の記事を書くにあたっては河合隼雄さんの著書『影の現象学』の影響が大きかった記憶がある。『影の獄にて』の中の一篇「影さす牢格子」(『戦メリ』でのロレンスとハラのエピソードのもとになった短篇)について触れられている箇所があるのだが、ここで繰り広げられている河合さんの精神分析学的な考察は非常に参考になった。

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さて、当該箇所でヴァン・デル・ポスト卿の別の作品The Night Of The New Moon(以下『新月の夜』と表記)についても言及されている。『影の獄にて』と同じ第二次世界大戦を舞台にした作品ということで、ずっとこの作品については気になっていた。しかし困ったことに『新月の夜』は日本語訳が出版されていない模様。というわけで、原書を購入してみた。

 

今回を含め複数回にわたって『新月の夜』についての感想を書きたいと思う。英語ができない人間であるため、

  • 小刻みに感想を書く。
  • 誤った読解をしている可能性大。
  • 何回で終わるかは未定(完走できない可能性も有り)。
  • 記事によってボリュームに相当な差が出る可能性大。
  • 更新は不定期。
  • 捕虜収容所と原爆について取り扱っているということ以外は何も知らない状態で読むため、俯瞰的な感想を書くことは不可能。

等々の前提のもとで書くことをご容赦いただきたい。

また、ヴァン・デル・ポスト卿の作品であり、ジャワの捕虜収容所が舞台となっているという共通点があるため、恐らく『戦場のメリークリスマス』『影の獄にて』と比較するような記述も多くなるかと思う。

 

 

※あらすじ&登場人物紹介記事をアップしました。先にこちらを呼んだほうが分かりやすいかと思います。

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The Night Of The New Moon『新月の夜』感想①

『新月の夜』の主人公「私」は恐らくヴァン・デル・ポスト卿本人だと思われる。『影の現象学』にて河合隼雄さんも「彼の実際的経験にもっと密着して書いたと思われる」と書いているように、『影の獄にて』以上にヴァン・デル・ポスト卿の体験が色濃くでているのではなかろうか。

 

導入部は以下の通りだ。

「私」がテレビ番組の収録のためにスタジオを訪れた際、そこで日本人男性がインタビューを受けている様子を目にする。彼は被爆者であり、インタビューの内容は広島に原爆が投下された日の彼の体験についてだった。「私」はその話を聞いているうちに、自身の捕虜として連行されたジャワの捕虜収容所での経験を思い出す。もともと「私」は別のテーマでインタビューを受ける予定だったのだが、プロデューサーに掛け合い、「私」と日本人男性が広島の件にて対談するという形に変えてもらう。以降、「私」が日本人男性に語ったジャワの捕虜収容所での出来事が本編として続いていく。

 

本編開始後早々に「影さす牢格子」でも触れられていた「個人として生きていない日本人」についての言及がある。特に以下の部分にはハッとさせられた。

because it made us realize how the Japanese were themselves the puppets of immense impersonal forces to such an extent that they truly did not know what they were doing.

 

引用元: Laurens Van Der Post, The Night Of The New Moon (Vintage Classics) (English Edition)

「日本人は巨大な力によって操られている操り人形」であり、それゆえに「自分たち自身が何をしているのかがわからない」という、この洞察。過去に『影の獄にて』記事で引用したロレンスが日本人について語っている言葉を思い出させる。ロレンスは日本人について、「生まれおちるやすでに、自分自身の、個人として生きる資格を拒絶しているかのよう」と言い、さらに「集団としてみれば、日本人は、雄の女王蜂である天皇を中心とする、一種の蜂たちの超社会だった。」と評した。また、日本人であるハラ当人も戦後、以下のように語っている。

わたしがあなたを義務上、殴らなければならなかったときでさえ、殴っているのはこのわたしハラ個人ではない。

 

引用元:L・ヴァン・デル・ポスト著、由良 君美・富山 太佳夫訳『影の獄にて』、新思索社

ハラ自身、自分が大きな力による「操り人形」であることに自覚的だったのだ。

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「私」だけでなく、その部下たちもそれを感じ取っていたらしい。彼らが日本兵から激烈な拷問を受けた後に「私」に言う。

‘Forgive them for they know not what they do.’

 

引用元: Laurens Van Der Post, The Night Of The New Moon (Vintage Classics) (English Edition)

ルカの福音書23章34節におけるイエス・キリストの言葉そのまんまを彼らは口にするのだ。

 

『新月の夜』から見えてくる『戦場のメリークリスマス』の側面①

日本人たちの為すことは彼らの意思によるものではなく、もっと大きく非個人的な力によるもの。この部分を読みながら、大島渚監督の『絞死刑』を思い出した。

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この作品において、まったく姿形を表さないものの常に不気味な気配を漂わせているのが「国家」である。国家は人々を動かし(それこそ操り人形のように)、戦争で誰かを殺させ、戦後は死刑という制度で刑務官たちに死刑囚を殺させる。この作品においては、戦争で相手を殺すことと囚人を死刑に称することは同義だ。さらには死刑囚Rの犯罪も、国家がRを差別と貧困で追い詰めた結果のものだとし、同じく国家による犯罪だと指摘する。

戦争、死刑、Rの犯罪。そのどれにも個人の意思など介在しておらず、しかしながら行為者は意思の主たる国家ではなく個人となる。予告篇には、この理不尽に対する大島監督の怒りが満ちているように思える。首を吊った状態で大島監督は画面の先にいる我々に向かって叫ぶ。

「例え死刑に処せられたって、俺たちは死ぬわけにはいかない。また、戦争、国家利益の下に大量の人間を皆殺しにする、そういう戦争がある限り、俺たちは死ぬわけにはいかない」

「国家がある限り、俺たちは何をすることも許される。常に国家には罪があり、俺たちには罪がない。国家こそ有罪で、俺たちは絶対に無罪なんだ」

これらの怒りを経ているからだろうか。『戦メリ』における日本人たちが、単なる加害者としてのみ描かれていないように感じてしまう。ハラもヨノイも自らの意思から離れたところで(国家の意思のもとで)捕虜を虐げ、戦後は国家の代わりに裁かれる。『絞死刑』のRと『戦メリ』のハラとヨノイはどこか地続きであるように感じていた*1のだが、『新月の夜』における日本兵たちもその流れの中に存在しているのではなかろうか。

 

『戦メリ』にて拷問された後のロレンスが以下のように言う。

I don't want to hate any individual Japanese.

『新月の夜』の中で「私」の部下が口にした言葉とロレンスの言葉は、非常に似ている。彼らは日本という「国家」は恨めしく思ったかもしれない。だが、その下で動かされている個々の人間を十把一絡げに憎むまいとした。『戦メリ』にて俘虜長のヒックスリは、結局ヨノイたちとわかり合えなかった。ハラとロレンスやセリアズとヨノイといった関係とヒックスリとヨノイたちの関係の何が違ったかと言えば、国家と個人を混同したかしなかったかという点に有るように思えてくる。

 

(【2】に続く)

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*1:すべてを背負って死んでいったという点で、セリアズもまたRと地続きの存在だという感覚もある。

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