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『日本の夜と霧』ネタバレ感想

※注意!『日本の夜と霧』のネタバレがあります。

 

 

 

大島渚監督の初期作品『日本の夜と霧』。1960年に公開された作品で、学生運動が大きなテーマとなっている。1960年と言えば安保闘争の年。6月、デモに参加していた女子大生・樺美智子が闘争の最中に圧死した事件は、後の世代の私でも聞いたことがある。作中でも樺さんの死に触れられており、鮮度の高さに驚かされる。事件は6月で、映画公開は10月なのだ。この時代の空気を真空パックで保存したような作品だと言いたい。

とはいえ、2022年の現在から見ると62年も前の作品となるわけだし、しかも学生運動の時代ならではの論法や用語が頻出することもあり、なかなか観賞するには敷居が高い。私も大島作品を開拓しようとの決意がなければ、観ることはなかったと思う。

 

初めて『日本の夜と霧』を観賞したとき、正直なところ小難しい言葉の飛び交う退屈なディベート映画だと思ってしまったのだが、『大島渚全映画秘蔵資料集成』を読みつつ何回か見返しているうちに、なかなか面白い映画なんじゃないかと思えてきた(生意気な言い方ですみません…)。『秘蔵資料集成』では大島渚各作品に対する著者・樋口尚文さんの解説文が載っている。『日本の夜と霧』の解説文では当時の学生運動を取りまく社会の動きと作品内での出来事を紐付けてくれたおかげで、かなり作品が理解しやすくなったし、面白さもわかってきたように思う。

 

まずは『秘蔵資料集成』に感謝させてください。この本は、マジで大島渚作品を観るにあたっての教科書ガイド的存在です、ホント。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

押さえておきたいポイント

あらすじは以下の通り。

霧の深い夜、60年安保闘争における、6月の国会前行動の中で知り合った新聞記者の野沢晴明と、女子学生の原田玲子の結婚式が行なわれていた。野沢はデモで負傷した玲子と北見を介抱する後輩の太田に出会い、2人は結ばれたのであった。北見は18日夜、国会に向ったまま消息を絶った。招待客は、それぞれの学生時代の友人らである。司会は同志だった中山と妻の美佐子。その最中、玲子の元同志で6月15日の逮捕状が出されている太田が乱入し、国会前に向かったまま消息を絶った北見の事を語り始める。一方で、ハンガリー民謡を歌う色眼鏡の青年(野沢の旧友だった)の宅見も乱入してきて、自ら命を絶った高尾の死の真相を語り始めた。

これらをきっかけにして、約10年前の破防法反対闘争前後の学生運動のあり様を語り始め、玲子の友人らも同様に安保闘争を語り始める。野沢と中山は暴力革命に疑問を持つ東浦と坂巻を「日和見」と決めつけていたが、武装闘争を全面的に見直した日本共産党との関係や「歌と踊り」による運動を展開した中山、「これが革命か」と問う東浦や「はねあがり」など批判し合う運動の総括にも話が及び、会場は世代や政治的立場を超えた討論の場となる。

 

引用元:日本の夜と霧 - Wikipedia

 

『日本の夜と霧』を理解するにあたって、押さえておくと理解しやすくなるのが各登場人物の属する世代についてだ。

 

『日本の夜と霧』の主な舞台は、新聞記者・野沢と女子大生・玲子の結婚式の式場となる。この夫婦は今風に言えば年の差カップルで、参列者も大きく二つの世代に分けられる。新郎・野沢と同世代の者――50年代初頭に火炎瓶闘争などの武装闘争を繰り広げた世代、そして新婦・玲子と同世代の者――60年安保闘争世代である。以降は前者を野沢世代、後者を玲子世代と呼ばせていただきたい。

主なメンバーを以下にまとめてみた。

 

『日本の夜と霧』を観賞する際には、それぞれの世代の主なメンバーに加え、各世代のターニングポイントを頭に入れておくと、理解しやすくなると思う。

ターニングポイントは以下の通りだ。

  • 野沢世代:武装闘争路線から平和共存路線への方針転換
  • 玲子世代:安保条約の成立

 

これらのターニングポイントにおいて、彼らは挫折を味わい、それまでの生き方を変えることになった。生き方を変えると言っても、人によってスタイルは異なる。進んで今までの生き方を捨て、新しい環境に順応した者。新しい環境に順応できない者。この物語では、後者の人間が前者の人間を告発する。

 

物語は結婚式に二人の闖入者が現れることで動き出す。一人目は玲子世代の太田、二人目は野沢世代の宅見である。二人の言い分は非常に似通っている。野沢世代も玲子世代も、闘争の最中に仲間が犠牲となっているのだが、皆はその犠牲を忘れ、安穏とした暮らしを送っているのではないか、という告発だ。

野沢世代は高尾という青年にスパイの嫌疑をかけた末、彼を自殺に追い込んだ。玲子世代は北見という青年がデモに参加したまま行方不明になったというのに、彼を捜すこともなく今日に至っている。

高尾と北見という犠牲者たちをなぜ見捨てたのか、今まさに忘れ去ろうとしているのか、と問われ、各人が過去を語り出す。そこで見えてくるのが、それぞれターニングポイントの出来事で如何に心を揺るがされたかということだ。あらわになる各人の挫折感が、こう言ってはなんだが面白い。

 

 

挫折によって変わったもの

例えば野沢。そもそも野沢世代の学生たちは、共産党の党員である中山をリーダーとし、武力を用いたスタイルで権力と戦っていた。血のメーデー事件に関わったことも示唆されている。日本の民主主義を守るため、武器を取り、火炎瓶を投げ、彼らは戦ってきた。だが、戦いは突如終わりを告げる。

党の方針が武装闘争路線から平和共存路線へと変わったのだ。中山の右腕である野沢は、表向きこそ進んで平和共存路線へ転向したが、内心は複雑だった。

不完全燃焼のまま彼は新聞記者となり、そんな折に60年安保闘争が起こる。久しぶりに心を昂ぶらせ、戦いに身を投じた中で玲子と出会ったのだった。

 

一方、学生たちのリーダーであった中山は、変わり身の早さを見せる。平和共存路線に変わった途端、彼は東浦たちのもとを訪れダンスに誘う。東浦は中山をなじる。

「歌や踊りがマルクス主義とどう関係があるんだ。ロシアやスイスの民謡を女の子と歌うことが、革命と何の関わりがある?」

「一年前、破防法のとき、火炎瓶闘争のときには日和見って呼ばれたぜ、君たちに。今はハネ上がりか」

すべて引用元:大島渚(監督、脚本)、石堂淑朗(脚本)、1960、『日本の夜と霧』松竹

 

だが、中山は話し合いで解決する時代になったのだと、あっけらかんと言ってのける。

 

無反省なまま移り変わる者たち

武装闘争自体の是非はさておき、あっさりと話し合い路線へと鞍替えした中山に、確固たる信念は見えない。また、東浦たちも中山を揶揄するだけで、何か具体的に動くわけでもない。そこを下の世代である太田が弾劾するくだりがある。

結婚式の場で、中山や野沢の過去を責める東浦が、逆に野沢から「なぜあのとき言ってくれなかったんだ」と反論される。東浦は言う。

「残念ながら、当時君を含めた中山のグループは、間違いは犯さないという絶対的な権威を持っていた。指導者である党の後ろ盾を持っていた。僕たちは疑問や批判を押し殺す以外にはなかった」

 

引用元:大島渚(監督、脚本)、石堂淑朗(脚本)、1960、『日本の夜と霧』松竹

そこへ太田の叱責が飛ぶ。

「卑怯者。そういう態度がだ、今までの日本の一切の革新勢力を毒してきたんだ。黙ることによって、過ちを容認してきたんだ」

「いや、当時にはそのような自由にものが言える空気はなかった」

「それは口実だ」

 

引用元:大島渚(監督、脚本)、石堂淑朗(脚本)、1960、『日本の夜と霧』松竹

告発者の宅見も含め、野沢世代のずるさが太田によって糾弾される。同時に、太田の世代ですら、過去に北見から「本当に命がけで安保は通してはいけないって、そう思いながら運動していたかどうか」と疑問符を提示されていたことが明かされる。

 

革命のためにと戦っているように見せ、方針転換を言い渡されると武器を捨てる、流れが安保条約の成立に傾くとデモへの情熱を失う。そんな彼らのずるさに失望し、高尾は自ら命を絶ち、北見は行方をくらませた。

終盤、生前の高尾が宅見に弱音を吐く場面が流れる。

「奴らは幸福な奴だ。一度も自己を省みない。ああいう手合は、そのときそのときの主流のような顔をして、世の中に害毒を流すんだ」
「いずれやっつけてやる」
「やっつける?壁は厚いよ。俺はもうだめなような気がする」

 

引用元:大島渚(監督、脚本)、石堂淑朗(脚本)、1960、『日本の夜と霧』松竹

 

高尾の話を聞いて、私は加賀乙彦さんの『悪魔のささやき』の一説を思い出した。加賀さんは少年時代に戦争を経験した世代だ。戦中は大人たちから「日本は勝つ」「勝つために命を投げ出せ」と教育され続けてきたが、敗戦によってそれは一変する。敵国だと罵倒していたアメリカを受け入れ、民主主義を賞賛するようになった大人たちに、加賀少年は疑問を覚え、やがてそれは「騙したな」という怒りに変わっていく。

1947年の新憲法発布の際、お祭り騒ぎになる街を見たときの感想を加賀さんはこう述べる。

六年半のあいだに日本は、日本人はなんとさま変わりしたことか。そう思った次の瞬間、いや実は何も変わっちゃいないんだと気づかされました。軍国主義から百八十度転換はしたけれど、本質は何も変わってはいない。かつて日本人のなかに軍国主義という思想がパーッと入り込んだように、今度はアメリカ型民主主義というものが入っただけ。時代の風になびいて、まるで人が変わったように自分の思想を全部入れ替えてしまったんだ。

 

引用元:加賀乙彦著『悪魔のささやき』(集英社

 

今年の3月29日に放送された「アナザーストーリーズ」で、生前の大島監督が少年時代のことを語った映像が使用されていた。そこで述べていたのはやはり、日本の敗戦が決まるやいなや、手のひらを返した大人たちへの不信感だ。高尾の嘆きは、このときの監督の怒りを代弁しているもののように思える。また、大島監督自身が50年代の学生運動に参加しているのだが、そのときにも高尾のような失望を感じたりしたのかもしれない。

 

 

ちょっとばかり自己批判

学生運動をテーマにしてはいるが、芯のない者たちによるムーブメントを糾弾するという意味では、非常に普遍的な意義を持った作品であるように思う。

自分語りになって恐縮なのだが、私が新卒社会人だった頃はまだブラック企業が社会問題になる前だった。「ブラック企業」という言葉は2ちゃんねるの就職関連のスレッドで知ったし、そこ以外で見かけたことはない。あの頃は仕事に全身全霊で打ち込むことが美徳だとされていたように記憶している。

 

私のいた会社はブラック企業ではなかったが、所属していた部署はなかなかに体育会系なところだった。仕事が終わっていても定時で帰ると白眼視されたし、終電逃して当たり前の風土があった。とにかく仕事している時間が長ければ長いほど良し。それでも苦しくないよね?だって、うちの仕事は楽しいんだから。楽しいと思えないのは、あなたにやる気がないから、といった同調圧力で私は押し潰されそうだった。てか、押し潰された。心身共にガタが来て、三年目だったか四年目だったかに退職したのだった。

 

さて、それからかなり後に「ワークライフバランス」が叫ばれるようになったとき、正直なところ、私は「良かった」と思えなかった。オフの時間も大事だというなら、新卒の頃の私の苦しみは何だったんだ。ろくに自分の時間も取れず、無理矢理仕事が好きだと言わされ、歯を食いしばって耐えていたあの日々は何だったんだ。このムーブメントがもっと早く来ていれば、身体を壊さずに済んだし、精神科に長年通うこともなかった。どういうことなんだ。

 

そんな怒りに震えたなあ、と作品を観ながら思い出してしまった。正直、今でも釈然としない部分はあるのだが、それを口に出そうとすると、脳内の太田青年が私を糾弾し始める。

「だったら何故、あなたは会社と戦わなかったのか!何故、転職活動をしようとしなかったのか!結局、あなたがやった闘争といえば、会社の陰口をたたき、忘年会をサボタージュすることだけだったじゃないか」

いや、確かにそうなんだけどさ、あの頃は氷河期でね、会社に楯突いてクビになったら社会的におしまいだったわけだし、転職しようにも同じ会社で三年以上勤めた経験がない状態だと中途で採ってくれる会社がなくってね、となると丸三年勤め上げるまでは退職できないわけでね…などと、東浦たちみたいな言い訳を連ねたくなってしまう。すると、脳内太田は私を一喝するのである。

「卑怯者。そういう態度がだ、今までの日本の一切の会社員を毒してきたんだ。黙ることによって、過ちを容認してきたんだ」

はへー、その通りでございます、と土下座するほかない。さもなくば、「私はね、来たるワークライフバランスの時代を見据え、会社のなかで地盤を固めていたのだよ。もっとも、身体を壊して退職したから、それは叶わなかったけどね」と中山のようにいけしゃあしゃあと自己正当化するかだ。

悲劇のヒロインを気取ろうが、私は決してブラック企業時代の純粋な被害者なんかじゃないと、脳内太田は喝破してしまう。

 

長々と何が言いたいのかというと、学生運動世代ではない私にも突き刺さる映画でした、ということなのだった。まったく私の文章は、まどろっこしいったらありゃしない。

 

 

最後に

などとおちゃらけてみたものの、この作品の登場人物たちを他人事だと思わない方が良いなとは心から感じる。

時代の空気に押し流され、自分の考えを放り出して、その場その場に合ったポジションを確保する。時代が変わり、それまでのポジションが悪だとされると、無反省で新しいポジションにしれっとおさまる。

中山は極端に描かれているだけで、誰にでも多かれ少なかれ中山のような部分はあると思う。もちろん、私のなかにも中山的な部分はある。どうしたって中山的な自分を駆逐することは難しい(常に自己を省みてばかりでは、精神が持たないっつーの)。だが、自分の中に中山がいることは意識しておいたほうが良いような気がする。

 

高尾が批判していたような人間にならないためにも、自分の内にある中山と定期的に対峙した方が良いかもしれないと思った。

 

 

 

何が高尾や北見を追いつめたのかということを明かすサスペンスのような物語だが、結果的に明かされていくのが人間の根源的な狡さというあたりが面白い作品だった。