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映画版『美しい星』感想(ネタバレあり)

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※注意!映画版『美しい星』のネタバレがあります。

 

 

 

三島由紀夫の同名小説を原作とした作品。あらすじは以下の通り。

“当たらない”お天気キャスターの父・重一郎、野心溢れるフリーターの息子・一雄、美人すぎて周囲から浮いている女子大生の娘・暁子、心の空虚をもて余す主婦の母・伊余子。そんな大杉一家が、ある日突然、火星人、水星人、金星人、地球人として覚醒。“美しい星・地球”を救う使命を託される。ひとたび目覚めた彼らは生き生きと奮闘を重ねるが、やがて世間を巻き込む騒動を引き起こし、それぞれに傷ついていく。なぜ、彼らは目覚めたのか。本当に、目覚めたのか——。
そんな一家の前に一人の男が現れ、地球に救う価値などあるのかと問いかける。

 

引用元:映画『美しい星』公式サイト

 

 

バラバラ家族

あらすじにある通り、大杉家の人間は現実社会にて居心地の悪さや苦しさを抱えている。序盤(三幕構成における第一幕)では、重一郎たちの鬱屈が描かれる。外部の人間から軽んじられている重一郎たち。さらに大杉家の人々は外部との間に軋轢を抱えているだけでなく、家族同士の間も乾ききっていた。

そんな一家が、ひょんなことをきっかけに異星人として覚醒する。*1それが第二幕の前半だ。家族なのにそれぞれが別の惑星の人間というのが、大杉家の機能不全ぶりを象徴しているような気もする。

 

愛着の感じられない家族(それを象徴するように重一郎は原作とは異なり、愛人を作っている)、自分を受け入れてくれない外部。こういう環境に身を置いたとき、人は「ここではないどこか」を求めるようになるのかもしれない。

大塚英志さんの『社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門』にて、柳田國男が抱いていた感情について、以下のように言及されている。

この「私」はこの世の中や現実が何だか重荷に感じられ、生きづらい、「私」が本当にいるべき場所は「ここ」(「此世」)ではない「どこか」(「夢の世」)と詠っているのです。

 

引用元:大塚英志『社会をつくれなかったこの国がそれでもソーシャルであるための柳田國男入門』、株式会社KADOKAWA

この世界で生きづらさを覚えた彼らにもたらされた(もしくは自分が自分にもたらした)ものが、火星や水星、金星といった別の故郷だったのかもしれない。先に述べた通り、大杉家は心がバラバラになった状態だから、故郷だってバラバラ。各々が覚醒した後は、異星人としての使命を果たすため、さらに別の方向を向くようになる。地球人として暮らしていたときは生きる意味も見いだせずにいたのが、異星人として覚醒することで自らの使命を見つけだしたのだ。そりゃあ生きる活力も湧いてくるだろうし、そうとなれば異星人としての生に夢中になるのも無理はない。

 

地球人・伊余子

個人的に興味深かったのが、バラバラになった大杉家をつなぎ止めようとしていた伊余子だけが、異星人として覚醒しなかった点だ。各々別のベクトルを向き続ける大杉家の中で、伊余子が地球人として中枢であり続けたことが、大杉家の家族としての瓦解を防げたのではないかと思えたりもする。

 

ただ、その伊余子にしてもマルチ商法に踊らされ、パワースポットの地下1300メートルから湧き出たという建前の「美しい水」を取り扱うディストリビューターになってしまったりと、見ていて非常に危なっかしい。主婦仲間から胡散臭い話を持ちかけられ(このシーンにおける匂い立つような「あ、これマルチだ!」感は素晴らしい)、それを素直に信じ、めきめきとディストリビューターとして成長していく。地球人の伊余子も伊余子で、どこか不健康な方向へと歩み出していくわけだ。

この頃の伊余子はまだ器の大きさが伴っておらず、だからこそ水(水といえば地球が生み出したものである)の真贋もわからないし、重一郎たちの心変わりにもついて行けない。そんな伊余子がラストでは重一郎の火星人としての魂を受け入れられるようになったという変化は大きい。それが最終的にはバラバラだった大杉家の再構築の決定打になったのだろうと個人的に思う。

 

火星人・重一郎VS水星人・一雄

バラバラになった大杉家の中でも、特に反目し合っていたのが重一郎と一雄である。重一郎はフリーターの一雄を貶しているし、一雄も恐らく重一郎の情けなさや狡さを感じ取っていたのだろうと思う。冒頭で愛人と電話をしている重一郎を冷たい目で見つめる一雄のシーンは見ていてヒヤッとする。

実の父の重一郎を見限っている一雄が、黒木という別の父的な存在に近づいていくという展開が個人的には素晴らしいと思う。黒木もまた宇宙人として覚醒しており、一雄が水星人として覚醒するきっかけを作った人間だ。地球人を思って温暖化を阻止しようとする重一郎、地球のために地球人の滅亡を願う黒木。正反対な二人のキャラクターが一雄を挟んで配置されている。

 

だからこそ、クライマックスの重一郎VS一雄・黒木のシーンの緊迫感が増しているのではないかと思う。重一郎はまず一雄の怒りと対峙することになる。地球の温暖化を阻止すべきか、地球を救うべきか、というテーマで議論しているていを取っているが、根底には別のテーマが寝転がっているだろうことは、重一郎が一雄に言った「地球全体の問題を、お前は世代間倫理にすり替えている」というセリフに表れているのではなかろうか。

一雄が重一郎に投げかける言葉は地球温暖化に対する重一郎のスタンスを糾弾という意味合い以上に、親世代に対する怨嗟でもあるように思う。実際に重一郎たちバブル世代が日本経済を食い尽くしたのか否かについては、この時の一雄には関係ない。確固たる根拠のない状態で、自分の不遇の原因としてバブル世代という敵を設定した一雄。その代表として彼の中に存在していたのが重一郎なのだろうと勝手に推測する。

 

重一郎と一雄の議論は平行線をたどり、今度は重一郎VS黒木の対決に移行する。ここで重一郎がようやく一雄と黒木の関係を知り、戸惑う様子が面白い。父の知らない間に息子が父に失望し、代わりとなる父のもとに所属している。これは相当ショックだろうな、などと考えてしまった。『美しい星』では重一郎が主役だが、これを一雄側を主役にした物語が『スターウォーズ』のエピソード1~3になる。前途多望だったジェダイのアナキン・スカイウォーカーはオビ=ワン・ケノービを師としていたが、やがてオビ=ワンに対して反抗心を抱くようになり、その心の隙を突くようにパルパティーン(後の銀河皇帝)が近づいてくる。結果、アナキンはダース・ベイダーという悪の存在へと変じてしまう。

 

子供は反抗期を迎えるものだし、そういうときには悪の存在へと近づきやすくなるのだろう。そのままアナキンのように悪の存在へとなびいてしまうか、それとも留まるかというのは普遍的な課題であると思うし、結果的に子供がどう行動するかについては、物語の数だけ選択肢があるのだと思う。

『美しい星』の親と子の対峙と和解については、やはりクライマックスでの重一郎の気迫に尽きるのだと思う。「親の背を見て子は育つ」との言葉通り、一雄は重一郎の背中を見つめるのがクライマックスだ。「太陽系連合の一員である火星人として」地球を救うべきだと証明するため、重一郎は空に向かって手を掲げ、UFOを呼び続ける。この時の「火星人のポーズ」は作中で重一郎が何度も作ってきたもので、それまでは一人で暴走している彼の滑稽さを醸し出していた。

だが、地球という美しい星のために重一郎が命がけになった瞬間、このポーズに言いようもない凄味が増してくる。きっと一雄もその凄味は感じ取ったのだろうと思う。だからこそ、クライマックスの後で一雄は重一郎のもとへと戻ってきたのではなかろうか。

 

金星人・暁子

親への反抗と悪の存在への接近という意味では、暁子の物語も面白かった。ブルーレイ豪華版の特典ディスクで暁子役の橋本愛さんが「竹宮君に対してもただ普通にひと目ぼれして、恋をして、で裏切られて傷ついて。でお父さんからも嘘つかれて傷ついて。本当に普通の純粋な女の子」と言っていたのが暁子の全てなのだろうなと思う。家族と心を通わせることもできず、外部の世界にも馴染めない。孤独な暁子が初めて出会った心を開ける存在が「金星人」を名乗るミュージシャンの竹宮で、彼は暁子に「自分たちは金星人だから」という周りと馴染めない理由と、今後生きる糧を与えてくれた。しかし、実は竹宮が金星人というのは大きな嘘。竹宮は阿漕な女たらしの地球人だったのである。

身も蓋もない言い方をすれば「優等生だった女の子が、ダメンズに騙されて痛い目を見る話」である。ただ、暁子が類まれな美貌を持っていること、だからこそ周りから浮いていたことを作中で描かれているために暁子の辛さが伝わってくるわけで(暁子役・橋本愛さんが神秘的な雰囲気の美人なので、説得力も増している)、その分だけ竹宮と出会いの美しさは身に染みる。特に暁子が竹宮の活動するライブハウスを訪れたシーン。歌っている最中の竹宮の視線が暁子にそそがれ、二人は見つめ合う。まさに二人の魂と魂が交錯しているかのような瞬間だ。平沢進さんの楽曲「金星」の美しさも相まって、二人の視線が交錯するシーンは竹宮がクズ人間と知った後に見ても、切迫感のある美しさにゾクゾクする。

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孤独で家族に対しても心を開けなかった暁子が、終盤で重一郎と胸襟を開いて語り合うシーンもまた美しい。悪の存在に取り込まれかけ、その事実に傷つきながらも、静かに受け入れる暁子。それを見守る重一郎。かつては乾燥しきっていた父と娘が、ようやく有機的に繋がったシーンだと思う。

 

家族の再構築

機能不全だった家族が、それぞれが別々の星の人間として目覚めたことで、よりバラバラになっていく。だが、よりバラバラになったことで逆に衝突が起こり、和解へと導かれていく。

ラストシーン、本当に火星人として地球を離れていく重一郎が最後に見た「忘れ物」が、家族であったことに胸をつかまれた。「ここではないどこか」を夢見ていた重一郎が「ここ」で手に入れた大事なもの。それに気付いたときには「ここ」を離れていることが悲しくもあるし、同時に重一郎の無味乾燥だった人生において大切なものを見つけられたことが嬉しくもあり。ごちゃまぜになってしまった感情を受け止めてくれるようなBGM「Finale」もまた素晴らしい(曲が流れるタイミングもこれ以上ないほどに絶妙だったりする)。

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正直なところ、最初に観賞したときはわけがわからず「何だこれ」と思ったりもしたのだが、二、三度繰り返し見ているうちに重一郎たちの鬱屈や覚醒による喜び、挫折、家族の再構築といった流れに心を持って行かれた。特にクライマックスの重一郎VS一雄・黒木から家族の再構築の流れは何度見ても美しい(おかげでレンタルで観た後でブルーレイ買っちゃったぞ)。

というわけで、私は「機能不全家族の再構築もの」として楽しみ、心動かされたが、周りから圧力をかけられようと火星人として地球のために戦おうとする重一郎の「ヒーロー物語」として観ても面白いし、「あるべき自分」を捜す人たちの話として観ても感動がある。観る人によって色んな楽しみ方ができる作品だと思う。

 

 

 

 

 

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*1:原作では木星人として目覚める伊余子だが、映画版では地球人に変更されている。

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