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主人公の変革の瞬間を描いた映画のシーンについて考えてみる

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※注意!『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』『モアナと伝説の海』のネタバレがあります。

 

 

 

『殻を破る』=変革する主人公たち

過去に「窓辺系」についての記事を書いた。軽く説明すると、窓辺系とは映画監督・スクリプトドクターの三宅隆太さんが提唱したものだ。いわゆる脚本教室の生徒が書きがちな脚本のタイプのうちのひとつ(そして、三宅さんが一番問題視しているタイプでもある)として著書『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』にて取り上げられている。生徒たちが書く窓辺系のストーリーは多くのバリエーションに及んではいるものの、

 いずれのパターンでも共通しているのは、主人公が極端に内向的で、思っていることを口にしたり、問題を解決するための具体的な行動をとったりすることがなく、かわりに「窓辺」に立ち、物思いに耽ったり、思い悩んだりする場面がくり返し出てくるという点です。

 

引用元:三宅隆太『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』、新書館

 

では窓辺系の何が問題なのかについては以下のように書かれている。

 脚本は「理屈」や「知識」ではなく、書き手の「感情」をつかって書くものだからです。

(略)

 しかし、書き手が「感情を抑えたり」「我慢したり」すると(つまり「心のブレーキ」をかけてしまうと)、脚本にも悪影響が及びます。

 主人公や登場人物たちの心にもブレーキがかかってしまうのです。

 

引用元:三宅隆太『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』、新書館

 

主人公が成長しないことについて私がどう考えているかについては「窓辺系」の記事に書いておいたので、もし良かったらこちらも読んでいただけると幸いだ。

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

さて、『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』では、以下のように書かれているくだりがある。

 ところが、典型的な『窓辺系』の主人公は限界まで追い込まれません。

 だから『殻』も破れないし、書き手であるあなたの心の中にも力強い変化や成長が起きないのです。(中略)

 『殻』を破っていないにも関わらず、あたかも変化・成長しているかのように描かれていても観客はついていけませんし、満足もできません。

 

引用元:三宅隆太『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』、新書館

というわけで当該書籍では、主人公が『殻を破る瞬間』について一章分割いて説明がなされている。そもそも殻がどのように形成されていくのかの心理学的なメカニズムなども詳細に説明されていて、なかなか興味深い。

我々は自分の生きる文化圏の影響を受けずに生きてはいけない。外界の影響を受け、人それぞれが思考パターンを作り上げていく。それは社会に適応するために必要として作り上げたものではあるが、時に思考パターンは自分本来の感情を抑圧する「心のブレーキ」となる。「心のブレーキ」をかけ続けることで、殻は分厚くなっていく。

 

 

『殻を破る瞬間』の例として三宅さんが挙げているのが、『ブルーサンダー』のクライマックス直前のシーンだ。この他、三宅さんの生徒たちが授業を受ける中でたどった変化も併せ、このように言及している。

 彼らは自発的に「リスクを伴うが、それでも手に入れたい、克服すべきなにか」を選択し、決断しています。だからこそ『殻』を破ることができ、変化・成長もできたのです。

 あなたが『殻を破る瞬間』を描く時も、主人公がなにかの選択を迫られ、リスクと本心の望みを両天秤にかけた結果、どちらかを選択・決断し、「内的葛藤」を具体的な「相対化された行動」として起こせるように意識してみてください。

 

引用元:三宅隆太『スクリプトドクターの脚本教室・初級篇』、新書館

殻を破るには、変革を起こすには、リスクがある。勿論、やり遂げればこの上ない報酬は待っているのだが、ハイリスク・ハイリターンの賭けに気軽に出られる人間なんてなかなかいないだろう。だから、主人公は悩み、苦しむ。だが、それを乗り越えるとき、殻どころかガラスを破壊するほどにダイナミックな変化になるのではないだろうか。

 

 

変革した実例

『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』

以前、『タクシー運転手 ~約束は海を越えて~』を観ていたとき、ハッとなった。とあるシーンが三宅さんの言っていたポイントを綺麗に押さえていたのだ。

 

軽く『タクシー運転手』について説明しておきたい。舞台は軍事政権下の韓国。主人公のマンソプは妻を亡くし、残された娘のウンジョンのためタクシー運転手として働いていた。だが、満足に家賃を払うこともできず、大家からも催促される始末。そんな折、彼は高額の報酬がもらえる仕事について耳にする。それはドイツ人男性ピーターをソウルから光州まで連れて行った後、ソウルまで再度送り届けるというものだ。

ピーターを光州まで連れて行ったマンソプだったが、街の様子が何やらおかしい。何と、光州では民衆がデモを起こし、軍と対峙している最中だった。実はピーターは記者で、光州での動乱を映像に記録しようとしていたのだ。マンソプとしてはたまったものではなく、何とかソウルに帰ろうとするものの、ひょんなことから光州で一晩を過ごす羽目に陥る。だが、その中でマンソプは光州の人たちのあたたかい人柄に触れ、彼らと親睦を深めていく。

その夜に大規模な軍事衝突が発生し、マンソプも巻き込まれ、あわや殺されるかというところまで追いつめられてしまう。ここでマンソプが死んでしまえば、ひとり娘のウンジョンは孤児になる。だが、ソウルへ帰るということは、光州の人たちを見捨てることに等しい。

心残りを感じつつも、マンソプは光州を後にしてソウルへと向かう。その途中の街で、彼の葛藤は遂に頂点に達する。

 

問題のシーンは以下の通りだ。

ウンジョンに贈る靴を買ったばかりのマンソプは、タクシーの中で彼女のことを考える。いつも汚れた靴を履いている娘におしゃれな靴をあげたら、きっと喜ぶに違いない。そんなことを考えながらマンソプはソウルへ続く道を走っていたが、やがて車道の真ん中で車を止める。「どうしたらいい?」と自問するマンソプ。娘のために真っ直ぐソウルへ帰るべきか、真反対の光州へ戻り仲間と戦うべきか。動こうとしないマンソプを急かすように、後続車がクラクションを鳴らす。涙を浮かべて苦悶した末、彼は大きくハンドルを切り、光州へと向かって猛スピードで走り出す。

 

マンソプが光州へ向かうために大きくハンドルを切る。この瞬間に彼は殻を破っている。変革を迎えたのだ。

 

そもそも、前半部分のマンソプは非常に俗っぽい。ひとりでウンジョンを育てるため、金を稼がなければならないから、金に対して非常にがめつい。商売道具のタクシーが傷つくのを非常に嫌がり、少しでも傷つけられると相手を怒鳴りつける。ピーターを連れた光州に入ったは良いものの、軍事衝突の最中だと知ると、自分の身とタクシーが傷つくのを恐れ、ピーターを置き去りにしてソウルへ逃げようとする。

愛すべきところはあるものの、マンソプは利己的な人間だ。自分とウンジョンのことだけを第一に考えている。

 

しかし、光州の人たちと交流し、彼らの苦しみを知ることで、利己的だったマンソプは変わり始める。本編中でマンソプは二度、光州を脱出しようと試みる。一度目は自分可愛さにピーターを置き去りにしようとしたとき。二度目は命の危機に遭ったことで、ウンジョンを思って光州を抜け出そうとする。一度目はデモ隊の青年たちに見つかり、脱出は頓挫する。だが、二度目はマンソプ自身の心が光州を去ることを良しとしない。

 

ここの場面が上手くできているのは、車道で立ち往生したマンソプの姿が、殻を破るべきか否かの葛藤を表現している点だと思う。安全なソウルへ真っ直ぐ向かうか、危険な光州へ向かってUターンするか。視覚的にマンソプの葛藤を感じ取れるようになっている。さらに、後続の車が急かすようにクラクションを鳴らすのだ。殻を破るのかどうか、変革するのかどうか、早く決めろと言わんばかりに。そして、極限まで追いつめられたマンソプは、タクシーを反転させる。彼は危険に満ちた光州を選んだ。

この瞬間、マンソプは利己的な人間から、自己犠牲をいとわない英雄へと変革した。光州へと向かう彼には、最早迷いはない。そして光州に着いた後は、あれほど汚れることを嫌ったタクシーで砲弾飛び交う戦場に飛び込んでいくのだ。

上記のシーンは、大きくハンドルを切るという行為を以てマンソプの変革を描いた素晴らしいシーンだと思う。

 

 

うっかり『タクシー運転手』について熱く語ってしまったが、勿論、他の映画にも主人公が殻を破るシーンは沢山あるわけで。

 

 

『モアナと伝説の海』

個人的には『モアナと伝説の海』も挙げたいと思う。

では、主人公モアナはどこで殻を破ったのか。私は「I am Moana」を歌うシーンだと思う。

女神テ・フィティから心が盗まれて以来、海は荒れ果て、人間は航海ができないようになった。だから、モアナたちモトゥヌイの村人は居心地の良い島に閉じこもって満足している。『モアナと伝説の海』とは、そんな世界の話だ。

海は危険だし、モアナはいずれモトゥヌイの村長となる使命がある。にもかかわらず、何故だか旅に出たくてたまらない。

 

平和だったモトゥヌイに危機が訪れたため世界を救う旅に出たが、それでも迷いは消えない。今、海が荒れているのは女神テ・フィティの心が盗まれたため。何故か自分は海に選ばれてテ・フィティの心を預かったため、旅に出た。犯人であるマウイをテ・フィティのもとへ連れて行き、彼に心を返却させる必要がある。色々とトラブルもあったが、マウイは何とか仲間になった。しかし、まだわからない。海に選ばれて旅に出たが、どうして海はモアナを選んだのだろうか。

己の迷いを振り払うためか、モアナはテ・フィティの心を盗んだ犯人マウイに何かあるたびに言う。「私はモトゥヌイのモアナ。船にお乗り。海を渡って、テ・フィティの心を返して」マウイをテ・フィティのもとへ運び、心を返させる。それが海に選ばれたモアナの使命だ。

 

そんなモアナが旅の途中、どうしても越えられそうにない困難に出会う。頼りだったマウイは武器が壊れたことにより、モアナのもとから去って行ってしまった。自棄になったモアナは「私にはムリよ。他の人を選び直して」と言って海にテ・フィティの心を差し出す。そして、海はそれを受け入れるのだ。この瞬間、モアナは海に選ばれた存在ではなくなった。旅をするための理由は、全て消え去った。

 

打ちひしがれたモアナのもとに、故人である祖母の霊がやって来て、モトゥヌイに帰るかと問いかける。海に選ばれた存在でなくなった今、危険を冒してテ・フィティのもとへ行く必要はもうない。諦めきったモアナは故郷に戻るためオールを漕ぎ出そうとするが、何故か手が止まる。

そんな彼女に「お前は誰なのか」と祖母は問いかける。問いに答えるように、モアナは自分の身の上や、旅で学んできたことを思い起こしていく。モアナはモトゥヌイの村長の娘であり、旅人だった祖先を持つ。モアナ自身も実際に旅をして、多くのことを学んできた。だが、まだ他に何かがある。彼女を旅へと駆り立てる他の何か。それを見つけ出した瞬間を描いたのが、モアナが「I am Moana」を歌うシーンだ。

このシーンを境に、モアナの中で旅の主体が変わったのが興味深い。それまでのモアナにとって、この旅は「マウイをテ・フィティのもと連れて行き、彼に心を返させる」ためのものだった。「I am Moana」の後、モアナは「私が海を渡り、テ・フィティの心を返す」と旅の目的を語る。マウイが主体でモアナはサポーターでしかなかった旅が、モアナ自身が主体となる旅へと変化したのだ。何ゆえに自分は旅を欲していたのか、それがわかった彼女が、旅人へと変革した瞬間なのだと思う。

 

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象徴的な死

それにしても、なぜ変革するのに限界まで追いつめられなければならないのか。精神分析家の河合隼雄さんは『影の現象学』の中で、とある詩を引用して以下のように述べている。

 この詩では、とらわれ、死に導かれるのは、魚である私であり、それを釣りあげ料理するのも私である、として表現されている。「私の少年時代は砂の上に死んだ」という言葉が示しているように、少年から成人へと変化するとき、その人はひとつの死の体験をしなければならない。通過儀礼イニシエーションの基本的な構造を支える死と再生のパトスがここに詩として歌われている。

 

引用元:河合隼雄『影の現象学』、講談社

 

大人になることは、子供である自分の死を意味する。大人になった後も、変革を迎えるということは、古い自分を「象徴的に」死なせる必要がある。

そう考えると、映画版『魔法少女まどか☆マギカ』の魔法少女への変身シーンは、古い自分の死から新しい自分へ生まれ変わるような表現がされていて、結構面白いなぁと思ったりもする(サナギから孵るように古い自分の体を破って生まれ出るマミ、古い自分を引き裂くかのような杏子など)。魔法少女たちも一回一回象徴的に死んでは生まれ変わっているのかもしれない。

 

「この通り、主人公は成長しましたよ!」といった感じの描写をしている窓辺系作品をちょくちょく見かけるときに、私が何だかモヤモヤしてしまうのは、象徴的な死というしんどい体験をせずに「成長しましたよ!」と言ってのけるのは狡いんじゃない?と思ってしまうからなのかと思う。成長していないのに、さも成長しているように振る舞っている自分自身という人間と四六時中付き合っているのに、フィクションの中でも同じタイプの人間を見せられてもなぁといった感じか。

未熟者だからこそ、自分にはできないことをやってのける主人公たちに感動させられたいのかもしれない。情けない締め方になったが、今回はこの辺で。

 

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