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『西部戦線異状なし(1930年版)』感想(ネタバレあり)

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※注意!『西部戦線異状なし(1930年版)』のネタバレがあります。

 

 

 

 

あらすじ

欧州大戦に於て西部戦線の戦いたけなわなる頃。ドイツのある町の学校の窓下を戦場に向かう大部隊が通過しつつある。そこの教室では老教師カントレックが生徒達に愛国主義を吹き込んでいる。進軍の雑音と教師の弁舌に若い生徒達の血潮は燃えて彼らは直ちに出征を志願する。

 

引用元:Amazon.co.jp: 西部戦線異状なし(字幕版)を観る | Prime Video

主人公はカントレックの教え子ポールと級友たち。祖国のために戦う英雄となるため、純粋なまなざしで兵隊に志願する。

 

 

戦闘シーンの迫力

1930年の映画だからと油断していたが、戦闘シーンの迫力が物凄い。ただ銃撃があって、兵が倒れていくだけの描写ではない。こんな言い方は不謹慎ではあるのだが、「第一次世界大戦の戦い方って、こんな感じだったのか」と興味深ささえ覚えた。

塹壕の中で敵兵の襲来に備えているドイツ軍の兵たち。やがて地平線の向こうから敵兵が現れる。鉄条網に阻まれ、ドイツ軍の機関銃に撃たれ、夥しい数の敵兵たちが死んでいく。しかし、それでも敵兵は後から後からやって来る。やがてドイツ軍の守備は突破され、塹壕の中での血みどろの白兵戦へと移行する。

作中における最初の実戦で、これらの流れが克明に描かれている。この描写に圧倒されてしまった。

 

とにかく突撃する兵たちがバタバタと死んでいく。それでも後から兵たちが途切れることなく突撃していく。そんな兵たちに容赦なく砲撃が襲いかかる。大地がめくれて土が吹き上がる。機関銃や砲撃の耳障りな音。とにかくリアルだ。いや、私は戦場を経験したことはないのだが、それでも痛みや苦痛が伝わってくる。

 

第一次世界大戦が終結したのは1918年。この映画の公開からたったの12年前だ。スタッフの中には、まだ戦争の生々しい記憶を抱えた人たちもいたのではないだろうか。だからこそのリアルさなのかもしれない。

 

コメディリリーフ的なキャラクター

基本的にはシリアスな物語で、悲惨な戦場の描写も多い。ただ、観客にとって息抜きとなるようなキャラクターもいるのは、非常に有り難かった。

例えば先輩兵として登場するカチンスキー(カット)。右も左もわからず入隊したポールたち学生に、戦場で生き抜くすべを教えてくれる存在だ。ひと言で言えば、「肝っ玉のでかいおやじさん的キャラクター」だろうか。

戦争で疲弊していくポールたちを元気づけるのがカットだ。何かと軽口を叩くカットだが、彼自身は歴戦の兵だ。だからこそ、彼の軽口にも頼もしさがある。カットがいてくれることで、見ている私も精神的に救われることが何度もあった。

 

もう一人挙げておきたいのがチャーデン。彼も先輩兵のひとりで、やたらと食い意地が張っているのが妙におかしい。とにかく食べ物描写がある所には、チャーデンがいる。悲惨な戦闘後、皆が呆然としている最中でも、チャーデンはしっかりパンを食べている(パン自体は血に濡れているが、その部分は切り落として残りはしっかりと食べるという有様)。

また、ちょっとした休息の時間にポールたちがフランス人女性と出会うシーンがある。何しろ、軍隊生活で女性との接触に飢えている。ポールたちは色めき立ち、チャーデンも女性を落とす気満々だ。だがこちらは四人、女性は三人。チャーデンはポールたちに「自分は目を付けている女性がいるから、残りの女性を分け合え」と言うのだが、結局彼はポールたちに丸め込まれたカットにしこたま酒を飲まされる。その隙にポールたちは女性たちの家へと向かったわけだが、チャーデンが気付いた時にはもう遅い。悔しがってその場を飛び出そうとするも、酔っ払って倒れてしまうチャーデンが可笑しいったらない。

このシークエンスは後半にあるのだが、段々と戦況が悪化していく中での一服の清涼剤のようなシーンだった。

 

とにかくこの作品は悲惨だ。有望な若者が戦争によって未来を潰されていく。終わり方だって、あれはバッドエンドというほかない。

そんな悲惨な物語だからこそ、要所要所で挟み込んでくれる「笑い」が心の救いとなる。この作品の、単に悲惨なだけではないところが私は好きだ。

 

侵されていく人間性

物語開始直後、教室で教師が檄を飛ばしている。彼は教え子に対し「祖国のために命を捧げよ」「個人の将来は捨てるべきだ」と訴えかける。中には迷っているそぶりの生徒もいるが、彼らのリーダーであるポールが出征を表明すると、続々と志願者が現れていく。

それでも志願できずにいるベームをポールや仲間たちが囲む。例えば現代でも「みんなで一緒の部活入ろうよ」なんて言いながら相手を誘ったりすることがあると思うが、ポールたちの誘いも全くノリが同じだ。「一緒の部活入ろうぜ」レベルのノリで、若い彼らは戦場に行くことになる。

 

『映像の世紀 第2集』によれば、実際の一次大戦でも友達同士で参戦した「友だち部隊」などがあったという。また、兵たちが「クリスマスまでには帰る」と言って出兵したことは有名な話だ。現実でも作中のような気軽なノリで戦地に赴いたケースは多々あったのだろうなと思う。

 

練兵場でも、ポールたちのノリは軽い。宿舎で彼らは語る。早く戦争に参加して勲功を上げたい、と。うち1人が「俺は騎馬兵になる」と言う。

実際に彼らが送られた戦地では、騎馬兵の戦いなどなかった。あるのは塹壕と機関銃などの大量破壊兵器だ。

 

前線に送られたポールたちは、先輩兵のカットとともに鉄条網張りをするよう命じられる。その最中に敵の攻撃を受け、ベームが命を落とす。あの最後まで出征を渋っていたベームである。

ベームの死を皮切りに、ポールたちの軽いノリはあっという間に崩壊。すぐに戦場の現実に晒されることになる。

 

祖国を守る英雄になろうとしたポールたち。彼らの想像と異なり、現実の戦場では死ぬか生きるかだけの戦いしかなかった。時には攻撃を許されず、塹壕の中でただただ敵の砲撃に耐えることを強いられる。突撃を命じられたら命じられたらで、待っているのは近代兵器によるグロテスクな殺し合いだ。

 

その結果、ポールたちから人間性が剥ぎ取られていく。友人同士で負傷した友人ケメリックの見舞いに行くシークエンスでは、ギョッとするくだりがある。ケメリックのブーツが上等な革製だと気付いたミュラーが、譲ってほしいとねだるのだ。曰く、ケメリックにはもう必要ないだろうが、自分なら十分に活用できる。ケメリックは片脚を失っていた。

無神経ここに極まれりといった所なのだが、当時の塹壕戦の話を聞いていると、ミュラーがこんなことを言う気持ちがわかるような気がしなくもない。長く塹壕の中で戦っていると、雨に打たれることもある。雨によって塹壕の中は泥まみれと化し、足は冷たい泥で感覚を失い、やがて水虫や凍傷に蝕まれていく。塹壕足と呼ばれたこの症状によって、足を失った兵もいたという。冷たい泥から自分の足を守るため、ミュラーはより良いブーツを欲したのだろう。

とはいえ、ミュラーがケメリックに言った言葉は、平時で精神的に余裕がある状態では出てこないものだと思う。終わらない非日常の中、常に危険にさらされている中で、何か大事なものが失われていく。その恐ろしさが詰まったシーンだった。

 

また、ポールが飛び交う銃弾を避けるために穴の中に避難して以降のシークエンスも恐ろしい。敵兵が穴の中に飛び込み襲いかかってくるが、ポールはナイフでこれを迎え撃つ。敵兵は倒れ、ポールは自分がやったことに狼狽える。罪悪感から逃げだそうにも、穴の外は相変わらず銃弾が行き交っているため出られない。不謹慎ではあるが、上手い状況設定だと唸らされた。穴の中という狭い空間で、ポールは自分が傷つけた敵兵が衰弱していくのを見守ることになるのだ。敵兵を看取った後、ポールは彼にも家族がおり、自分たちと何ら変わりのない人間だったことを知らされる。この戦争には正義も悪もない。ただ、血の通った人間同士が殺し殺されているだけだ。

 

戦争の中で心身共に疲弊しきったポールは、もう冒頭の希望に満ちあふれた青年ではない。現実を知り、地獄を知った。ならば『西部戦線異状なし』とは、一人の青年が人間性を失ってしまうという物語なのだろうか。個人的には、違うような気がする。

ラストシーンで、ポールは戦場に蝶の姿を見つける。凪いだ顔で蝶に手を伸ばすため、彼は塹壕から身を乗り出していく。

蝶はポールの魂の象徴なのではないだろうか。

西欧で蝶や蛾の総称としてPSYCHEが用いられることがある。これはギリシャ神話に登場するエロスに愛される蝶の羽をつけた美少女の名に由来するが、もとは霊魂(プシュケー)を人格化した名前である。

 

引用元:蝶(ちょう) | 季節のことば

極限の状況に置かれても、彼は心を、魂を諦めようとしなかった。そんなふうに思えるから、私は危険を冒して塹壕から身を乗り出すポールの姿にハッとさせられる。

祖国のために命を捨てろと言われ、非人間的な環境に放り出されてなお、消し去れないものがある。それを痛感させられたシーンだった。

 

希望が叩き潰される

だが、ポールの手は蝶に触れることができずに終わる。このシーンだけでなく、『西部戦線異状なし』ではポールたちにとっての希望が叩き潰される描写がある。先に述べたカットにしても、彼がコメディリリーフであるからこそ辛く感じさせる展開が待っている。まさにラクダの背骨を折った最後の一本の藁という言葉がふさわしい。度重なる悲劇にも辛うじて耐えてきたポール。そんな彼にとってのわずかな希望を叩き潰していく、非常な歴史の渦。まさに理不尽だ。だが、理不尽に対して人間が立ち向かえるすべなんてあるんだろうか。そんな絶望を覚えさせられる。

 

 

最後に

この作品が公開された1930年のドイツは民主的なワイマール憲法下にあったが、ナチスが徐々に議席を拡大しつつある時期でもあった。1933年にヒトラーが首相となり、1939年にドイツはポーランド侵攻を開始。これがきっかけで第二次世界大戦が始まる。

これほどの映画が公開され、ヒットしてもなお、戦争が起こる時は起こるのだと思うと、何とも言えない気持ちになる。作中、ポールが現実の戦場を知らない大人たちに言いたい放題言われるシーンがあるが(まさにクソバイスという言葉がふさわしい)、想像力の欠如というものの恐ろしさを実感させられた。想像力の欠如によって教師は教え子を戦地に送り、想像力の欠如によってポールたちは気軽に戦地に赴き地獄を見た。現実の痛みは想像の先にある。少々頭をこねくり回したところで、実感できやしない。

 

それでも『西部戦線異状なし』の存在が無意味だったとは思えないし、思いたくない。この作品が直接的に描いている戦争の虚しさや悲惨さだけでなく、寓話的に描いている「人間とは何か」について、まだまだ私たちは学べると信じたい。

 

 

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