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戦メリ原作者L・ヴァン・デル・ポストの『新月の夜(The Night Of The New Moon)』を読む【4】

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※注意!The Night Of The New Moon『新月の夜』『影の獄にて』『戦場のメリークリスマス』のネタバレがあります。

 

 

※前回の記事はこちら

nhhntrdr.hatenablog.com

 

 

The Night Of The New Moon『新月の夜』感想④

「私」は生きて収容所を出られないのではという可能性も考えているのだが、その根拠となるものが示されている。この部分が個人的には非常に興味深かった。

 

なぜ日本の兵たちは、ここまで捕虜に対して苛烈に当たるのか。「私」はその原因を歴史の中に求めている。かつて西洋人は東洋の世界を侵略し、その生活や精神を東洋人から取り上げ、西洋式のそれを強制した。日本兵の西洋人捕虜に対する仕打ちは、それに対する歴史的復讐なのだと「私」は感じる。何世紀にもわたって東洋人は西洋人により精神的に去勢させられ、西洋文明に従うように誘導された。しかし、その呪縛は解かれて、東洋の怒りが噴出したのが今の状況なのである。

 

So much were the Japanese themselves caught up in the psychology of this aspect of their conquest that int completely dominated their view of their European prisoners. They never saw us as human beings, but as provocative symbols of a detested past. 

 

引用元: Laurens Van Der Post, The Night Of The New Moon (Vintage Classics) (English Edition)

日本人たちは無意識下の怒りに囚われ、西洋人捕虜たちを「憎むべき過去の挑発的なシンボル」だと考えている。だからこそ、日本兵の捕虜たちへの虐待が苛烈になったと「私」は考える。「私」は日本を訪れた経験があるのだが、1926年の第一回目の訪問時すでに日露戦争の勝利によって歴史的復讐心が胎動しつつあったことを感じていたことも明かす。

 

さらに「私」は日本人の行く末を案じる。「私」は最終的に日本が敗北することは確信していたが、その敗北が破滅的なものになるのではなかろうかという可能性があるためだ。日本人の無意識下の怒り、彼らの名誉への執着*1を鑑みた上で、日本人たちは最終的に捕虜も巻き添えに自決するのではないかと「私」は恐れているようである。

 

『新月の夜』から見えてくる『戦場のメリークリスマス』の側面④

河合隼雄氏の著書『影の現象学』にて、以下のような記述がある。

 ドイツにおけるナチスの台頭を、ユングはこのような見方で見ていた。一九三六年に発表した「オーディン」というエッセイにおいて、ナチスの動きはキリスト文明においてあまりにも抑圧された北欧神話の神のオーディンの顕現としてみるとき、もっともよく理解されると述べている。オーディンは荒ぶる神である。それはギリシャの神ディオニソスと同じく、人々を凶暴な群れと化し、本能のおもむくままに嵐のごとく荒れ狂わせる。本能の抑制に徳を見出すキリスト教は、これらの神を、ひづめをもった悪魔のイメージをかぶせて下落せしめてしまう。しかし、長らく地下にひそんでいたオーディンが、千年以上も経た後にドイツ国民の心の意識に浮かび上がってきたのである。

 

引用元:河合隼雄著『影の現象学』、講談社

 

太平洋戦争下の日本にしろ、ナチス政権下のドイツにしろ、それらの熱狂が突発的に現れたものではないという見方は中々に面白いなと思う。

ドイツの場合はオーディンの影響が示唆されているが、日本ならスサノオとかになるのだろうか(あと、般若面で表されるような鬼女とかもあるか)。もちろん、その国の神々が国民を扇動しているのだと言いたいのではなく、荒ぶる神の神話が生み出され、人々の心に定着していったのは、それぞれの国の人間の深層心理にオーディン的、スサノオ的なものがあったからなのではと思うわけである。

 

長年かけて醸成されていった民族的な感情によって、戦争なり内乱なりの大きな出来事が起こる。そこに暮らす人々は、そういった出来事の影響を受けずにはいられないだろう。「影さす牢格子」(『影の獄にて』収録)のロレンスとハラについて、河合氏が以下のように述べている。

ロレンスとハラの関係の背後には、日本と英米の途方もない影が関連しており、それらは全体としてアレンジされていたと感じられる。

 

引用元:河合隼雄著『影の現象学』、講談社

あの二人の関係性は突如として発生したものではない。むしろ、東西の影が対峙する中に放り込まれたロレンスとハラ、という風に考えたほうが良いのかもしれないと思えてくる。「影さす牢格子」にしろ『戦場のメリークリスマス』にしろ、物語の大半は収容所内が舞台で、非常に閉鎖的な空間となっている。ロレンスとハラの関係は、収容所というミニマムな空間の中で起こったごくごく個人的な関係のように捉えてしまいがちだが、その後ろには歴史の流れ、民族の怒りや驕りなどが絡まり合っている、実は壮大なものなのかもしれない。

 

大島渚監督の『戦メリ』以外の作品にしても、登場人物たちが時代の影響を受けつつ足掻く様子を描いたものが多いように思う。学生運動をメインに扱っている『日本の夜と霧』は言うまでもなく、60年安保の敗北が影響を落としているかと思われる『日本春歌考』、戦後民主主義の限界が見えてきた頃の歪みがさらけ出された『白昼の通り魔』等々。

『新月の夜』と『戦メリ』の類似点を見出そうと思って読んできたわけだが、色々なものに繋がってくるものだなと実感したりする。

 

(【5】に続く)

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*1:翻って言えば、「恥への恐れ」とも言えるのではないかと私は思う

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