映画っていいねえ。本っていいねえ。

映画や本の感想など。ネタバレ全開なので、ご注意ください。

思春期を描いた名作を読みつつ、あの頃のギラギラした苛立ちについて考えてみる――原田宗典『十七歳だった!』、綿矢りさ『インストール』『蹴りたい背中』

今回はネタバレをしない予定なので、いつもの注意書きはナシの方向で。思春期についての話である。

 

 

 

原田宗典さんにハマっていたあの頃

久しぶりに原田宗典著『十七歳だった!』を読んだ。著者の17歳のころを綴ったエッセイである。

著者・原田宗典については、今だと原田マハの兄というとわかりやすいだろうか?宗典さんの著作にはちょくちょく妹さんの描写があったので、マハさんのことを知ったときは「エッセイの中に出てきたゆきこちゃん!?」と非情に馴れ馴れしく無礼な反応をしてしまった。ついでに「幼い頃、お兄さんから空中飛び膝蹴りを受けたのは本当ですか!?」と心の中で、馴れ馴れしく無礼に尋ねたものだった。雲の上の大作家に対して。

 

「久しぶりだから、自分の感覚も変わって、そこまで楽しめるかな?」と不安に思ったりもしたが、いや~、笑った笑った。かつて貪るように読んでいたのに、それでもなお要所要所で不意打ちを食らって笑わされる。この本を愛読していた、まさに17歳だった私が蘇ってきた。

 

思春期のころの私は、もっぱら今でいうラノベを読んでいた。本屋に行ってもラノベコーナーに直行。新潮文庫講談社文庫のような一般向け文庫のコーナーには決して立ち寄らなかった。

なぜなら、「こんなところにいるのを知人に見られたら大変だ!」と思っていたからである。何が大変なのかというと、あの頃の私は一般向け文庫コーナーにはエッチな本が置かれていると思い込んでいたからである。私にとっての一般文芸というものは、団鬼六作品そのものだったらしい。

そういうわけで知り合いからエッチな本を読むスケベ女だと勘違いされないよう、私は頑張って一般文芸コーナーを避けていた。

そんな中、親の本棚から見つけたのが原田宗典さんの『元祖 スバラ式世界』である。読み始めて夢中になった。軽快な文章、著者を襲う珍妙で笑える出来事の数々。

「もっとこの人のエッセイを読みたい!」

あれは燃え上がるような欲求だった。かくして、あれほど恐れていた一般文芸のコーナーに足を踏み入れ、私は彼のエッセイを小遣いの許す限り買いあさったのである。

 

 

とにかく原田さんのエッセイは取り上げられている出来事も面白いが、文章も面白い。久しぶりに読んでみて吹きだしたのが以下の箇所だ。

病み上がりで久しぶりに数学の授業を受けたら、先生が黒板に奇妙なカーブを描いて、

「このグラフが……」と説明し始めたのである。この瞬間のぼくの驚きを想像してもらいたい。

「グラフというのはまっすぐなものなのではないのか!?」

 と思わずハニワ顔になってしまった。

(中略)

 で、結局どうしたのかというと、関数集合論理は一旦こっちへ置いておこう、という曖昧な態度に出た。

「置いておけば、やがて発酵するかもしれんしな」

 などとワケ分からないことを考えたりして、自分をごまかしたわけである。

 

引用元:原田宗典著『十七歳だった!』、集英社

すごいセンスだと思いません?もう息つく暇もなく繰り広げられるおかしさに、改めてノックアウトされてしまった。

 

原田さんのエッセイで一番好きだったのが『十七歳だった!』。17歳のただ中にいた私にとって、共感するところが多かったし、同い年の男子の考えを垣間見ることができたのも楽しかった。

 

今読んでみても、あの頃の肥大した自意識とか、根拠のない万能感とか、かっこつけようとして結局空回りする滑稽さとか、身に覚えのあることばかりでむず痒いやら、懐かしいやらで楽しいったらない。

 

 

10代の鬼才が書いた名作『インストール』『蹴りたい背中

本当に思春期のあの頃の感覚って何だったんだろうな、と不思議に思う。ある程度肩の力が抜けてきた今となっては、自分自身でも理解不能だ。

今では理解できない、あの直視しがたいギラギラ感を見せてくれるのが、綿矢りささんの『インストール』と『蹴りたい背中』である。

 

どちらも混じりっけなし純度100%の思春期ギラギラである。何しろ『インストール』は綿矢さんが17歳のときの、『蹴りたい背中』は19歳のときの作品なのだ。

 

個人的には綿矢さんの作品だと、センスがほとばしりながらもいい具合に肩の力が抜けている『かわいそうだね?』や『勝手にふるえてろ』が好きだ。ふたつとも、何かと考えさせられる部分がありつつも、気楽に読める。

だが、『インストール』と『蹴りたい背中』は、私に気楽に読むことを許してくれない。覚悟を迫ってくるのだ。

 

とにかく文章からギラギラ感があふれてくる。文章が発光している。美しく、そしてギラついている。あの頃に抱いた理由の分からない不満とか、苛立ちとかが、この中に真空パックで詰め込まれている。

これを10代で書いたのか、と思うと、ただただ今の私はひれ伏すしかできなくなる。

 

私は綿矢さんと似た年で、彼女がデビューしたというニュースを聞いたときも、最年少で芥川賞を受賞したと聞いたときも、激しい嫉妬に駆られた。

「どうせ、若いから贔屓されたんでしょ! 内容はたいしたことないんでしょ!」

当たり前だが、読みもしないで貶していた。

「私だって、彼女くらいの作品は書けるし」

そんな根拠のない自信のもと、読む価値なしの烙印を一方的におしたのだった。

 

しかしなあ、当時の私よ。あんたが書いていた小説って、根暗の女の子が都合よくイケメンに出会い、「君には才能があるよ」とか言われて、何もしていないのにクラスの陽キャ女子を見返して人生大逆転、な内容だったよな。今発掘されたら、私は今すぐ東尋坊に向かわなければならない。

 

綿矢さんの作品にも今でいうスクールカースト問題が絡んでおり、どちらの主人公もクラスにいまいち馴染めないという問題を抱えている。しかし恐ろしいのは、綿矢さんが主人公に必要以上に自己投影せず、メタ的な視点で見ていることだ。

例えば『蹴りたい背中』で主人公ハツが、生徒と仲のいい部活の顧問に苛立ちを覚えるシーン。顧問を褒める先輩に、ハツは言う。

「先生は飼い慣らされているだけじゃないですか。」

吐き捨てるように言ってから、しまった、と思った。空気が不穏に震え、肌寒くなる。先輩は前を向いたまま、低い声で吐き捨てた。

「あんたの目、いつも鋭そうに光ってるのに、本当は何も見えてないんだね。一つだけ言っておく。私たちは先生を、好きだよ。あんたより、ずっと。」

 

引用元:綿矢りさ著『蹴りたい背中』、河出書房新社

10代でこんなシーンが書けるなんて、と今やおばさんになった私は戦慄する。あの頃の私は、風車に突撃するドン・キホーテそのものだった。

 

 

お馬鹿で愛おしい思春期

事ほど左様に、思春期とは根拠のない万能感、理由なき苛立ちと不満に満ち満ちている。今思うとバカだな~と思ったりもするが、あの頃の私の真摯さを思い出したりもするのである。

 

序盤にて、一般文芸コーナーにいるところを知人に見られ、スケベ女だと思われたらどうしよう、と思っていたエピソードを紹介した。何てことはない。本当にスケベ女だったから、そんなことを心配したのである。

別にエッチなのは男子に限った話ではなく、女子だって性的な話に興味を抱く。だが、同時に働く性に対する潔癖さが、素直にエロを求めさせてくれない。

「こんなの不潔!私はこんな不潔なものなど読むもんか!」と言いつつ、新聞をパラパラめくっていたときに目に飛び込む連載小説のセックスシーンに反応するのである。「何て不潔な小説!」と思いつつも、一文字も見落とさぬよう瞬間的高精度読解力でエロい部分を読み進めていく。

バカだな~。でも、あの頃の私は小説にぽっと出てくるエロ描写に真摯に向き合っていた。今では小説を読んでいる最中にセックスシーンがでてきても、鼻をほじりながら「またかよ~。たるいわ~」と思いながら読んでいる私とは大違いである。

 

思春期のころのあの真摯さで生きていくのは、年を重ね、代謝も衰えて疲れやすくなった身には、あまりにもきつい。

ただ、たまには思春期を描いた作品を読みつつ、あの頃の私と対話してみるのも良いのかもなぁと思う。